「死にともない」の仙厓和尚
先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「(あすへの話題)死にともない 静岡文化芸術大学学長 熊倉功夫
臨終に際して「死にともない」といったのは一休和尚だったように憶(おぼ)えていたが、正しくは仙厓義梵(せんがいぎぼん)(1750~1837)であったとされている。仙厓和尚は「西の一休」ともいわれた傑僧だったから、どこかで一休さんと混同されたのだろう。仙厓和尚は日本最初の禅寺、博多の聖福寺住持になった。しかし何より仙厓和尚が有名なのは飄逸(ひょういつ)な禅画を数えきれぬほど描いたことである。たとえば大きな円を描いて(禅でいう円相)、脇に「これをくふて茶のめ」と賛をしたものがある。画餅という言葉があるが、喰えない大きな饅頭を描いてこれ喰うて、まずお茶一服、とはずい分人を喰った絵だ。
仙厓和尚は、禅僧としてすばらしいキャリアをつみ、当時としてはスーパー長寿の88歳で臨終を迎えたのだから、最後のお言葉をと申し出た弟子たちは立派な遺偈(ゆいげ)がきけるものと思ったにちがいない。そこへ「死にたくない」の一言。弟子たちは驚いたが、いかにも仙厓和尚らしい。
どのように死を迎えるか。「終活」の本が売れているそうである。71歳をこえた私も無関心ではいられない。自然にまかせて死を迎えたいと思って尊厳死協会にも入り、過剰な延命措置を拒否する証書も作ったが、しかし私がまだ元気で意識がはっきりしているからそう思うので、本当に死に直面したら「死にともない」と思うのではないか。それも人間の本性である。
仙厓和尚は本性を受け入れた上で従容として死を迎えたのであろう。しかし私のような凡人は、「死にともない」という気持ちだけが、どんどん肥大してゆくのではないかとおもえて、それが恐ろしい。」(2014/03/18付「日経新聞」夕刊p1より)
前から、ある立派なお坊さんが、いざ自分が死ぬ時になると「死にたくない」と言った。という話は昔から良く聞いていた。しかしそれが誰だったかまでは調べたことがなかった。
どうもそれは、仙厓和尚と言うお坊さんらしい。しかし、Wikiを見ると「辞世の言葉は「死にとうない」だったという逸話がある。ただし、同様の逸話は一休宗純にもある。」とある。次いでWikiで「一休宗純」を見ると「臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。」とある。どうも上の記事の「臨終に際して「死にともない」といったのは一休和尚だったように憶(おぼ)えていたが、・・・」という記憶も正しいようで・・・
「死にともない」で検索したら、臨黄ネットというサイトで、こんな法話が見つかった。
「「死にともない!」今、精一杯の一言
静岡県 ・潮音寺住職 渡邊宗禅
江戸時代の終わり頃、九州は博多の聖福寺に、「仙厓さん」と呼ばれ、多くの人々に慕われた禅僧がおられました。
晩年のこと、88歳の仙厓さんは、いよいよ臨終というまさにその時、「死にともない」とつぶやきました。それを枕元で聞いたお弟子さん達はビックリ仰天です。
「え、いったい何を仰るのですか!」
「どうか有り難い末期の一句をお願いします」
と、皆が詰め寄りました。すると仙厓さん、渾身の精気をふりしぼって、
「ほんまに、ほんまに、死にともない!」
と言って息を引き取られたのでした。
この逸話、みなさんはどう思われましたか。「仙厓さんって、本当に親しみやすいお方だね」。「私たちと同じで、やっぱり死ぬのは嫌なんだよ」と、つい笑いがこぼれてしまいます。けれど、この「死にともない」の一言には、何かもっと深い真実が込められているのではないでしょうか。
私たちは誰だって「死にたくない」と思っています。でも「人生」とは「生」と「死」がセットになっているものです。この世界に生まれて来たからには、いつかはこの世を去って行く日が来ることを、私たちは知っているはずです。
「人生」はまるで「旅」のようなものと良く言われます。
・・・・
もし、この「人生」を「旅」として見ることができたなら、辛く苦しい出来事や嫌なことに対する見方も今までとは少し違ってくるかもしれません。
すべては過ぎ去って行く旅の途中の出来事。思いがけない喜びや悲しみでさえも、ふいに訪れそして過ぎ去って行くことでしょう。
私たちはそんな「人生」という「旅」をちゃんと楽しんでいるのでしょうか。人生の旅行者の多くは、せっかくの旅を楽しもうとしないで、不平や不満ばかりをこぼしているように思えます。それでも、「旅」の終わりの地である「死」という「人生」の目的地に、いつかは一人残らず辿り着くのです。
私たちは大切な真実に気付かなくてはなりません。「これは、たった一度きりの限りある人生という私だけの特別な旅なんだ」と。」(ここより)
そう、幾ら「死にともない」と思っても、全ては有限。終わりがある。
この所、空き家になった実家の家財(両親の遺品)の整理をしている。両親が、この田舎の家に引っ越したのは、昭和43年(1968年)だった。市内の社宅から、この別の社宅に引っ越した。その後、この家を購入したが、この家に移り住んでから今年で46年になる。つまりこの家の整理は、ほぼ半世紀ぶりに陽の当たる場所に出て来た色々な品物がある、ということ。でも二度と使われることはないそれぞれの品。両親の記憶はいつまでもキレイだが、品物は朽ちていく。
いつか自分の旅が終わる時も、必ずつぶやくであろう「死にたくない」・・・
親の残した数々の遺品を眺めながら、自分の時を想定してあらかじめ身辺整理をし、「いつ死んでも良い」という“完成された(?)人生”の境地には、到底到達できないことを悟るこの頃である。
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コメント
私の祖母は文久2年生まれで私が小学校6年生の時に91歳で亡くなりました。昭和26年でした。後年、「私は江戸時代の人と話をしたんだ」と気が付いたら江戸が随分身近になったような気がしました。歩いて15分位離れたところに住んでいていつも「帳面を買えよ。鉛筆を買えよ」とお金をくれましたが、そのあとに続く言葉は「早く仏様のお迎えが来ないか」でした。ああ、年を取るとくたびれて死にたくなるのか、と思っていました。あまりに悲しかったり、痛かったりすると人間は若くても死にたくなりますね。まだ生きていたいと思える人は幸せなのでしょう。あの世から戻ってきた人がいないのは、あの世が楽しくて良い所なんだよと教えてくれた人がいます。さて、真実は死んでからのお楽しみとしておきましょうか。
【エムズの片割れより】
「早く仏様のお迎えが来ないか」と言うのは、どのような時なのでしょう? もう人生、やりたいことはやったので悔いはない。という状態か、それとも自分にはもう用はないので・・・ということか・・・
(社会的)居場所があれば、早く死にたいとは言わない気がします。自分も死ぬまで居場所があれば良いのですが・・・
投稿: ハコベの花 | 2014年3月24日 (月) 14:47
今、従妹の連れ合いの告別式から帰ってきた所です。84才でした。70才まで大手出版社に勤めていましたが、その後、パーキンソン病になり、意識ははっきりしているのですが、寝たきり、飲みこむ筋肉が衰え、胃瘻をしました。せめて口からアイスクリームが食べたいというのが口癖だったようです。
お経を聴きながら、何で人間は死ぬことが分っているのに、勉強や努力をし続けるのでしょうか?なんてくだらないことを考えていました。きっとDNAにそうする事が組み込まれているのかなとも思います。
「死にたくない」というのは誰でもそ思いますが、「今」がそう意義がなくなった今、若い人の迷惑にならないように、静かにこの世をリタイヤ―しなくてはとも思っています。これも葬式の帰りだからか・・!
人生=A(選択)+B(偶然)+C(運命)というのが我が人生論です。係数は人それぞれ異なる。
【エムズの片割れより】
パーキンソン病と言えば、同期(FAXの機械設計)の奥さんがかかり、その看病にかかりっきりでしたが、2年ほど前に奥さんに続いて同期のヤツも胃がんで亡くなったと、昨年の同期会で聞きました。同期初の逝去で、一同ショックでした。
今日も、(同じ会社だった)老人ホームの叔父に電話をしたのですが、親戚の情報として、自分の従姉妹が3年間に58歳で脳溢血で倒れたのですが、その介護が大変だと言っていました。これも運命でしょうか・・・
「人生=A(選択)+B(偶然)+C(運命)」は大変に気に入りました。カミさんに話すと「人生=A(選択(意識的+無意識))+B(偶然)+C(運命)」ではないかと言っていました・・・
投稿: こうちゃん | 2014年3月26日 (水) 16:27
祖母は居場所がなかったわけではなく、80代のころから耳が遠くなり、会話が出来なくなったうえに、足がリューマチで痛み歩けなくなったことが生きる張り合いが無くなったのではないかと思います。街中に住んでいたので、毎日のように親戚が寄ってお婆ちゃんに話しかけていたと思います。大地主の家に生まれ、放蕩の限りを尽くした夫に早く死なれ、波瀾万丈の人生を送ったようです。もう十分生きたと思ったのではないでしょうか。火鉢の横に座り、お針をしながら息を引き取ったそうです。やはり足と会話は生きていくには大事な事なのですね。
【エムズの片割れより】
会話と足は重要ですよね。生きる世界が違ってきます。ウチのお袋も晩年は耳が遠くなって、足も悪かった・・・
「もう充分に生きた」と言えるような生き方をしたいですね。たしかに人生は、波瀾万丈ですが・・・
投稿: ハコベの花 | 2014年3月30日 (日) 21:14
「死にともない…」なんて素直な最後の言葉だろう。禅僧の遺偈などと言うともっともらしく理屈をこねるものだが…。
例えば「死にともない…」の対極にある遺偈は、甲斐の快川招喜が遺したと言う「心頭を滅却すれば、火も亦涼し…」だろう。燃える山門の上で最後に言ったとされているが、心頭を滅却しようが消却しようが、熱いもんは熱い訳で、とこまでひねた坊さんかと思う。
もし仙がいさんが同じ事になってたなら「こら熱いわい!、熱ぅて我慢できんわ…」とぼやきつつ死んでったはずで、どっちの坊さん信じる?と言われたら、私は迷うことなく仙がいさんを信じたい。
【エムズの片割れより】
まったく同感ですね。「怖い」ものは「怖い」、「熱い」ものは「熱い」。
あまり肩肘張らずに、生きたい(逝きたい?)ものです。
投稿: お茶碗アトム | 2015年3月15日 (日) 23:42