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2014年3月の24件の記事

2014年3月31日 (月)

東京23区の地名~なぜ「北区」に?

先日の日経新聞にこんな記事があった。
「(なんでも調査団)命名大論争なぜ「北区」に? 東京23区の地名 人気の「飛鳥」読みにくく
 全国各地にある「方角」を冠した地名。東京にも23区の中に「北区」がある。しかし、この「北区」。改めて地図を眺めると、何となく違和感がある。南も東も西もないのに、なぜ北だけなの?
 歴史をひもとけば手掛かりがあるのでは、とまず調べてみたのは成立の経緯。都史を見てみると、「北区」は1947年3月、当時35区制だったものを22区に統合した際に、「滝野川区」と「王子区」が合併して誕生した。
 4年後の51年に発行された北区史によると、新区名の選定はなかなか大変な作業だったようだ。都は「統合の新区名は新たに定めることを原則とする」との方針を打ち出していたこ ともあって、住民を巻き込んでの大論争が巻き起こる。民間で行ったアンケートでは人気トップが「飛鳥」。次いで「飛鳥山」が続いた。これは滝野川区と王子区のちょうど中間地点あたりにある「飛鳥山」にちなんだものだ。3位は「赤羽」だった。
 「さらに複雑な住民意識が区名選定を一層難しくしたようです」。北区立中央図書館地域資料専門員の保垣孝幸さん(45)によると、北区は平安末期から室町時代までこの地域一帯で覇権を握った豊島氏の本拠。住民の間には「『本来、うちが豊島だ』とのプライドが高い」。しかし地名化にあたっては、「豊島区」に先んじられたため、選択肢が狭まっていたのだという。
 さて、人気トップの「飛鳥」の名を阻んだ最大の理由は漢字だった。当時、平易な漢字を重用する雰囲気があったといい、区議会議員らが「アスカ」の読みを「分かりにくい」と反発したようだ。結果、アンケートでも人気を集めたわけではない「北」が急浮上。「区名で都のどの位置にあるかが分かる方が有意義」などとの結論が導き出された。こうして制定された区名。住民がもろ手を挙げて歓迎したわけではないことが同図書館所蔵の史料から伝わってくる。合併当日に役場の関係者が記した日記には、「意味なき下劣な名称」との記述がある。77年に発行された区の広報資料の中にも地元の郷土史家が「もっと良い名称がなかったのか不満に思った」と記している。
 そんな北区も今月で67周年。保垣さんが「日記」を前に苦笑いした。「新区名しか知らない人も増え、さすがに愛着が出てきた感じがします」
<もっと知りたい>
140331kitaku1 ○全国20政令市を調べると最も多いのは「南区」で13市だ。「北区」があるのは札幌、さいたま、名古屋、大阪など11市に上る。これらの都市はすべて「南区」「西区」など、他の方角の地名もある。
○もっとも新しいのは2012年に誕生した熊本市北区。同市によると「抵抗感が少ない」との理由から、公募で圧倒的な数を集めたという。地名への思い入れ度合いは、時代とともに変化してきているようだ。」(
2014/03/25付「日経新聞」p43より)

現在の23区以外の区名は、自分にとっては小説の中でしか知らない。漱石の小説にも、小140431kitaku2石川とか、本所とか出てくるが、この記事の地図を見て、ようやく分かった。
前に、大田区が「太田区」ではなく「大田区」なのは「大森+蒲田」と聞いて納得したが、この地図を見ていると、35→23区に統合された結果生まれた現在の区名の元が分かって、なかなか面白い。

前に風呂場に日本地図が貼ってあった(ここ)。
140331siteitosi もちろん日本の県名は頭に入っているし、形も分かる。しかし東京の区となると、さてさてどれだけ知っているか? もちろん聞けば分かる。しかし23区の白紙地図を与えられて、区名を書き込め、と言われたら正答率はどの位だろう? 23区を暗誦で幾つ言えるか・・・

東京の特別区(23区)以外では、区を制定できる政令指定都市は現在20都市あるという。その歴史を振り返ると、
1956年(昭和31年)9月1日 横浜、名古屋、京都、大阪、神戸
1963年(昭和38年)4月1日 北九州
1972年(昭和47年)4月1日 札幌、川崎、福岡
1980年(昭和55年)4月1日 広島
1989年(平成元年)4月1日 仙台
1992年(平成 4年)4月1日 千葉
2003年(平成15年)4月1日 さいたま
2005年(平成17年)4月1日 静岡
2006年(平成18年)4月1日 堺
2007年(平成19年)4月1日 新潟
2007年(平成19年)4月1日 浜松
2009年(平成21年)4月1日 岡山
2010年(平成22年)4月1日 相模原
2012年(平成24年)4月1日 熊本

だそうだ・・・

北九州市の誕生のニュースは、記憶にある。しかしそれ以外はあまり印象にない。
とにかく土地の名前は歴史と同時に人の記憶にある。平成の大合併もそうだが、自分のようなシルバー族にとっては、市町村の合併は迷惑この上ない。新しい市名など(今さら覚えられないので)聞きたくもない・・・。

時代に付いて行けなくなった初老のグチではある・・・。

140331khubilai <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月29日 (土)

ピンク・ピクルスの「一人の道」

今日のテレビニュースでは、計画から68年経ってやっと開通した「マッカーサー道路」のことを報じていた。この道路は、都心とオリンピックの競技施設が建設される湾岸地域を結ぶものだという。段々とオリンピックムードも盛り上がりだした??

今日初めて、ピンク・ピクルスの「一人の道」という歌を聞いた。一度聞いて、直ぐに自分の心に入り込んだ。この歌は、1972年(昭和47年)の発表で、東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得し、その後に自ら命を絶った円谷幸吉選手を歌ったものだという。

<ピンク・ピクルスの「一人の道」>

  「一人の道」

    作詞:今江真三郎 
    作曲:茶木みやこ 

  ある日走った その後で 僕は静かに 考えた
  誰のために 走るのか 若い力を すり減らし
  雨の降る日も 風の日も 一人の世界を 突っ走る
  何のために 進むのか 痛い足を がまんして
  大きな夢は ただ一つ 五つの色の 五つの輪
  日本のための メダルじゃない 走る力の 糧なんだ

  父さん 許して下さいな 母さん 許して下さいね
  あなたにもらった ものなのに そんな生命を 僕の手で
  見てほしかった もう一度 表彰台の 晴れ姿
  だけど 身体は動かない とっても もう 走れない
  これ以上は 走れない

円谷幸吉選手の、あの有名な遺書については、前に書いた(ここ)。あの「美味しうございました」の繰り返しによる切々とした遺書は、何度読んでも涙が出る。
繰り返しになるが、もう一度下記してみる。

父上様 母上様 三日とろろ美味しうございました、干し柿 もちも美味しうございました、
敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました、
勝美兄姉上様、ブドウ酒、リンゴ酒美味しうございました、
巌兄姉上様、しそめし、南ばんづけ美味しうございました、
喜久造兄姉上様、ブドウ液、養命酒美味しうございました、又いつも洗濯ありがとうございました、
幸造兄姉上様 往復車に便乗さして戴き有難うございました、モンゴいか美味しうございました。
正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした、
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様 母上様 幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません
何卒 お許し下さい。
気が休まる事なく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません、
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました、

校長先生 済みません、
高長課長 何もなし得ませんでした、
宮下教官 御厄介お掛け通しで済みません、

企画課長、お約束守れず相済みません

メキシコオリンピックの御成功を祈り上げます、
一九六八・一、

140329tsuburayaisyoこの遺書を読みながら、この切々とした歌を聞くと、オリンピックというプレッシャーが人間に与える苦しみが、どれほど大変かが分かる。先の冬季オリンピックもそうだが、選手たちはこれを乗り越えて活躍している。その精神力は我々の想像が及ばない世界・・・。

人間の悩み、それは誰もが持つものだが、一人で抱え込むと深い闇に陥る。しかし誰か一人でもその悩みを分かち合える人が居ると、世界は大きく変わる。そして決して自死には走らない。
この円谷選手も、当時奥さんが居て、その苦悩を話せたら、自死を食い止める事が出来ただろう。

ひとりと二人・・・。この歌を聞きながら、人間は一人では生き抜けない・・・と、改めて思った。

(関連記事)
映画「東京オリンピック」と円谷幸吉の遺書 

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2014年3月28日 (金)

3軒分の実家の遺品を30万円で整理した話

空き家になった実家の3軒分の遺品(家財)を、市役所から紹介してもらった「一般廃棄物収集運搬許可業者」に頼んで30万円で廃棄した。今日は、その遺品整理の体験談である。

田舎でひとり暮らしをしていたお袋が、2年半前に老人ホームに移り、この正月に老衰のため92歳で亡くなった。
四十九日と納骨が済んだ後、誰も住まなくなった実家と家財をどうするかが次の課題となる。(この辺りのことは(ここ)に書いた)
我が家の結論は、ゴミ屋敷になる前に家財だけでも処分しよう・・・。

ウチの実家は、昔祖母が同居したときに持ち込んだもの、親父が亡くなった後、伯母が一緒に住んだときに持ち込んだものがあり、タンス類だけでも13個もあった。もちろん家電製品から台所道具、本や机からソファー、ベッドまで、まさに一通りのものがある。
さてどうしよう。幾ら子どもの時に住んでいた町とは言え、場所が離れているので、整理に通う訳にもいかない。もちろん現地の分別廃棄の方法も知らない。すると業者に頼むしかないか・・・

Netで「遺品整理」を検索すると色々な業者が並ぶ。費用の相場はどの位か? 雑誌には140328gomi 「・・・また遺品を含め、処分費は2tトラック4台分で100万円を超え・・・」(「週刊現代」2014年4月5日号p12より)という記述もある。Netには、1軒分35万円というものも・・・。
それに、カミさんの友人からの口コミでは、横浜で1軒分の家財道具を廃棄するのに60万円かかったとか・・・。
そこで思い出したのが、いわゆる生活保護者の孤独死の場合、市が業者に頼んで遺品を整理していたテレビの場面。そうだ、市に聞けば、どこか適当な業者を紹介してくれるかも知れない・・・。
さっそく、実家のある市役所のホームページを開く。廃品処理については「環境対策課」という部署が担当らしい。もしここに聞いてダメなら、生活保護の担当に聞こう、と思って、とりあえず「廃屋の家財の廃棄についての相談です」というメールを打ってみた。内容は、「両親が亡くなって、実家に誰も住まなくなったので、空き家になった実家の家財の廃棄をお願い出来る業者を紹介して欲しい」。
すると、早速次の日に、市役所から回答のメールがあった。「・・・不要な家具の搬出、処分でしたら当市の一般廃棄物収集運搬許可業者をご紹介させていただきます。・・・なお、ご参考までに市内にあります業者を記載します。<収集運搬業者 参考>・・・」
メールにあるアドレスに入ってみると、その市の「一般廃棄物収集運搬許可業者」のリストがある。市内だけではなく、周辺の市の業者も載っていて、どこが良いのか分からない。それで、メールに紹介のあった、2社のうち、1番目の実家に近い会社に電話をしてみた。
「市から紹介されて電話しているのだが、空き家になった実家の家財道具を全て廃棄したいのですが・・・」「やっていますよ。一戸建てだと、10万円位は掛かってしまうが・・・」
予想より、はるかに安い! さっそくお願いする事にして、今後の段取りを相談・・・。

かくして、約束した日時に実家で現場調査。業者が2人来て、各部屋を廻り、「家の中だけでも4トントラックで2台半から3台分はあるな・・・」。
「市から「処分の際はトラブルを未然に防ぐためにも,立会いをお勧めいたします。」と言われているのだが・・・」「とても1~2日では終わらない。付き合うのは大変だよ」「では鍵の隠し場所を教えるので、日程はそちらの都合でやってくれる?」「そうしましょう。それに消費税の関係があるので、3月中に終えた方がお互いに良い。来週から始めましょう・・・」

ちなみに家の広さは、平屋建てで7部屋120㎡位、それに別棟で13㎡(8畳弱)ほどの納屋(物置)がある。
廃棄したものを列記してみると、洋服ダンス2個、整理ダンス7個、茶だんす(食器棚)3個、押入ダンス1個、ベッド2つ、机2つ、椅子5つ、金属書類ロッカー1つ、本棚5つ、その中の本数百冊、仏壇2つ、鏡台1つ、椅子型マッサージ機(これが重い)1台、石油ストーブ2つ、テレビ台とビデオ類、応接セット(ソファー3つとテーブル)、下駄箱と靴類、冷蔵庫2つ、洗濯機2つ、ガスコンロ、電気ポット、電子レンジ、電気釜、鍋類、ステンレス浴槽、風呂釜、布団類(3.5間分の押し入れ)、庭の植木鉢数十個、等々。その他に納屋の中にもコタツ2つ、タンス1つ、そして本が多数・・・。
まさに3軒分の家財があった。業者もその多さにビックリしていたが、一緒に住んでいた伯母が持ち込んだ、と言うと納得してくれた。

業者とは逐次電話で連絡を取り合ったが、片付けはこんな状況で進んだ。
・まず「産業廃棄物処理委託契約書」が郵送されてきた。200円の収入印紙を貼った正式の契約書で、廃棄物を持ち込む各種の最終処分業者の社名・住所も載っていた。
・期間的には丸2週間かかった。正味でも4~5人で6日かかった。特に別棟の半屋外の納屋は予想以上に大変で、2日もかかり、ムカデとの戦い・・・。中にあった本はボロボロでリサイクルが無理なため、ゴミに。
・タンスなどの木製の家具は庭でバラしてトラックに積み込み、木くずとして処分場に持って行く。木はシュレッダーでチップにして再利用するらしい。今回は木くずだけで1トンもあった。
・全てを分別して、一般ゴミと産廃に分けて出す。布団は可燃ゴミで、衣類はリサイクルに出した。衣類でも、ストッキングや毛布などは資源にならないので、一般ゴミで出す。
・鏡台や額などのガラス類はすべて外して、陶器クズと一緒に不燃ゴミの日に出す。
・本は資源ゴミとして紙屋さんに納品するので、お金はかからない。ほとんどが分別の手間代・・・。
・家具を運び出したあとの、掃除もキチンとされていた。

P10208242 P10207672 P10207892

結果、業者さんが言うには、納屋も含めて3軒分以上の家財があったが、普通にトラック1台幾らで計算すると大変な金額になるので、今回は手間代(人工)として計算して、安くなるように努力します・・・。
そして送られて来た請求書は、「30万円はかからないと思うけど」と言っていたのを守ってくれて、見積が33万円だったが、値引きをしてくれて、ちょうど30万円だった。予想よりも遙かに安く済んだ。
それにしてもビックリしたのは、それぞれの項目の最終処分業者の領収書がすべて、請求書と一緒に同封してあったこと。廃棄した重量も最終業者に払った処理金額も・・・。もちろん冷蔵庫等の家電リサイクル券の領収書まで・・・。このキチッとした仕事ぶりには驚いた。(実際に検討する方の参考に、資料を(ここ)に置きます)

<今回のポイント>
・市役所から何とか“推薦の業者”を教えて貰う。
・どの市でも、必ずゴミ収集のための「一般廃棄物収集運搬許可業者」が登録されており、市と業者との関係は深い。そしてたぶん業者は市には弱い・・・。(市は「あくまでも個人の責任で業者を選べ」と“建前”を言うかも知れないが、粘る・・・。どうしても紹介してくれない場合は、市のリストの1番目? または現地と住所の一番近い業者?)
・業者への連絡は、必ず「市役所から紹介されたのだが・・・」と言う。(何かあったら、市役所に駆け込んじゃうぞ!?)
・事前に家族で家財道具を調べ、必要な物はあらかじめ回収しておく。通帳やアルバムなど。
・当日は、出来るだけ立ち会う。「これは取っておく」「これは棄てる」の判断。棄てた後で取り返すことは100%無理。今回は、「建具と電灯以外は全て廃棄」と分かり易かった。
・遠方の場合は、実家の鍵の隠し場所を教えて、業者の都合に合わせてやって貰う方法もある。それでも進捗状況は電話で確認。特に費用面は逐次確認しておいた方がよい。予想以上に多かった、等の状況変化があるので。今回も納屋で予想以上に苦戦。
・事後は必ず現地を確認する。処分し忘れ、等があると困るので・・・。もちろん費用の支払い前に。
・もし頼んだ業者に満足した場合は、市役所に紹介のお礼のメールかFAXを入れましょう。これが業者にとって励みになるし、誠意を持ってやって頂ける動機付けになる。(電話は感謝の気持ちが直ぐに消えてしまうので避けたい・・・)

(感想)
・費用については、最初の電話では「1軒だと、10万円位かかる」から始まったが、タンス13個でも分かるように、確かに我が実家は3軒分以上の家財があった。結局、「30万はかからないと思うけど・・・」という電話での話をムリに守ってくれた。4~5人×6日間という規模の割には、満足。たぶん、一般の遺品整理屋さんでは100万円はかかったかも・・・(後日の電話で、「金属類を処分した(売った)お金が見積に落ちていた。6千円位だが、戻す」と言うので、「値引きまでして貰ったので、そのお金は戻さなくて結構です」と言った)
・Netでは、実家の場所を営業範囲とする業者が見つからなかったために市役所に頼ったが、結果として市役所登録の業者に頼んで良かった。業者も、バックに市がいるとヘタなことは出来ない。
・業者は、タンス・ベッドから台所の油、醤油まで、あらゆるものを分別するのが一番の仕事。そして電化製品、本、衣類、木くずなど、リサイクルできるものはそれぞれの扱い業者に引き取って貰い、ゴミは分別して市のゴミ処理場で廃棄する。引っ越し業者はただトラックに積んで運ぶだけだが、廃棄業者は、自分で分別してからトラックでそれぞれの最終処分業者まで運んでくれる。頭が下がる・・・ (繰り返しになるが、市登録の業者は、「収集運搬許可業者」とあるように、分別と運搬だけをしてくれる透明性の高い仕事。「家財の分別」と「家と処理場間のトラックでの“引っ越し”」をしてくれる)
・実家の遺品整理(廃棄)で、我々素人は、家財道具の圧倒的な物量に、まずたじろぐ。自宅でさえ分別・廃棄に気が重いのに、実家の大量の家財道具の分別など、初めからあきらめた方が良い。そして必要な物だけは引き取って、残りは全て地元の業者に頼んで、問答無用で捨てて貰った方が、気が楽。
・キレイになった実家を見て、本当に助かった、と思う。市の「一般廃棄物収集運搬許可業者」さんは、まさに“人助け”の仕事なのである。

(参考)Wiki「一般廃棄物」より
一般廃棄物の収集・運搬および処分は、市町村に処理責任があり、市町村自らが行うのが原則である。(法6条、6条の2)
ただし、市町村で行うことが困難な場合に限り、市町村長は一定の要件を満たした業者の申請により、ごみ処理基本計画に基づいて一般廃棄物処理業の許可を与えることができる。(法7条5項および10項)

(関連記事)
親の遺品整理について思うこと~心の澱 
実家の空き家を「業者買取」で処分した話 

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2014年3月27日 (木)

ラジオドラマ「天使のおやつ」~いつ死ぬか分からない・・・

先日、NHK FMのオーディオドラマ・青春アドベンチャー「あなたがいる場所~天使のおやつ」(2014/03/21・24放送)を聞いた。これは沢木耕太郎の短編集をドラマ化したもの。
あれよあれよと言う間に、幼い娘の命が・・・。
15分なので聞いてみよう。

<青春アドベンチャー「あなたがいる場所~天使のおやつ」前編>

<青春アドベンチャー「あなたがいる場所~天使のおやつ」後編>

このドラマでは、日常の何気ない出来事で幼い命が奪われてしまう、という理不尽さが描か140327fm れる。幼稚園の滑り台で、友だちから突き飛ばされ、落っこちて頭にコブを作った。それで終わればオ・シ・マ・イだが、尾を引くと怖ろしいことにも・・・

話は飛ぶが、昨日、老人ホームにいる84歳になる叔父に、電話で近況報告をした。半年に1回ほどだが、数少ない親戚の叔父に電話をする。体は段々に弱ってきているが、俳句をやっているせいか、頭はまだまだシャープ。しかし今回電話すると、半月ほど前に転んで頭を打ち、6針も縫ったとか・・・
聞くと、毎週末に息子の車で家に掃除に帰っているが、その帰りにいつも寄る寿司屋の駐車場で、車から降りたところで、後に転倒し、車止めで頭を打って、救急車で運ばれたとか・・・
CTで異常は見つからなかったが、頭は怖いので、1か月ほどは注意が必要とか・・・。そして、まだ1ヶ月経っていない・・・と不安そうに言っていた。

打ち所、とは良く言う。これは「運」の話。同じように頭を打っても、このドラマのように運が悪ければ怖い方向へ雪崩を打つように落ちて行くこともある。これは人智の及ばないことで、避けようがない。

このドラマを聞きながら、「誰でも、いつ何が起きても不思議ではない。それを前提に毎日を過ごさねば・・・」という思いを強くした。

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2014年3月26日 (水)

初めてデパートの特売に列んだ日

これは今日の10時から10時半までの30分間のドキュメントである。
何が今さら、“初めて!デパートの特売に行った”??と怪訝な顔をされるもの分かる。でも、列ぶのがキライな自分は、今日が初めてなのである。もちろんカミさんからの指示なのだが、これも我が家で“生き抜く”ためには従うしかない・・・

9時半に出発。近くの駐車場に車を入れてデパートの門に着いたのが、10時1分。しかし既に開店したデパートの入口には誰も居らず、店内に入る。自分は地下1階の食料品売り場へ。カミさんは7階の食品の特売場へ。店員さんが、皆エスカレータに乗っている自分の方を向いている。この光景も、話には聞いていたが、初めて見た・・・。
チラシの切り抜きを持たされて自分が指示された“目標”は、「オープニングサービス お楽140326 しみ袋 精肉スペシャルセット 100セット限り 1050円」である。良く分からないが、とにかく地下一階へ。精肉の店の方に長い列。でも何か違う。ぐるりと回って歩いていくと、「さー、後二つだよ」という男の声。見ると大きなステンレスの置き場に、肉のパックが2つある。これかな?と考えている間もなく、左から手が伸びる。「さー、あと一つ!」。無意識に肉のパックに自分の手が伸びてそれを引き寄せる。手が冷たさを感じる。「完売しました~」という声。「やった~~~~!」という達成感!! 手元のパックと持たされたチラシの写真を見比べる。同じだ。ヤッター!

でも完売が早い。入口からエスカレータで2フロア降りて歩いたので、その時間を考えると、10時3分頃では? でも100個がもう最後の1個に・・・。このスピードは何だ?? でもこれでカミさんに怒られなくて済む。この安堵感・・・

言われた通りに、7階にきびすを返す。特売場に食品の名店が並び、作りたてのものを売っている。言われた通りにカミさんの携帯に電話する。しかし通じない。呼び出しに出ない。すると目の前にカミさんが現れ、買った肉パクを当たり前のごとくに没収されると同時に、こっちだ、と手を引っぱられる。豚まんの列だ。ここに列べ、という。何を買うのか分からないままに、列ぶ。何を買うかは後で指示するという。ヒマなので周囲を見回すと、女性は年代が広いが、男はシルバー族が多い。それに自分と同じように奥さんと携帯で連絡を取りつつ、右往左往・・・。何だ、自分と同類か・・・。
しばらく待つと携帯が鳴るが、周囲がうるさくて聞き取れない。「聞こえない」を連発。そして、あと1/3、20人位になったときに、携帯が鳴って、「その列はもう良いから、こっちに来い」と言う。せっかくここまで列んだのに・・・と思いつつ、指示された方に行くと、海鮮のちらし寿司の店。自分に替わってここに列べという。指示通りにちらし寿司を買い、カミさんに携帯をかけると、3階に来いという指示。カミさんはもう戦場から離脱して、3階に行っているとは・・・。
3階に行くと、カミさんはそこで何やら安くなった母親の服を買ったようで、「撤収する」という指示・・・。
かくして30分で戦場離脱!!

2時間の駐車場券を貰ったので、コーヒーを飲んで帰ったが、カミさんが「なかなかワクワクして良いでしょう」という。買えるか買えないかは問題ではないという。でもこのわくわく感が良いという。確かに、最後の一つを手にしたときの達成感は格別!? 逆にそれを誰かに取られていたら、その挫折感は想像するに余りある。

サンデー毎日になると、こんな事が楽しみになるのだろうか・・・。それにしても、平日の朝だというのに、やたら女性で混んでいるデパート。新しい発見!?
まあカミさんの手足として動いた30分ではあったが、新しい世界を経験した。でもあまり繰り返したくはない、経験である。

140326tabehoudai <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月25日 (火)

親の遺品整理について思うこと~心の澱

実家がある人は、家を受け継ぐ人がいない場合に必ず遭遇する「両親が亡くなったあとの実家をどうするか」という問題・・・。
我が家では、2年半ほど前から、お袋が一人住まいをしていた田舎の実家に住む人が居なくなり、お袋が亡くなったのを機に、どうするか・・・が問題になった。

実家に行ってみると、お袋が玄関先で転んで骨折し、そのまま入院、老人ホーム、そして別の病院で亡くなったため、実家の居間も台所も、まさに今そこでお袋が生活をしているかのように、時間が止まったままの状態・・・。

四十九日を終えたとは言え、この状態をどうするか・・・
まだ処理をするのは早いのでは?という考えもある。しかし、もう2年半も放ってあって、天井からは畳やベッドの上に、何やら黒いものが落ちてきている。あまり目には見えないが、タタミはシラミなどがうじゃうじゃいるかも知れない。押入の布団の状態は・・・、と考えると、一刻も早く処置した方が良いのではないか・・・という考えも出てくる。

そしてこれについて、両親はどう考えるのだろう?と思ってしまう。まだしばらくはそのままにしておいて・・・と思っているか、それとも、ゴミ屋敷になるのは忍びないので、早くキレイにして・・・、と思っているか・・・。
一方、残された遺族の思いはどうか? 親との思い出の場所なので、そうっと置いておく方が良いのか、やはりおどろおどろしいゴミ屋敷になるのは忍びないので、はやく整理をした方が良いのか・・・

我が家の場合は、四十九日を過ぎて、家族の合意により1ヶ月余の間に、家財を全て廃棄した。その具体的な話は別にするとして、今回親の遺品を前に、この問題は、遺族の心に残された澱(おり)のようなものだな、と改めて認識した。言い換えると、遺品の家財をそのまま残しておくということは、心にいつまでも残って消えない棘(とげ)を抱えているようなもの・・・。

親が半世紀に亘って住んできた家は、あらゆるものがそろっている。タンス・ベッド・冷蔵庫からミソ・醤油まで。どの家にもある品々だが、いざ1軒分を棄てるとなると、気が遠くなる。なぜならば、分別の問題があるから・・・。だから気が重い。整理する気にならない。だからとりあえず放っておく。でも、気になる・・・。
お袋が寝ていたベッドは、今はどうなっているのか・・・。座っていたコタツの座椅子はどうなっているのか・・・。とても気になる。それはまさに心の澱(おり)だ。放って置いても、ずっしりと心によどむ得体の知れない宿題・・・

今回は、業者に頼んで処理してもらったが、家財が一切無くなった実家を前に、結果としてP10207732 心が軽くなったのを実感した。
両親の生活の臭いが一掃された。だから放っておける・・・。空き家として・・・
もうここには両親はいない。そう実感できる。そう。オシマイ・・・

今回の遺品整理・廃棄を通し、同じ事を子ども達にさせないために、“買う”ということに怯えるようになってしまった。スーパーに行っても手が出ない。そうだ、消耗品以外は、もう買ってはいけない。家財を増やしてはいけない。むしろ時間と共に棄てて家財を最小限に減らさなければ・・・

今は、“棄てる”という行為は、分別を含め大変な労力を伴うものである。シルバー族は、それを念頭に、それを残された家族にさせるのではなく、自分で処理しないといけない。自分の生きた証である数々の品々も、自分が逝ってしまった後、残された人にとっては、単なる廃棄物なのだから・・・。

話は飛ぶが、NHKラジオ深夜便で「著名人の終の棲家に学ぶ~多磨霊園に眠る人々 評論家 立元幸治」(2014/03/18放送)を聞いた。
その中で、画家・梅原龍三郎が、自分の死に際し、こんな言葉を残したと言っていた。
「俺が死んだら葬式などして欲しくない。そんなものは無意味だよ。大勢の人が集まるのは迷惑だしね。娘には、誰にも知らせるな。面倒だから家を閉めて旅行にでも行ってしまえ・・・」「死者のために、生きている者をわずらわせるべからず」

残念ではあるが、今回の遺品整理を通して、自分自身が生活している周囲の品々を改めて眺め、「多い・・・!!」と思った。

(関連記事)
3軒分の実家の遺品を30万円で整理した話 

140325kamisama <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月23日 (日)

「死にともない」の仙厓和尚

先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「(あすへの話題)死にともない 静岡文化芸術大学学長 熊倉功夫
 臨終に際して「死にともない」といったのは一休和尚だったように憶(おぼ)えていたが、正しくは仙厓義梵(せんがいぎぼん)(1750~1837)であったとされている。仙厓和尚は「西の一休」ともいわれた傑僧だったから、どこかで一休さんと混同されたのだろう。仙厓和尚は日本最初の禅寺、博多の聖福寺住持になった。しかし何より仙厓和尚が有名なのは飄逸(ひょういつ)な禅画を数えきれぬほど描いたことである。たとえば大きな円を描いて(禅でいう円相)、脇に「これをくふて茶のめ」と賛をしたものがある。画餅という言葉があるが、喰えない大きな饅頭を描いてこれ喰うて、まずお茶一服、とはずい分人を喰った絵だ。
 仙厓和尚は、禅僧としてすばらしいキャリアをつみ、当時としてはスーパー長寿の88歳で臨終を迎えたのだから、最後のお言葉をと申し出た弟子たちは立派な遺偈(ゆいげ)がきけるものと思ったにちがいない。そこへ「死にたくない」の一言。弟子たちは驚いたが、いかにも仙厓和尚らしい。
 どのように死を迎えるか。「終活」の本が売れているそうである。71歳をこえた私も無関心ではいられない。自然にまかせて死を迎えたいと思って尊厳死協会にも入り、過剰な延命措置を拒否する証書も作ったが、しかし私がまだ元気で意識がはっきりしているからそう思うので、本当に死に直面したら「死にともない」と思うのではないか。それも人間の本性である。
 仙厓和尚は本性を受け入れた上で従容として死を迎えたのであろう。しかし私のような凡人は、「死にともない」という気持ちだけが、どんどん肥大してゆくのではないかとおもえて、それが恐ろしい。」(
2014/03/18付「日経新聞」夕刊p1より)

前から、ある立派なお坊さんが、いざ自分が死ぬ時になると「死にたくない」と言った。という話は昔から良く聞いていた。しかしそれが誰だったかまでは調べたことがなかった。
どうもそれは、仙厓和尚と言うお坊さんらしい。しかし、Wikiを見ると「辞世の言葉は「死にとうない」だったという逸話がある。ただし、同様の逸話は一休宗純にもある。」とある。次いでWikiで「一休宗純」を見ると「臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わる。」とある。どうも上の記事の「臨終に際して「死にともない」といったのは一休和尚だったように憶(おぼ)えていたが、・・・」という記憶も正しいようで・・・

「死にともない」で検索したら、臨黄ネットというサイトで、こんな法話が見つかった。
「「死にともない!」今、精一杯の一言
     静岡県 ・潮音寺住職  渡邊宗禅
  江戸時代の終わり頃、九州は博多の聖福寺に、「仙厓さん」と呼ばれ、多くの人々に慕われた禅僧がおられました。
 晩年のこと、88歳の仙厓さんは、いよいよ臨終というまさにその時、「死にともない」とつぶやきました。それを枕元で聞いたお弟子さん達はビックリ仰天です。
 「え、いったい何を仰るのですか!」
 「どうか有り難い末期の一句をお願いします」
と、皆が詰め寄りました。すると仙厓さん、渾身の精気をふりしぼって、
 「ほんまに、ほんまに、死にともない!」
と言って息を引き取られたのでした。

 この逸話、みなさんはどう思われましたか。「仙厓さんって、本当に親しみやすいお方だね」。「私たちと同じで、やっぱり死ぬのは嫌なんだよ」と、つい笑いがこぼれてしまいます。けれど、この「死にともない」の一言には、何かもっと深い真実が込められているのではないでしょうか。
 私たちは誰だって「死にたくない」と思っています。でも「人生」とは「生」と「死」がセットになっているものです。この世界に生まれて来たからには、いつかはこの世を去って行く日が来ることを、私たちは知っているはずです。

 「人生」はまるで「旅」のようなものと良く言われます。
・・・・
 もし、この「人生」を「旅」として見ることができたなら、辛く苦しい出来事や嫌なことに対する見方も今までとは少し違ってくるかもしれません。
 すべては過ぎ去って行く旅の途中の出来事。思いがけない喜びや悲しみでさえも、ふいに訪れそして過ぎ去って行くことでしょう。
 私たちはそんな「人生」という「旅」をちゃんと楽しんでいるのでしょうか。人生の旅行者の多くは、せっかくの旅を楽しもうとしないで、不平や不満ばかりをこぼしているように思えます。それでも、「旅」の終わりの地である「死」という「人生」の目的地に、いつかは一人残らず辿り着くのです。
 私たちは大切な真実に気付かなくてはなりません。「これは、たった一度きりの限りある人生という私だけの特別な旅なんだ」と。」(
ここより)

そう、幾ら「死にともない」と思っても、全ては有限。終わりがある。

この所、空き家になった実家の家財(両親の遺品)の整理をしている。両親が、この田舎の家に引っ越したのは、昭和43年(1968年)だった。市内の社宅から、この別の社宅に引っ越した。その後、この家を購入したが、この家に移り住んでから今年で46年になる。つまりこの家の整理は、ほぼ半世紀ぶりに陽の当たる場所に出て来た色々な品物がある、ということ。でも二度と使われることはないそれぞれの品。両親の記憶はいつまでもキレイだが、品物は朽ちていく。

いつか自分の旅が終わる時も、必ずつぶやくであろう「死にたくない」・・・
親の残した数々の遺品を眺めながら、自分の時を想定してあらかじめ身辺整理をし、「いつ死んでも良い」という“完成された(?)人生”の境地には、到底到達できないことを悟るこの頃である。

140323chotto <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月22日 (土)

おぞましい入管の強制送還での殺人

最近、このニュースほどおぞましさを感じたニュースはない。自分は、あえて殺人事件と呼びたい。
「(社説)強制送還 死への経過、再検証を
 日本で20年以上暮らし、日本人の女性と家庭を築いていた。
 だが入管は、在留期限が切れたとの理由で拘束し、猿ぐつわをして国外に出そうとした。
 その途中、このガーナ人男性は死亡した。4年前に成田空港で起きた事件をめぐり、東京地裁は入管の責任を認めた。
 入管職員による過剰な制圧が男性を窒息死させたと断じた。硬直した入管行政を考え直す契機とすべきだ。
 この強制送還の手続きで、いったい何が起きたのか。だれが責任を負うのか。法務省は再検証をしなくてはならない。
 同省は、本人の持病による病死と主張し、入管職員の制圧に問題はなかったとしていた。
 だが判決は、男性は飛行機内でほとんど抵抗しておらず、入管の制圧のやり方は違法だったと結論づけた。
 千葉地検は2年前、職員たちの不起訴処分を決めている。今後の検察審査会の判断を待つまでもなく、検察は見直し捜査を始めるべきだろう。
 そもそも入管の手続きは、外部の目にさらされることが少ない。国内の容疑者らの拘束をめぐる刑事手続きと同様に、きちんと監視の目を行き届かせる仕組みを検討すべきだ。
 国外退去を命じられる人の中には、在留期限を過ぎてはいるが、犯罪に手を染めることもなく、仕事や家族などを通じて日本の社会にしっかり根をはった人が少なくない。日本で教育を受けた子をもつ人もいる。
 様々な事情を抱える人びとを一律に犯罪者を見る目で扱うことは避けるべきではないか。
 退去の対象となっても、法相が特別に在留を認める制度はある。法務省は06年から、考慮される事情を示したガイドラインを公開しているが、認められるかどうかは当局の裁量にまかされている。
 事件後、法務省は本人の同意がない送還を控えていたが、その後再開した。以前は民間機で一人ずつだったが、現在では、ほかの一般客への影響を考慮して、チャーター機で一斉送還している。
 一人ひとりの事情を勘案するよりも、一つの便で多人数を送還する効率が優先されがちだ。在留を求め裁判を準備しているさなかに対象になったケースもあるという。
 どの国籍の人が、世界のどの地にいても、人間としての権利をもつのは同じはずだ。多様な理由で日本に生活の基盤をもつ人びとを、できる限り受け入れ、共生する寛容な社会でありたい。」(
2014/03/21付「朝日新聞」社説より)

入局管理局のHPの冒頭にある言葉は・・・
「法務省入国管理局では,「ルールを守って国際化」を合い言葉に出入国管理行政を通じて日本と世界を結び,人々の国際的な交流の円滑化を図るとともに,我が国にとって好ましくない外国人を強制的に国外に退去させることにより,健全な日本社会の発展に寄与しています。」(ここより)

まさに「我が国にとって好ましくない外国人を強制的に国外に退去させることにより」という文言に、今回の殺人事件の背景・土壌が読み取れる。もともとそのようなことをする組織なのだ・・・
「我が国にとって好ましくない外国人」とは「ルールを守って」いない外国人。つまり今回のケースでは「在留期限が切れたとの理由」だ。
この社説でも言っているように、平和に日本人と20年以上暮らしていた人が、そんなに悪人か? それこそ、鬼の首を取ったように、猿ぐつわをして引き回すほどの悪人か?

最近、朝日新聞には、脱北者の談話が連載されている。どの話も、日本人では信じられないような、人権無視の話ばかりである。
しかしこの入管の殺人事件の話は、日本も決して人権的な先進国ではなく、一皮むけば、北朝鮮同様の人権無視の国家権力の実態があるということ・・・。
たまたま仕事として国家権力を握った人の暴力。そして、事実がバレれば、組織ぐるみで保身に走る法務省・・・。
日本人として、あまりに恥ずかしい事件であり、二度と聞きたくないおぞましい事件ではある。

140322bakugeki <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月20日 (木)

ラジオドラマ「金魚の恋、五十五年の夢」

先日のNHKのFMシアター「金魚の恋、五十五年の夢」(2014/03/15放送)が、何ともロマンチックだった。
NHKのHPにはこうある。

金魚の恋、五十五年の夢
     ~男は五十五年、ただ一人の女を思いつづけた・・・
【あらすじ】
人はどれだけ長く一人の人を愛し続けることができるのか・・・。鉄道車両製造一筋で定年退職を迎えた榎本和広(66)は、東京から新幹線に乗り名古屋へ、そして弥富に向かっていた。その地に住む笹井光子(74)に三度目のプロポーズをするために。二人が出会ったのは55年前、東海地方を襲った伊勢湾台風の夜。浸水で溺れかけていた11歳の和広を19歳の光子が屋根の上に引き上げた。父母と離れ離れ不安な一夜…彼の初恋だった。
男は55年間、一人の女性を思い続けた。高度経済成長期を鉄道車両を作り走り続けた男と、日本有数の金魚産地・弥富に根付き土地と家族を守り続けた女。二人の長い長い愛の物語を、美しい尾張ことばと、懐かしい歌謡曲を交えて描く。」(
ここより)

<FMシアター「金魚の恋、五十五年の夢」>

林隆三の声も久しぶり??
主人公は自分と同じ歳。だから・・・という訳でもないが、どうなんだろう・・・。“人はどれだけ長く一人の人を愛し続けることができるのか・・・”というテーマについて・・・。

考えると、歌ではいつも聞いている「恋」という文字。現実世界ではほとんど縁が無いのが普通。結婚してからは、仕事が忙しくてそんなことを考えているヒマも無かったし・・・。もっとも、そのような言い訳しか出来ない我々のような人は、もうその時点で失格なのだが・・・

でも、歌の世界や、テレビドラマ・映画の恋愛物語の世界も、結局若いときの体験がもと・・・。それが無くては、主人公の心に寄り添うことも出来ず、ドラマも楽しめない。
えっ? 自分? もちろんこのドラマのような体験は自分もあるさ! エッヘン!
ま、イヤホンを付けて目をつむり、FMの素晴らしい音で、消え去った昔を偲ぶとしようか・・・!?

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2014年3月18日 (火)

通勤電車の風景~「人の振り見て我が振り直せ」

今日は風が強い。春一番だという。いよいよ春だ。少し暖かくなると、なぜか心が軽くなる・・・

そんな春先、通勤電車に乗っていると、さまざまな風景に出くわす。
今朝、ドアにもたれかかって新聞を読んでいると、新聞の向こう側で鼻をすする音。汚いな・・・と思いながら新聞の陰から見ると、若い美女が、スマホをいじりながら鼻をすすっている。花粉症だな。ま、美人なので許すか・・・。

昨日の帰りの電車では、若い女性がリュックタイプのバッグを背中に、自分の近くに立っていた。これが問題。混んでくると、背中のバッグがグイグイと・・・。その邪魔なこと・・・。
よく言われるエチケットとして、「混んでいるときのリュックは前に抱えましょう・・・」と言うのがあるが、これは正解。人の前には誰も必ずスペースを取るもの。つまり、背中はどこかに押し付けても、体の前の胸や腹をどこかに押し付けるのは、相当に混んだときだけ。その胸に、赤ん坊を抱くようにリュックを抱えれば、立ちスペースの有効活用。原理は簡単、背中のリュックだと二人分の立ちスペースを取ることになる。それで皆が迷惑・・・

コロコロの付いたバッグも問題。よく駅で車輪の付いたバッグを引っ張っている人を見かけるが、終点で電車を降りたときなどは、ホームの人の流れのなかで、実に迷惑。つまり歩いている人の後方に、もう一人分のスペースを使ってコロコロを引っ張るので、改札口に向かう人の流れからすると、迷惑・・・。

どれも本人は気にしていない。
「人の振り見て我が振り直せ」という諺がある。先日リュック方のバッグを買ったカミさんにも、もう一度「混んでいるときは、リュックは前に」と言っておかなければ・・・

140318kanchigai <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月17日 (月)

魂の自由を守るには「田園に帰ればいい」

文藝春秋の今月号(2014年4月号)に、曾野綾子の「日本のリーダーの見識に思う」という記事があり、その終わりの部分の一文が気になった。

「都知事選に思ったこと
 今度の都知事選を見ていてしみじみ思うのは、人間は自分というものの実質をなかなかわからないものなのだ、ということだった。自分はまだ世間から要求されている、まだ人気がある、と思い込むことの愚を見せつけられた感はある。
 一度トップに立つことになった人は、ことに引き際が大切だ。その任に就いた日から辞める日のことを想定し用意すべきだろう。自分が脳血管障害に見舞われて自由に思考や表現ができなくなった場合を考えて、年月日だけを記入していない自筆の辞表を用意するのは当然の義務と言える。自分が意識を失った場合、家族には一週間後にはそれを自動的に提出するようにと言っておくべきだ。
 世間にたくさんある財団の理事会などで、会長が出席不能になった場合、家族からも辞表は提出されず、長らく会長が実質空席のまま組織に迷惑を掛け続けている例を、私は余りにも多く見て来た。役所の場合なら、働けない人に数ヵ月も一年も、国民の税金から月給を払うことになる。それは余りにも心ないことだ。日付のない辞表を着任の日に用意するということは、トップの最低のたしなみというべきだろう。
 トップでなくてもサラリーマンは、どうしても自分の信念とぶつかる上司に会った場合、転職ができればいいが、常に他の方法で生きる道を心に用意しておくことだ。作家の生活にも長い年月、大手新聞社とNHKなどテレビ局による言論弾圧の時代があった。当時、これらのマスコミは、中国を批判する内容を一行たりとも表現することを許さなかったのだが、このことを謝罪したことはない。
 私はその度に書くのを止めて生きる道を考えた。それは畑でジャガイモを作って暮らす生活だった。幸いにも日本は人口が減り、農業から離職する人も増えて、農地は比較的手に入りやすくなっている。魂の自由を守るには、「田園に帰ればいい」のである。私はそこまでいかなくて済んだが、今でも素人にしては驚かれるほど、野菜を作る方法に詳しくなっている。おかげで私の晩年の趣味道楽は、一つ増えたのである。(
曾野綾子)」(「文藝春秋」2014年4月号P124より)

この「トップの最低のたしなみ」はその通りかも知れない。しかし該当者は、そう多くは無い。民間会社の場合は、本人の意志とは無関係に、人事異動でどうにでもなる。病気で業務が遂行出来なければ、立場が変わるのは当然。
それより、サラリーマンの場合は、「どうしても自分の信念とぶつかる上司に会った場合・・・」のケースの方が問題。その解決策は「田園に帰ればいい」・・・か。
これは一種の開き直りだな・・・。

昨夜のNHK大河ドラマ「軍師勘兵衛」第11回「命がけの宴」(2014/03/16放送)は、信長の命により北国攻めに行った秀吉が、戦場で柴田勝家と言い争った末、信長に無断で帰国してしまう。そして謀反を企てていない証としての、有名な宴会の場面・・・。
昨夜のドラマでは、そのバカ騒ぎの宴会に官兵衛が怒鳴り込んできたとき、秀吉は、自分の行動は間違っていない、切腹は覚悟の上だ、と断言する。そして腹をさすりながら「痛いだろうな~」。そして部下たちに、「こんなワシによう付いてきてくれた。このまま死んでも、このワシは幸せだ」と言い放つ・・・。

これは上司(信長)の命に背くには、それだけの覚悟(切腹)が必要、ということ。でも秀吉の場合は「田園に帰ればいい」では済まない。何せ相手は信長である・・・。
でも一般的には「田園に帰ればいい」・・・の覚悟は、なかなか出来ない。すると上司に迎合するしかない!? それもツライが・・・

話は飛ぶが、自分の近い男の昔話。その男は都会が好きで、あるメーカーに入社したときに東京の事務所に配属になったが、都心から1時間以上かかる田舎に新しい工場が出来て、そこに転勤になった。しかし「こんな田舎はイヤだ」と上司にダダをこね、何とか都心に転勤になったものの、結局会社を辞めてしまった。そして、奥さんに食べさせて貰いながら勉強し、1年半後にある業務独占資格に合格し、上司に仕えることなく暮らした。
でも、上司に楯を突いて、自分のダダを通し、退職できたのも、奥さんが当時小学校の教員をやっていたのと子供が居なかった事が大きい。もし家庭に子供が居て働き手が自分ひとりだったら、到底こんなことは出来ない。既に自分ひとりの人生ではないので・・・

もうすぐ4月、転勤のシーズンだ。哀しき我が“迎合の現役時代”を振り返り、「人間万事塞翁が馬」という諺を思い出した。

140317okorareru <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月16日 (日)

「妻よ、5年待ってくれ」

今朝の朝日新聞の「男のひといき」という投稿欄に、こんな記事があった。

「(男のひといき)妻よ、5年待ってくれ
 11年前に妻に先立たれた時、80歳まではがんばろうと決意して暮らしてきた。80歳になった現在は、いつ妻から呼ばれてもいいように暮らそうと考えていた。
 ところが、毎晩のようにお世話になっていた電気温水器が故障してしまった。
 出入りの電器屋から、「1988年8月の設置なので、寿命ですね。新しくしたら」とすすめられた。代金は34万6千円で、1年だけの寿命なら一晩千円のお風呂代か、とケチな計算をした。
 一人暮らしの私は寝る前の入浴が大好きだ。一日の区切りとして、大きな湯船に身を沈めていると、まさにこの世は天国だと思う。妻がいないのはさびしいが、しばし忘れて、民謡の一節でもうなりたくなる。
 「そうだ、5年間、この極楽の湯を楽しむと、お風呂代はわずか一晩200円ではないか」と考え直し、新しい温水器を購入した。ついでに冷蔵庫も調べたら、1991年2月に購入したものだったので、これも買いかえることにした。
 早速、妻には「迎えに来るのはもう5年間待ってね」とお願いした。さあ、これから5年間、新しい電気温水器でのんびり入浴を楽しむことにしよう。(仙台市 無職 80歳)」(
2014/03/16付「朝日新聞」p23より)

この人は立派だ。妻に先立たれて、11年も一人で生きている。そしてあと5年頑張るという。立派だ・・・。
だいたい男など意気地がないもの。男にとって、頼っている妻の存在は、あまりにも大きいが、普段はその存在も忘れるほど・・・。まあそれが“平和”なのだが・・・。
そして先立たれると、残された人は、相手がそのうちに迎えに来てくれる、という感覚になるらしい。先日亡くなったお袋は、自分であまり死を意識していなかったので、親父が迎えに来る、という話は聞いたことが無かった。しかし、お袋が亡くなったことを知らせた大阪の叔母は、「お父さん(夫)が亡くなってちょうど10年になる。そろそろ迎えに来てくれるかな、と思っている。だから死は全然怖くない」と言っていた。
近い人に先立たれた人ほど、自分が死んだときに、また会える、という感覚になるらしい。現実がどうあれ、自分もそれを信じたい。

でも、その時期については人智の及ばない世界。黙って受け入れるしかない。
でもこの記事にある発想はなかなか面白い。何でも良い。何か言い訳を作ってでも、生きよう、という心になれば、それは前向きで良いのでは??
こんな記事を読みながら、段々と他人事ではないな・・・と感じるこの頃である。

140316cooking <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月15日 (土)

藤山一郎の「青春日記」

自分が子どもの頃から聞いていた「懐かしのメロディー」で、まだ挙げていない歌があった。藤山一郎の「青春日記」である。

<藤山一郎の「青春日記」>


「青春日記」
  作詞:佐藤惣之助
  作曲:古賀政男

初恋の
涙ににじむ(しのぶ) 花びらを
水に流して 泣きくらす
あわれ十九の 春の夢

今日もまた
瞳に燃ゆる 夕映に
思い乱れて むらさきの
ペンのインクも にじみがち

泣き濡れて
送る手紙の 恥ずかしさ
待てば淋しや しみじみと
街の舗道の 雨の音

明日から(は)
二度と泣くまい 恋すまい
いくら泣いても 笑うても
胸の痛手は 癒りゃせぬ

昭和12年のオリジナル盤も聞いてみよう。

この二つの音源を聞き比べてみると、歌詞が違う・・・

オリジナルでは、1番が「涙にしのぶ 花びらを」と歌っているが、ステレオ再録盤では「涙ににじむ 花びらを」と歌っている。
そして4番(オリジナルでは3番省略)の「明日(あした)から」と歌っているが、同じくステレオ再録盤では「明日(あす)からは」と歌っている。
歌詞を大切にして、はっきりと歌うことが信条だった藤山一郎にとって、この違いは何だったのだろう・・・。

この歌は、意外と放送で流れていない。心に滲みる良い歌なのに・・・。
それにしても、この歌を初めて聞いたのは、中学生の頃だったか・・・。藤山一郎の歌で、自分の好きな順に挙げると、「白鳥の歌」「長崎の鐘」の次くらいに位置している。昭和12年の発売だというので、かなり初期の作品。上のステレオ再録盤の録音時期は分からないが、藤山一郎の声はほとんど変わっていない。

そしてその歌詞だが、19歳のときの日記・・・。そして失恋・・・。何ともロマンチックな情景・・・
歌詞オンチの自分だが、「思い乱れて むらさきの ペンのインクも にじみがち」という歌詞で、少々乱暴だが、井上陽水の「心もよう」の歌詞を思い出す(ここ)。
「寂しさの つれづれに 手紙をしたためています あなたに 黒いインクが綺麗でしょう 青い便箋が悲しいでしょう・・・」
おっと、こちらは手紙だった・・・。

ペンやインクという言葉も、今ではほとんど死語・・・。今はワープロが主だし、手書きてもボールペン。何とも風情がない。
でも失恋のやりきれなさは昔も今も同じ。しかも、どちらも十九・・・。

ついでに、「明日から 二度と泣くまい 恋すまい」という歌詞は、水原弘の「黒い花びら」だな(ここ)。
「俺は知ってる 恋の悲しさ 恋の苦しさ だからだから もう恋なんか したくない したくないのさ」

先日、空き家になって2年になる実家の家財道具の整理に行ってきた。玄関で転んで骨折し、そのまま病院から老人ホームに行って92歳で亡くなったお袋。
その実家に久しぶりに行ってみると、時間がその瞬間で止まっている居間。いつも座っていたコタツの上には、手帳がひとつ。開いてみると、予定表の所々にメモが・・・。決して日記と呼べるものではないが、そこにお袋が居た。親父もお袋も、心の内を示す一切のメモも残さないまま、逝った・・・。
でも、まして青春時代の日記など、もし残っていたら、誰の目にも触れられたくないもの・・・。
先日も、現役時代の同僚の奥さんが、朝元気だったのに突然倒れて、急に亡くなったと聞いた。我々も、もういつ亡くなっても良い年頃・・・。
もし“青春日記”が残っていたら、そろそろ探し出して処分する頃なのかも・・・。
何とも、考えさせられる(?)「青春日記」ではある。

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2014年3月13日 (木)

AMラジオ放送がFM同時放送開始へ~在京3局は15年9月試験放送

今朝の朝日新聞の1面にこんな記事があった。
AMラジオ局、FM波放送も 高層ビル街でも聞こえやすく、災害にも強く
 ラジオのAM放送で流れている番組が早ければ来年中にも、FM波で同時放送されることになった。難聴取地域の解消や災害対策が当面の狙いだが、ラジオ局にとっては高音質のFMにより聴取者を増やせるという期待もある。国のラジオに関する電波政策が転換点を迎える。
 総務相の諮問機関・電波監理審議会が12日、難聴取・災害対策を条件に、AM局にもFM放送の免許を出せるよう規制緩和することを認める答申を出した。ニッポン放送(東京)やMBSラジオ(大阪)は同時放送する意向。総務省の昨年の調査ではAM局の8割も意欲を示している。ただ、周波数の帯域が広がることで、国内で市販されているすべてのラジオで聴けるわけではない。ラジオ局は聴取が可能なラジオの増産をメーカーに働きかける意向だ。
 AMの電波は波長が長く、遠くまで届くが、ビルや電子機器などの影響を受けやすい。一方、FMの電波は高音質だが、波長が短く、届く範囲が狭い特徴がある。
 これまでAM局によるFM放送は、外国電波との混信対策が必要な北日本放送(富山)など一部しか認められていない。今回の規制緩和で、高層ビルのある都市部などAMの電波が届きにくい地域や、AMの送信所が津波や土砂崩れなどで被災する恐れのある地域で、FMでの同時放送ができるようになる。テレビの地上デジタル化で終了したアナログ放送が使っていた「跡地」の電波帯を活用する。(丸山ひかり、成川彩)(
2014/03/13付「朝日新聞」p1より)

AMも維持、国求める 同時放送、ラジオ局は負担懸念 FM整備、国補助は部分的
 総務省が進める規制緩和により、AMのラジオ局によるFM同時放送が可能になる。しかし、AM局がFM局になるわけではない。国にはAM放送の中止を許すことができない事情があるからだ。ラジオ局は2種類の電波を送出することになり、新しいアンテナなどの設備投140313amfm 資で負担増になる恐れがある。
 AM局によるFM放送を認める方針を打ち出した総務省だが、局側にはAM放送の継続を求める構えだ。「AM放送をやめれば、隣国の電波が雨のように空から降ってくるのを防げない」と総務省幹部は話す。
 AMの電波は遠くまで届く性質があり、国境を越える場合もある。各国は、同じ帯域の電波を使う際は互いに混信しないよう、出力を調整している。だが、日本国内で使われない帯域が生まれれば、中国や韓国、北朝鮮などの隣国が、電波の出力を強めることを防ぎにくくなるという。
 政府は、ラジオ局の負担を軽減するため、FMの同時放送をする際は、送信所の整備費に最大で3分の2の補助金を出したり、法人税や固定資産税を優遇したりして支援する。
 ただ、ラジオ局の本音は異なる。FM同時放送に強い意欲を示すMBSラジオ(大阪市)。運営する毎日放送の河内一友社長は「本音を言うと、AMを将来的にも続けていくというのは負担だ」と明かす。
 同局はFM放送の来年末までの開始も視野に入れている。大阪市中心部ではビルの陰や高架下などAMが聞こえにくい場所が多い。「音質の高いFMの活用はサービスの向上になる。リスナーを開拓したい」と担当役員。今年中にも免許申請し、工事を始める。テレビのアナログ放送で使っていた鉄塔にFMアンテナを取り付ける。アンテナには国の補助金が出る見通しだが、発電機や機材を収納する建物は「自腹」になる可能性もある。出費は「億円規模」を上回るとみている。
 AMと同じ放送内容で広告収入がどの程度得られるか不透明な面もある。AMの送信所は広大な土地や100メートル超の鉄塔などにより、高いコストがかかることへの懸念もある。MBSのAM送信所は老朽化が進み、約20年後に建て替えが必要。放送は中断できないため、新しい送信所のために代替地が必要だ。
 FM同時放送に強い関心を示すニッポン放送(東京都千代田区)の村山創太郎社長も11日の定例会見で、「すぐにもAMをやめるとは考えていない」としつつも「実際にFMをやってみて総合的に判断していく」と含みを持たせた。
 北朝鮮などの電波との混信に悩んできた富山市の北日本放送。特例としてFMを使った同時放送が認められている。同局は「二つの電波を出しても広告費は増えないので、経費的デメリットは大きい。AM放送の維持は大変だ」ともらす。(成川彩、丸山ひかり)」(
2014/03/13付「朝日新聞」p7より)

この記事の詳細を知るために、昨日総務省が発表した報道資料を眺めてみる(ここ)。一番気になるのが、使用される周波数帯。答申では90~95MHz帯だという。
ここ)の資料によると、関東広域圏(東京)では90.5MHz、91.6MHz、93.0MHz、中京広域圏(名古屋)では、92.9 MHz、93.7 MHz、近畿広域圏(大 阪)では、90.6 MHz、91.9 MHz、93.3 MHzが与えられている。そして、「平成32年3月31日までに使用されない場合は、当該周波数について、削除するものとする。」という但し書きも・・・。
しかしこれでは、カーラジオ等、日本の標準の76~90MHzの受信機では受信出来ない。

そして(ここ)の資料のQ&Aにこんな記述があった。
Q:「災害に対して脆弱なAM放送を、FM方式による補完局を整備し、災害発生時の国民の生命や生活等を守ることが本制度整備の大きな目的の一つです。本案で災害対策として割り当てられている周波数は90-95MHzですが、この帯域を受信可能なラジオ受信機は希有であることが現状です。東南海地震等いつ発生してもおかしくない大災害に対し、90-95MHzを受信可能なラジオ受信機の開発や普及を待つ猶予はないと考えます。現行の76-90MHzのFM放送を受信できるラジオ受信機は既に国内に広く普及しており、災害対策のためのFM補完局の周波数は、まずは現行の76-90MHzを優先的に割り当てていくべきと考えます。」
実にもっともな指摘。それに対する総務省の回答は素っ気ない・・・
A:「災害対策に係るFM補完局のうち空中線電力が小さい「その他のFM補完局」については、90MHz超え95MHz以下で周波数の使用ができない場合であって、災害対策のために真に必要な場合に限り、90MHz以下の周波数の使用を認めることとしています。」
「加えて、90MHz超え95MHz以下の周波数に対応した受信端末の普及については、国としても必要な取組を適切に進めて参ります。」

ダメだな・・・。
既に76~90MHz帯は満杯だという。よってその上の空いた帯域を使いたいのは分かるが、受信機がない現状では、防災と言っても効果は限定的。それでも強行する・・・。つまりは数十年経って、受信機が普及してからの効果となる。惜しい・・・。
せめて、東名阪各3局の広域局だけでも、90MHz帯以下での割り当てが出来ないのだろうか? 地デジの周波数帯を確保するために、各局がチャンネルを変更したのと同じように・・・

Netで検索すると、FM周波数コンバーターなる製品があるという。電波の質の劣化は別として、海外用FM受信機(88~108MHz)の受信帯域を15MHz移動させて、日本の放送波76~90MHzを受信できるようにするという。もしこれが出来るのなら、その逆も出来るのでは??

自分の目指すものは、今ある高級FM受信機(L-02T)で受信すること。つまり受信周波数は何が何でも76~90MHz帯に入らないと困るのである。もし5MHzのコンバートが出来れば、受信周波数は、81~95MHzになる。自分は既存局ではNHK東京(82.5MHz)しか聞かないので、ギリギリ間に合うな・・・。それに、シフト量を2~5MHzに可変できると有り難いな・・・。これは勝手な希望なのだが・・・。まあその時になると、手はあるかも・・・

しかしどう考えても、直ぐに在京のAM5局がFMでのサイマル放送を開始するとは、到底思えない。何より、民放の体力が心配。上の記事の北日本放送のように「二つの電波を出しても広告費は増えないので、経費的デメリットは大きい。AM放送の維持は大変だ」が本音だろうから・・・

でも方針は決まった(答申通りに法は改定される)。とりあえず大阪のMBSラジオとニッポン放送の動きを注視するとしようか・・・。

(2014/07/09追)
ニッポン放送、FM波申請
 ニッポン放送は8日の定例会見で、ラジオのAM放送で流れている番組をFM波でも放送する「FM補完中継局」の予備免許を総務省に申請したと発表した。文化放送、TBSラジオも既に申請したことが明らかになっており、在京の民放ラジオ3局がFM波での放送を目指すことになる。」(
2014/07/09付「朝日新聞」p37より)

(2015/01/14追)
AMラジオ、FMでも 今秋(2015年)から冬、在京3社が補完放送
 TBSラジオ、文化放送、ニッポン放送の在京AMラジオ3社は13日、FMでAMと同じ放送を流す「FM補完放送」を、今年の秋から冬にかけて始めることを明らかにした。東京スカイツリーの共同アンテナからFM波を流す。
 この日会見したニッポン放送の村山創太郎社長によると、(2015年)8月に工事を終え、9月に試験放送を実施。その後、本免許の交付を受け、本放送を開始する予定という。気候の影響で工事の時期がずれる可能性がある。3局はこれまで、放送開始時期を今春以降としていた。
 FM放送が始まると、鉄筋マンションなどAM波が届きにくい「難聴取地域」でも聞こえやすくなる。地震など大災害で放送設備が被害を受けた場合に備える「災害対策」の面もある。周波数はTBSが90.5、文化放送91.6、ニッポン放送93.0メガヘルツ。東京23区と埼玉県、千葉県、神奈川県の主要都市および周辺で聴くことができる。」(
2015/01/14付「朝日新聞」p29より)

(参考資料)
「ラジオマニア2014」~『FM放送受信の心得』

(関連記事)
東京のAMラジオ局のFM同時放送、2015/10/5 試験放送開始、11/6~連続送信
関東広域・民放AMラジオ3社が、15年春よりスカイツリーからFM同時放送開始
AMラジオのデジタル化~FMサイマル放送へ? 

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2014年3月12日 (水)

「旅券をなくした日」~イエイ!が気に入った

ちょっとした新聞のコラムなのだが、読み出してあっと言う間にその世界に引き込まれることがある。
今日の日経夕刊にこんなコラムがあった。

「(プロムナード)旅券をなくした日 宮内悠介
 あるとき、東南アジアに出張中の先輩からこんなメールが入った。
「睡眠薬強盗にあった。イエイ」
 何がイエイなものかと思った。
 でも、そうかと言って、むげにもできない。何しろ、おそらくは海外で無一文となり心細いなか、ぼくが旅好きであったことを思い出し、なかば頼る気持ちでメールしつつ、さりとて悲壮感があってはならないと思い、文末に「イエイ」を付け足したに違いない。
 だとしても、これはどう返信したものなのだろう。どういう一言をかければ、相手の気は紛れるのか。
「無事でよかった」?
 そうではない。無事でないから、こうしてメールを書いてきている。
 もっと何か、自分にしか言えない言葉があるはずなのだ。ぼくは軽薄で言葉遊びが大好きな人間だけれど、こういうときの言葉は大事にしたいと思っているのだ。
 考えているうちに、かつて旅したときのことを思い出した。そのころぼくはパスポートや現金を袋に入れ、腹に巻いて移動していた。腹に隠すのは、もちろん盗難に遭わないようにだ。どのみちホールドアップをされれば奪われるけれど、そのときは命も奪われるので問題ない。
 問題はない――はずだった。
 ぼくはネパールの首都カトマンズで、旅の疲れを癒(いや)したところだった。カトマンズには日本食を食べさせる店などがあり、一息つけるのだ。そして、一息つきすぎた。ぼくは宿の枕の下に貴重品袋を置き忘れ、そのまま長距離バスに乗って旅立ってしまったのだった。イエイ。
 バスのなかで、何気なく腹をさすって青くなった。慌てて運転手に事情を話し、電話のありそうな場所でバスを止めてもらうことにした。
 問題は、パスポートと一緒に現金が入っていたことだ。旅券だけならまだしも、現金が入っていると、返ってこない可能性が高い。迂闊(うかつ)に「忘れものをしました」と電話するくらいなら、直接宿の部屋に乗りこんだほうがいい。考えた結果、宿で高校生くらいの従業員と仲良くなったことを思い出した。こういうときは、大人より子供のほうが信用できる。名指しでその従業員に出てもらって、こっそり貴重品袋を取っておいてもらったのだった。
 この世には善意がある。
 そのときの従業員とは、いまもたまにメールのやりとりをしたりする。ともあれ、ぼくは幸いにして山奥で路頭に迷うことはなくなった。残る問題は、乗客たちを待たせていることだった。ぼくは客達一人ひとりに、事情を話して謝って回った。
 当然のこと、はてしなく落ちこんでいたのだけれど、そのとき乗客の小父(おじ)さんが昔話をしてくれた。
「昔、仕事で日本を訪ねたんだよ」
「日本にですか?」
「でも、成田でタクシーに乗ったら無一文になってしまった。あのときの絶望は忘れない」
 ははは、と小父さんは陽気に笑う。ぼくを和ませようとして、自分の失敗談を話してくれたのだ。
 ぼくは出張中の先輩にこう返すことにした。
「おれはネパールでパスポートをなくしたことがありますよ。イエイ」
 返事はこうだった。
「そういうわけだから、可哀想(かわいそう)な俺のために帰国したらおごってくれ」
 少し考えて、返信をした。
「自己責任です」(作家)」(
2014/03/12付「日経新聞」夕刊p7より)

どうってことない一文だが、さすが作家さん・・・。一気に読んでしまった。

「しまった!」と思うことは良くある。上の事件のように忘れ物はその代表。特に、海外旅行でのパスポートの忘れ物は、代替手段が無いだけに、「しまった!」の代表格。
「しまった!」は、「何とか時間が戻らないか?」の願いが込められている。一番身近なのが交通事故。あの一瞬、こうしていたらぶつからなかったのに・・・。そして交通違反で捕まったときも同じように考えるかも・・・
でも時間は戻らない。してしまったことは戻らない。ではどうする・・・?

上の記事にある「イエイ!」が気に入った。
「一旦停止をしなかったので捕まっちゃったよ!イエイ!」「リストラで自分の名前があがっちゃったよ!イエイ!」「会社がつぶれちゃったよ!イエイ!」「ガンになっちゃったよ!イエイ!」・・・

何か気が楽にならない?? イエイ!

140312busjack <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月11日 (火)

「老後は家族に頼る?」

今朝の日経新聞に、アジア太平洋の国々で、老後の過ごし方について調査をしたという記事があった。

「(データは語る)東南ア、老後は家族に頼る 日中韓は施設利用が多く
 高齢者になったら東南アジアは家族を頼り、東アジアは施設・ヘルパーを頼る――。米調査会社、ニールセンがアジア太平洋の13カ国・地域で実施した調査で、こんな結果が出た。インドネシアで家族を頼る人の割合は日本の2.7倍だ。
140311rougo  調査は昨夏、10代から70代までの500人に「将来、高齢で身の回りのことができなくなったとき、どう生活するか?」を聞いた。
 「子供と同居」が最も高かったのはタイの38%。同国には介護大手のリエイ(千葉県浦安市)など日本の事業者も進出しているが、「親の面倒を見るのは子供の務めという意識がタイ人には根強い」(39歳のタイ人女性)。2世代、3世代同居の多いインドネシアも子供に頼る人は29%いた。同国は「配偶者に頼る」が56%と最も多かった。
 日中韓は高齢者向け施設、ヘルパーを利用する人が50%を超えた。高齢化が進行中で、介護事業者も増えている。「子供に頼る」は韓国が4%、日本が6%と調査した国の中で際だって低かった。(
2014/03/11付「日経新聞」p9より)

前にも書いたが(ここ)、「今の団塊の世代は、親の面倒を見る最後の世代であり、子供から面倒を見てもらえない最初の世代」だという。

上の調査を見ると、それを反映してか、日本は子どもに頼ろうとしているのは6%とか・・・。確かに時代は変わった。しかし配偶者に頼る、とした人も20数%と少なく、家族に頼る率が日本は際だって少ないようだ。これをどう理解しようか・・・。

親父が亡くなってもう17年以上になる。その親父の口癖は「絶対に子ども達とは一緒に住まない。他人が家に入ってくると、気を遣って窮屈。夫婦だけが自由で良い」。
まあそうだろうな・・・と思う。我が家でも、そのような選択肢は最初から存在していない。
でも家族に頼らないという日本のこの数字は、本音か? もしかすると、積極的な考えではなく、仕方がない・・・レベルかも知れない。
それは夫婦のどちらかが倒れたときに明確になる。真に困ったときに・・・

しかし、現役時代の社会的な地位がどうであれ、老後の体が弱ってからの人生は、所詮家族に頼るしか方法はない。家族は良くも悪くも逃げられない血でつながる。
でも実際は、幾ら血がつながっている家族と言えども、真に仲のよい家族は母親と娘の関係位で、それ以外はなかなか難しいもの。
それには、ほど良い“間合い”が必要なのかも知れない・・・。
とりあえず、自分が動けなくなったときに備え、カミさんの具合が悪い足の完治に、幾らでも金を掛けるしかないな、と決心するこの頃である。(まずは近い周囲を固めねば・・・)

140311unchi <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月10日 (月)

日本は長時間労働で生産性の低い国~インドのアウトカーストの仕事

今朝の日経新聞の「グローバルデータマップ」という記事を見ると、経済大国である日本が、世界から見ると「長時間労働」で「生産性が低く」「女性の働きにくい」国だという事が分かる。

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新聞の解説にこうある。
仕事と生活 日本は両立途上
     長時間労働で低い生産性 女性の働きにくさ直結
終わらない残業、伸びない給与。日本の労働者が置かれた環境は厳しい。1990年代以降、年間総労働時問は減少したが、短時間働く非正規社員が増えた影響が大きい。20~40歳代の働き盛りの男性正社員の多くは、依然として長時間労働を続けている。欧州諸国は短い時間で仕事をこなすため、結果的に労働生産性が高い。その結果、レジャーやスポーツなど余暇に使う時間も長くなっている。ワークライフバランス(仕事と生活の調和)は女性の社会参画のしにくさにも大きく影響している。」
「欧米は効率よく生産性の高い労働をしている」
「アジア・新興国は労働時間が長い割に生産性が低い」(
2014/03/10付「日経新聞」p9より)

表の左上が労働時間が短く、生産性が高い。そして右下が労働時間が長く、生産性が低い。
この表の国で言うと、日本はワークライフバランスではトルコ、メキシコに次いで、下から3番目。そして年間総労働時間は米国よりも少なくなっている。年間1750時間とすると、月146時間、20日で割ると1日7.3時間である。これは尋常な値ではない。日本人が働き過ぎだと非難されていたことがウソみたい・・・。これは正社員の残業時間を考慮すると、まさに記事のように短時間労働者がたくさんいることを示している。日本人の多くがパート労働者??

そして労働市場における女性の割合が、日本は62%程度。かろうじてOECD加盟国平均よりは上回っているが、日本の文化が影響しているとは言え、この数字をどう見るか・・・

話は変わるが昨日の日経新聞にこんな記事があった。
「(半歩遅れの読書術)世界のトイレ事情、「そこいら中」が当たり前 椎名誠
 いろんな国の辺境といわれるようなところに行くので、トイレ関係の話や本になると体がむずむずする。いや便意をもよおすからではない。あまりにもいろんなスタイルのものがあり、あまりにも多くの国にトイレそのものが無かったりするからだ。
 辺境地の小さな村で住人に聞くと「そこいら中だ」と手をぐるりと回したりする。
 目の前の原野とか砂漠とか川などを示しているのだ。そういう「そこいら中」で用をたすのは最初はちょっと緊張する。しかし長い滞在で慣れると一般的な個室トイレがばかばかしくなってきたりする。
 ローズ・ジョージ著『トイレの話をしよう』(大沢章子訳、NHK出版)は世界中のそうしたトイレを詳細にルポしたトイレ探索研究本の頂点にあるような一冊だ。ルポした人はイギリスの若い女性。しかも美人である(関係ないか)。
 世界65億人が抱える大問題――とサブタイトルにあるように、まだまだ人口が増え続ける地球にとって65億人が毎日排出する大小便の処理は多くの国が結果的に捨てるしかない、という原始的な処置のままである。
 いろいろな糞便(ふんべん)の処理のなかでインドのマニュアル・スカベンジャーの話は強烈だった。インドの田舎を旅するとちゃんしたトイレを使える確率はえらく低くなっていく。「そこいら中」でのやり方になってくるからだ。
 道のはしっこにちょうど両足をおけるような位置にレンガが二つあり、人々は露天のそこで用をたす。ひりすてされた糞便をカラの缶詰や素手で回収し、容器にいれて糞便をためてあるところに持っていく。
 カーストの下のアウトカースト(不可触民よりも下)と呼ばれる人々の仕事で、殆(ほとん)どが女性。インドにはこうした路上簡易トイレが無数にあるという。「統計によって幅はあるがインド中で40万人から120万人のマニュアル・スカベンジャーがいる」という。彼女らは個人の家の同じようなしくみの簡易トイレの始末を専門にする人もいる。個人に雇われた場合の賃金は月に5ルピー(約8円)、自治体に雇われた場合は30ルピー(約50円)だ。
 そしてアウトカーストの残虐なところは、スカベンジャーの子(娘)はスカベンジャーになっていかねばならないことである。
 この本を読むと、高度に先鋭化、システム化した日本の最新鋭トイレが世界一清潔で進化した機能、ということを知る。しかし同時にそれは突出しすぎてこれもまた異常な世界のように見えてくる。(作家)」(
2014/03/09付「日経新聞」p22より)

簡単に「働く」というが、このインドの例は何とも凄まじい。労働生産性の高い低いのレベルではない・・・。
「働く」「仕事」という文字を眺めながら、ウーンとうなってしまう・・・
何ともしまりのない話だが、ついでに『トイレの話をしよう』という本を図書館で予約してしまった!
(付録:「ひりすてされた」という言葉を自分は知らなかった・・・)

●メモ:カウント~550万

140310jyaga <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月 9日 (日)

「50歳からの食事 脳より賢い腸に従え」~藤田紘一郎氏の話

先日の日経新聞にこんな記事があった。
50歳からの食事 脳より賢い腸に従え
 脳は目先の快楽を優先し、私たちを肥満や病気に追い込む「バカ」……。賢い腸をいたわり、その命令に従うことこそ、健康と幸せを実現する早道だ。50歳以降の「腸・健康法」について、免疫学者の藤田紘一郎さんに聞いた。
【腸のオキテ(1)】幸せを感じさせるのは脳ではなく、腸
 「腸は第2の脳」だなんてとんでもない。腸は、脳よりもずっと賢く、人体にとって最も重要な臓器です。腸内細菌は消化機能だけでなく、ビタミン類を合成したり、免疫を活性化して病原菌を排除したりする働きも担っています。さらに、幸福感をもたらすドーパミンやセロトニンといった「幸せ物質」の前駆体(ある物質が生成される前段階の物質)を合成し、脳へ送り込んでいるのも腸内細菌。つまり、若さを保ち、病気を防ぎ、幸福感を与えてくれるのは、腸なのです。
 現代人の腸内細菌は激減しており、40~50代男性のその量は、戦前の3分の1にまで落ち込んでいます。野菜を食べなくなり、腸内細菌のエサとなる食物繊維の摂取量の減少、食品添加物やストレスによるダメージが、その原因です。
 怖いのは、活性酸素。大気汚染や電磁波、ストレスで体内に活性酸素が発生すると、あらゆる細胞や腸内細菌を攻撃し、ダメージを与えてしまいます。
【腸のオキテ(2)】本当は、腸は炭水化物を嫌がっている
 50代ともなれば、腸をいたわる食べ方に変える勝負の時期。なぜなら、50歳からは体を動かすためのメインエンジンが切り替わるからです。体を動かすエンジンは2種類あり、一つが炭水化物を糖に変え、瞬発力を生む「解糖エンジン」。もう一つは、酸素を燃料に持続130309chou 力を生む「ミトコンドリアエンジン」です。
 活動的な30~40代のメインは解糖エンジンで、その原料はご飯やパンなどの炭水化物。50代を迎えると、今度は徐々にミトコンドリアエンジンにメインが切り替わります。腸を主に動かしているのがこのミトコンドリアエンジンで、酸素を原料としています。
 ところが、50歳を過ぎてからも変わらずお菓子やパンを食べていると、解糖エンジンが活発になり、ミトコンドリアエンジンがうまく回らない。すると、取り込んだ酸素は使われないまま活性酸素になり、腸にダメージを与えます。
 日本人の4大疾病のがん、心筋梗塞、脳卒中、糖尿病のすべてに活性酸素が関係します。中高年でこれらの病気にかかるのは、2つのエンジンを切り替えられないのが一因。50歳を過ぎたら、炭水化物類は食べないほうがいいのです。
 「分かっているけれども、食べてしまう」。それは脳がバカだからです。脳は、性欲と食欲に忠実で快楽が大好き。「おいしい」という快感が脳を興奮させ、「食べろ」と間違った命令を下します。バカな脳の指令は無視して、真面目に体を正常に保つ腸にこそ、従うべきなのです。本当は、腸は糖が多いことを嫌がってるはず。まあ、私も疲れると「バカな脳を癒やしてやるか」と、チョコレートを1粒だけ食べますがね……。
【腸のオキテ(3)】大きなウンコ、出てますか?
 腸の指令に従うための大前提は、流す前に便をよく観察すること。便の80%は水分で、残りのうち3分の1は腸内細菌、3分の1ははがれた腸細胞で、3分の1は食べたもののかすです。腸がよく働いている人ほど腸内細菌が多く、食物繊維が多いため便は大きくなる。また、臭いが少なく、黄金色で練り歯磨きくらいの硬さがベスト。それがスポーンと出たら、腸からの良い便りです。
 逆に便が小さく、臭いがきつくて色も黒いようなら、腸内細菌がピンチの知らせ。食物繊維が豊富な野菜や果物、乳酸菌が豊富な納豆や味噌をせっせと食べましょう。特に色の濃い野菜は活性酸素を除去する抗酸化物質、フィトケミカルが豊富ですから、一石二鳥です。
 好きな人と気分よく食事することも、腸にとって大切。楽しく食べると免疫力が上がります。脂肪を燃焼させる細胞を活性化し、太りにくくなることも分かっています。
 ちなみに、私は週に2回はすてきな女性といいレストランで肉を食べるようにしています。なぜなら、中高年以降はたんぱく質やコレステロールが不足しがちになるからです。たんぱく質を取らないと、それを材料とするホルモンの分泌も悪くなります。50代を過ぎたら週2回は肉、これは鉄則です。
 私は忙しくても、ジムで短時間でも泳いだり、温泉に行って体を温めたりしています。これは、ミトコンドリアエンジンをよく動かすため。酸素を取り込みながらゆっくりとした運動を行うこと、体を温めることはミトコンドリアエンジンを活性化させ、腸も喜びます。
 ある程度のお酒やたばこも楽しんでいいのではないでしょうか。お酒は飲める人なら1日2合(すぐに赤くなる人は飲んではダメ)、たばこは1日5本程度であれば、ストレスを解消して免疫力を上げるというデータも。免疫学者はみんな「好きなことをしている人のほうがずっと長生きだ」と口をそろえます。免疫力には腸が7割、気持ちが3割関係しますから。
【腸のオキテ(4)】キタナイ生活をすれば腸はキレイになる
 私は今の若い人よりも、腸年齢は若いという自信があります。なぜなら子供の頃に、野山でカエルやヘビを食べて、川底にはいつくばってウナギやナマズを捕まえ、菌をたくさん腸に入れたから。O-157に感染して重症化する人、軽い下痢で済む人の違いは、腸内細菌。普段から腸に雑多な菌を入れていれば、腸内細菌が鍛えられて大事に至らない。インフルエンザやノロウイルスが猛威を振るい、花粉症やアトピーが増えた原因は、行き過ぎた清潔志向が免疫を低下させているためです。
 泥まみれになって遊んだ子供は丈夫で、風邪をひきにくいものです。大人も、衛生的にはある程度おおらかなほうがいい。私は抗菌・除菌グッズは使わず、手を洗うときにも薬用せっけんは使いません。「落ちたものも食べる」くらいが、本当は腸にとってはいいのです。
<この人に聞きました>藤田紘一郎さん
免疫学者。寄生虫学、熱帯医学、感染免疫学専門。免疫と腸のスペシャリスト。東京医科歯科大学名誉教授。人間総合科学大学教授。近著は『脳はバカ、腸はかしこい』(三五館)、『腸をダメにする習慣、鍛える習慣』(ワニブックス)。(ライター 木村直子、イラスト 伊野孝行) [日経おとなのOFF 2014年2月号の記事を基に再構成]」(
2014/03/06付「日経新聞」より)

「寄生虫学」と聞いて、昔書いた記事を思い出した。やはりそうだった。2008年に「腸内細菌と免疫~藤田紘一郎氏の話」(ここ)という記事を書いたことがあった。ちょうど6年前だ(今見たら、NHKラジオ深夜便のこの時の録音がまだ残っていたので、その内もう一度聞いてみよう・・・)。

前の記事もそうだが、少々は話が乱暴。でも、それだけに聞いていて面白い。
「活性酸素」が老化を呼ぶ、と前に聞いたことがある。そしてそれが病気を呼ぶ・・・という。
むしろ、現代の文明(=ストレス)そのものが動物としての人間を蝕んでいるのかも・・・。よって、かえって江戸時代のような、自然と人間とが合体(調和)していた時代の方が、肉体的には健康だったのかも知れない。

毎朝、NHKの朝ドラ「ごちそうさん」を見ている。昨日、息子が戦死したという報を聞いて、メイ子が「こんな事のためにご飯を作っていたんと違う」というセリフがあった。
なかなかユニークなセリフだ。普通は「こんな事のために“育ててきた“んと違う」では?
でも、子どもを育てる中で、もっとも重要なのが「食べさせる」ということ。食事が肉体を作り、健全な肉体にこそ、健全な精神が宿るのは当然・・・。

それは分かるが、自分としては、最近は“あまり気にしていられない・・・”と思うようになっている。アレは体に良い、これは悪い・・・と思うこと自体が、ストレスになる。むしろ、毎日、美味しく楽しく食べられることの方が、良い回転になるのでは?・・・と。
頭で考えるよりも、体の求めるままに・・・という生き(食べ)方をしてみたい、と思うのだが、どうだろう・・・

(関連記事)
腸内細菌と免疫~藤田紘一郎氏の話

140309yabee <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月 7日 (金)

河村順子の「ほととぎす」

聞き慣れた歌だが、先日、河村順子の「ほととぎす」を聞いた。

<河村順子の「ほととぎす」>


「ほととぎす」
  作詞:近藤朔風
  作曲:ライトン

小暗き夜半を ひとり行けば
雲よりしばし 月はもれて
ひと声いずこ 啼くほととぎす
見かえるひまに すがた消えぬ
夢かとばかり なおも行けば
またも行く手に 闇はおりぬ

この歌は学校で歌ったことがある・・・と調べてみると、昭和22年の中学2年の音楽の教科書に載っていたらしい。(ここ
またこの歌は「暗路(やみじ)」という題も持っている。「暗路」というタイトルでは、自分は2つの音源を持っている。

<山本健二の「暗路」>

<鮫島有美子の「暗路」>

この歌の背景について、Netで検索してみた。すると、鮫島有美子のCDのブックレットには「近藤朔風(1番)と志村建世(2番)の歌詞による「暗路」として歌われているが、それ以前に「秋夜懐友」(犬童信蔵作詞)として大正3年に発表された唱歌のひとつだった。もちろん、現在は「暗路」のほうが親しまれている。ライトン(1816~1880)の作曲」という記述があるらしい(ここ)。

上の鮫島有美子の2番が、野ばら社元編集長の志村建世氏の訳詞だというので、JASRACのデータベースをたたいてみると「消えぬおもかげ」という題で載っていた。それで、氏のblogに何か載っていないかと検索したが、ちょこっとしか載っていなかった(ここ)。
そして(ここ)のサイトには詳しく解説がある。原詩は「Her Bright Smile Haunts me Still」といって(ここ)に原詩の直訳があるが、まさに愛の詩である。しかし聞き慣れた近藤朔風の1番の歌詞は、どうも原詩と違う・・・。では作詞?? でもJASRACのデータベースには「近藤朔風“訳詞”」とある・・・。

でも近藤朔風の2番は、
「別れし友よ 今はいずこ
今宵の月に 君を想えば
心はうつろ 思い出消えず
悩める胸に 帰るは彼の日
星影だより 共に語りし
昔の言葉 今ぞしのぶ」

というらしいので、何となく原詩の訳かな・・・とも思う。
何とも訳詞の世界は難しい。

ともあれ、この「ほととぎす(または「暗路」)」は、転調の妙で頭から消えない旋律ではある。

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2014年3月 6日 (木)

「ふてくされるなよ50代」~童門冬二さんの話

先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「(異才面談)小説家・童門冬二さん ふてくされるなよ50代
 ――今の時代、役職を若い人に譲ったり、仕事を辞めたりしても、残りの人生は長いです。うまく生きた人はいますか。
 「昔もなかなか難しい。武田信玄は隠居した後も名声を独り占めしようとした。家臣たちの前で子どもの勝頼に恥をかかせ、バカにし、家臣たちは『不肖の2代目』だと勝頼を軽んじた。結局、勝頼はやけくそになり父親の偉勲をみんなひっくり返してしまう。信玄は名将ではあったが、2代目養成という点では愚将だと思います」
 「大河ドラマで話題の黒田官兵衛は、武田信玄を反面教師にしたのか悪名すべてを自分に塗りつけた。隠居後、自分の悪評を作り上げたのです。家臣たちは先代に愛想を尽かして、2代目をもり立てようとした。自分が悪役になり、2代目を守ったのです」
 ■上杉鷹山、老獪な男
 ――米沢藩を改革した上杉鷹山もさっさと隠居し、きれいな引退だったのではないですか。
 「30年ほど前に『小説 上杉鷹山』を書いた時は、私もそう思っていました。でも今は少し違う。養子だった鷹山は35歳で隠居し、上杉家直系の治広に米沢藩主を譲ったこともあり、美談として語られた」
 「しかし、隠居後も藩政に対して影響力を持ち続けた。改革が実際に進んだのは隠居の後で、藩主のころは必ずしもうまく行かなかった。城から居を移したが、何かと家臣らが頼ってくるのを見越し、隠居後も常にお城の方を見て、問題が起きれば指図もした。会長や相談役に退いても現役社長らに指示するようなもので、老獪(ろうかい)な男です。今では鷹山のやり方は正常ではないと思っている」
 ――自分がいなくなれば、この藩、つまりこの会社はダメになると思う人が多くないですか。
 「そんな考えは捨てるんですね。それじゃいつまでたっても死ねなくなる。自分はいつかはいらなくなる。そう思うと寂しいし、腹も立つ。でも山のてっぺんに登れば、下りるしか仕方がありません」
 ■隠居、第二の出発点
 ――第二の人生をうまく生きた人はいませんか。
 「伊能忠敬でしょう。計算法に強かった忠敬は伊能家の婿養子になり、伊能家の財政再建に尽力した。50歳で隠居し、その後は本当にやりたかった天文学を学び、社会に役立てようとした。名家伊能家の復興を見事に成し遂げ、それによって隠居後の自由を確保したのです。第二の人生の出発点が隠居だったのです」
 ――伊能忠敬のように現役時代にやるべきことをやりきり、後顧に憂いがないというのはすばらしいですが、どう準備すればいいのですか。最近、「50歳からの勉強法」という本も書かれましたが。
 「勤め人で50歳ぐらいになると、何人かの同僚はどんどん偉くなり、優秀な後輩には抜かれていく。やれ会社が悪いの、上役が悪いのと飲んでは愚痴を言う。そうではなくて『公』を考えなくてはならない」
 ■人生棚卸しの時機
 ――公とは?
 「会社勤めだって公はある。会社のため、というわけではないが、会社にとって良いこと、社会にとって良いことは何かを考えることです。これまで会社から受けた恩を感じて、めぼしい後輩養成に励もう、というのも良い。若い人を育てないと会社は生きていけないのですから。今は危機の連続で安閑としていられなかった戦国時代のような時代。50歳代でふてくされてはどうにもなりません」
 ――振り返って後輩に教えるようなことがあればいいですが。
 「俺のようになるな、でもいい。でも50歳になって、振り返れば、よほどいい加減に生き、ムダな時間を過ごしていない限り、なにがしかの学びの種はある。たとえ新幹線のような出世人生から各駅停車に乗ったとしても、自分自身を客観的に見たら『お主、やるな』と思えることがある。50歳代は人生を棚卸しして、自分を見つめる時機にすべきです」
     *
 どうもん・ふゆじ 1927年生まれ。44年特攻隊に志願するが、終戦。戦後、東京都庁に。企画調整局長などを経て、79年に52歳で退職し小説家に。「小説 上杉鷹山」など著書多数。
 「転々の人生」理想の心得 編集委員・安井孝之
 春は人事の季節。悲喜こもごもである。年金支給も遅くなり、残りの人生も長い。第二の人生をのんびり歩みたくても難しい。童門さんは「人生は起承転々」という。いつまでも学んで、転がってゆくしかないという心得である。
 社内でふてくされても仕方ない、と童門さん。東京・新橋辺りで愚痴を言い合い、飲むのも時には必要だろうが、「そればかりでは」と自戒する。かつてほど今の日本の会社は頼りがいがない。私も今年で57歳。伊能忠敬のように今をやりきり、「転々の人生」が理想とみた。」(
2014/02/12付「朝日新聞」p4より)

この記事は、リタイア前の50歳台へのエールらしい。一方、こっちは60台真っ盛り。
よく言われるが、現役引退後の時間は長い。そのいわゆるゴールデンエイジをどう過ごすかで、幾らでも“それまでの人生”の挽回は出来る。
問題はその時間をどう過ごすか・・・だ。

ふと、周囲を見渡すと、現役を終わって、心機一転中国に渡って、大学で日本語を教えている大先輩や、いまだ現役を続けている大先輩、読書三昧の大先輩などを除くと、“あの先輩は、今はこうしている・・・”ということがなかなか分からない。
つまりは、それぞれが“こまめに”自分たちの人生を生きているのだろう。それで良いのだと思う。
世に名を残す後半の人生など、一部のエラ~イ人を除くと、我々素人には難しい。確かに伊能忠敬は偉人。でもそんな人生を真似るなど、我々では到底無理・・・。つまりは、“充実した余生”を生きられる人など、あまりいないのかも・・・??(考えれば考えるほど、トーンが落ちていく・・・)
そんな言い訳を考えつつ、“残りの人生問題(=如何に生きるか・・・)”を先延ばしにしている自分ではある。

140306boke <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月 5日 (水)

「がん放置療法のすすめ」近藤誠著~Uさんの読書ノート

Uさんが送ってくれる読書ノートのうち、近藤誠氏のシリーズの続きである。この本のエッセンスとUさんのコメントである。

★「がん放置療法のすすめ」近藤誠著~Uさんの読書ノートのPDFはここ

「コメントと感想
・・・
本書が今出版されたのは、著者が2014年春に定年を迎え、定年後は診療に携わらないと決めている為、患者は自立する事を迫られる。そこで何かの時に自分で判断をし、行動できるよう本書を残そうと思ったと「後書き」に書かれています。
又、著者は、在籍した慶応病院に感謝している。放置治療を実施し、病院収入が一人当り700円にしかならない医療行為を許してくれた義塾の自由や独立自尊の精神に感謝しています。

著者が此処まで明確に、固形がんには、抗がん剤は効かない。早期発見・早期治療は間違いだと公言しているのに、癌研や大学病院では、今でも手術を行い抗がん剤を使用している。もし、それが正しいならば、なぜ、近藤医師に抗議や議論を挑まないのであろうか?不思議でならない。医療を、命を担保にした博打にしてはいけない。」

それにしても、本のタイトルが「がん放置療法」というのだから凄まじい。つまり「放置」が療法だというのである。タイトルだけ見ると、人間の自然治癒力を期待して・・・とも取れる。しかしこの書の終章では、このように述べられている。

終章 がん放置の哲学「まずは様子を見よう」
もし皆様が、将来がんと告げられた時に、何が何でも放置を貫くと力む必要はありません。がん放置療法の要諦は、少しの期間で良いから様子を見るという点にあるからです。その間に、「がん告知」によって奪われた心の余裕を取り戻すのです。そして、がんの本質や性質を考えましょう。がんは老化現象です。年齢が高くなるほど発ガン頻度は上がります。そして、老化現象である故、放置した場合の経過が比較的温和なのです。ただ、本物のがんの場合は、老化現象の究極として、いずれ死を呼び寄せます。しかし、その場合も成り行きを癌に委ねれば、自然の摂理に従って人生を完結させてくれます。がんは症状が出ても「緩和」の方法が確立しています。治療法に数種の「選択肢」がある場合、なるべく負担の少ない方法を選ぶのが長生きのコツです。この場合、がん放置療法は有力な選択肢になります。がんを放置する事は決して愚かしい行為ではありません。それは、無神経で粗野な医者たちに、人格や身体を蹂躙されることを避けるための最善の方法であり、人としての尊厳を回復する特別な処方箋なのです。がん死亡が増えている現在、がんの本質を見直すことは勿論ですが、もっと広く人生観、世界観を涵養する為の「哲学」が求められているはずです。
つまり、ある種の「諦観」を持つのでなければ、医者や検査に振り回されてしまうからです。「やまい」は気からと言うように、「やまい」は自然現象であって、私達の頭の中や概念の内しか存在しないと見る事も可能です。従って、もし私達が、がんを自然現象として受け入れる事が出来るなら、がんによる死は、普通、自然で平和である事から、がんに於いてこそ、「やまい」という観念を死ぬまで解放されることが出来るはずです。」

終章のタイトルを見ても、もはやこの書は哲学の領域の話(本)なのだ。つまり、自らの人生を終えるにあたっての人生観や諦観の議論・・・。それは今までの生き方が問われる瞬間・・・。

本来、人間は弱い存在なのだと思う。何度も書くが、がんと宣告されたとき、本当に治療をしないでいられるか、また、どの位の時間で(どの位の“茫然自失”の時間の後で・・・)、哲学的な冷静な心で、自分または家族のがんを受け止めることが出来るか? 何とも自分は自信が無い・・・。

義姉が3年前に末期の胃がんで亡くなったが(ここ)、見付けるまでは普通の生活をしていた。発見後半年の命だったが、このホンモノのがんが、もし早期に見つかっていたら、手術だ何だと、かえって体は弱り、苦しい最期を過ごしたのではないか・・・と、今でも思っている。
ホンモノのがんであればあるほど、見付けないに限る・・・。見つかれば上に書いたように、たぶん放っては置けない。症状があまり無くて発見が遅れれば、患者としての時間を少なくする事が出来る。
どうしても、がんは見付けないに限る・・・と思えてしまうのだが・・・

(関連記事)
「医者に殺されない47の心得」近藤誠著 
「どうせ死ぬなら『がん』がいい」中村仁一×近藤誠著 

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2014年3月 4日 (火)

鼻血の原因は「乾燥」だった・・・

これは自分の備忘録。
鼻をかんだときに血が混じることに気付いたのは2~3ヶ月前だったか・・・
それも鼻をかんだときか、クシャミをしたときに、右の鼻からだけ・・・。でもこれが意外とわずらわしい。昼食時に、鼻をかむと赤く染まるし、何よりもおしぼりを使ったときに、赤く付くので困る。
しかし、1月末の健診の血液のデータも普通だし、たいした病気ではないだろう、と放って置いたのだが、やっぱりわずらわしいので、Netで読んだ「出血しているところを焼く」ことを覚悟して、先日近くの耳鼻科に行ってみた。
すると目から鱗・・・。原因は“乾燥”だという・・・・。
医師曰く、「乾燥ですね。特に病気は無いので、薬を出すので脱脂綿に付けて1日2回、30分くらい鼻に詰めておいてください。一週間位続けて下さい。ティッシュは良くない。乾燥が原因なので、本当はマスクをすると良いです」

薬を貰おうと、隣の薬局に行ったら、「どうしました?」と聞くので「鼻をかんだときに血が混じるので・・・」と言うと、その薬剤師も「乾燥ですね」と、いとも簡単に言う。そして出てきた薬が「白色ワセリン」。一緒にコットン球(カット綿)を買って家に帰ると、カミさんが「そんなの持っているよ」とチューブの白色ワセリンを見せる・・・。確かに医者も「女性が手に塗るのと同じ」と言ってはいたが・・・。

でもそれで鼻血が止まったのである。1~2日は、鼻をかむと、かすかに血が混じっていたが、数日で確実に鼻水に血が混じらなくなった。
乾燥で鼻血が出るとは・・・。初体験だった。
それにしても、こんな些細なことでも、医者から「病気はありません」と言われると真に安心するもの・・・。そして、直ぐに出血を止めるとは、やはり医者はプロだった・・・。
でも、今まで体験したことのない現象だった。つまり我が老体も、あちこちにガタが出だした・・・ということなのであろう。トホホ・・・

140304sotugyou <付録>「ボケて(bokete)」より

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2014年3月 3日 (月)

昭和49年の出来事(27歳)~りりィ「私は泣いています」

自分が生まれてから順に、その年の出来事を辿るシリーズの28回目。
実はこのシリーズ(?)は2年半ぶりなのである。年齢と共に1年が短く感じられるが(ここ)、自分も27歳ともなると年毎の出来事があまり記憶に残っていない。書ける事件もそう無く、つい時間が空いてしまった。
かすかに、当時の事件を聞いて、そんな事もあったっけ・・・と思い出すくらい・・・
でも気を取り直して(?)再開してみようか・・・

自分が26歳から27歳、つまりサラリーマン6年目になった昭和49年(1974年)の出来事を、いつものようにNetで調べてみる。

この年は、3月10日に元日本兵・小野田寛郎(当時52)さんがフィリピンのルパング島で30S49 年ぶりに救出された。その小野田さんも、この1月(2014年)に91歳で亡くなった。
政治的には、田中内閣から三木内閣(12月9日)の時代。事件としては、1月31日に外務省機密漏洩事件(1972年)で、東京地裁の判決があった。アメリカではニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任し、8月9日フォード副大統領が大統領に就任した。
そして5月12日には、コンビニ1号店の「セブンイレブン豊洲店」が開店した。
そして北海道の「愛国-幸福」間の切符が流行った。自分も確か手に入れたもの・・・
文房具では、蛍光ラインマーカーが売り出されたという(トンボ鉛筆70円)。
新宿西口には超高層ビルの新宿住友ビル・KDDビル・三井ビルが完成。
そして長島茂雄が「巨人軍は永久に不滅です」と言って引退。一方、松井秀喜はこの年に誕生している。
もう話題にならなくなった佐藤栄作のノーベル賞の平和賞の受賞もこの年。そして、堀江謙一が5月4日にヨットによる単身無帰港世界一周に成功。
ベストセラーでは山崎豊子の「華麗なる一族」。これは自分も読んだ。映画やTVドラマも出来た。
NHKの大河ドラマは「勝海舟」。勝海舟役の松方弘樹のべらんめえ口調がキライで自分は見なかった。
映画では松本清張の「砂の器」(ここ)がヒット。これは音楽も良く、画面も美しく、今に残る名画だった。洋画では「タワーリング・インフェルノ」や「エマニエル夫人」が話題になった。上野の東京国立博物館でモナ・リザ展が開催され(4月20日~6月10日)入場者は151万人。
歌の世界では、「うそ(中条きよし)」「赤ちょうちん(南こうせつとかぐや姫)」「襟裳岬(森進一)」「二人でお酒を(梓みちよ)」「私は泣いています(りりィ)」「精霊流し(グレープ)」
「ひと夏の経験(山口百恵)」「結婚するって本当ですか(ダ・カーポ)」「昭和枯れすすき(さくらと一郎)」「黒の舟歌(加藤登紀子)」「傷だらけのローラ(西城英樹)」「よろしく哀愁(郷ひろみ)」等々。

そんな中で、当時自分がカラオケでよく歌ったりりィの「私は泣いています」を聞いてみよう。

<りりィの「私は泣いています」>


「私は泣いています」
    作詞・作曲:りりィ
私は泣いていますベッドの上で
私は泣いていますベッドの上で
あなたに会えて幸せだった
昼も夜も帰らない
あなたがいたからどんなことでも
なりふりかまわずあるいてきたの

私は泣いていますベッドの上で
私は泣いていますベッドの上で
あなたにとって愛のくらしは
とてもいやなことばかり
あなたに言われて気づいたことも
そんなところはなおしてみます

私は泣いていますベッドの上で
私は泣いていますベッドの上で
あなたは言うのもう終りだと
まさかそれはうそでしょう
あなたの言葉が私のまわりで
嵐のようにうずまいているの

私は泣いていますベッドの上で
私は泣いていますベッドの上で
あなたの幸せ願っているわ
私だけはいつまでも
あなたの幸せ願っているわ
私だけはいつまでも

(音源は、こちらがオリジナルかも・・・?)

「りりィ」はひらがなで「りり」カタカナで「ィ」の組み合わせが正式らしい。シンガーソングライターだったが、女優として活躍している。

この頃の自分は、会社の独身寮に住んで、正月は寮の同期生たちとスキー三昧。遊びといえば、当時ボウリングも流行っていたのでは・・・?
仕事では、結構全国に出張していたっけ。特に山口や北九州には良く行った。山陽新幹線は、1972年(昭和47年)に新大阪駅-岡山駅間が開業、1975年(昭和50年)に岡山駅-博多駅間が開業した、というので、この頃は、新幹線で岡山まで行って、そこから在来線の特急に乗り換え、または新幹線で名古屋まで行って、そこから寝台特急で九州や山口・徳山に行ったのを良く覚えている。今は飛行機の移動が当たり前だが、当時は仕事が終わってから出発して、寝台列車で朝に着いて、それからまた仕事・・・が普通だった。
この当時は結構仕事を楽しんでいたっけ・・・。

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2014年3月 2日 (日)

ある保守男の予言による今後の日本

毎月一回、政治談義をするNという男がいる。この69歳になる男は、学生時代はベトナム戦争がらみの学生運動のデモに行ったりしていた“左翼”だった。しかしトシを取った現在は右翼!? 本人曰く“右翼ではなく、保守だ”。
そんなNが今後の日本についてこんな予言をしていた。なるほど・・・という話もあったので、メモしておく。

・これは自分の“予言”だが、たぶん全部当たると思う。
・北方領土は永遠に帰ってこない。竹島も永遠に帰ってこない。尖閣列島を巡っての軍事衝突は起こらない。そこまでのリスクは、中国は買わない。拉致問題は永遠に解決しない。日本と北朝鮮は戦争をすることはない。日本と中国も戦争をすることはない。日中、日韓の首脳会談は行われない。行う意味が全く無い。中国とは、尖閣列島を棚上げと言わない限り、会っても意味がない。韓国の徴用工問題では、今後判決が続々と出る。何兆円のレベルの話であり、各社は韓国に居た方がよいかどうかを天秤にかける。それを朝日や毎日は問題にしていない。中国では5万人いるが、日中関係のために提訴があっても受理しなかったが、日本に圧力を掛けるために受理するかも知れない。つまり関係が悪くなるネタは幾らでもあるが、良くなるネタはない。
・安保条約は日本にとって永遠に必要。日本が今まで平和で来たのは、平和憲法のお陰でも何でもなくて、安保条約のお陰。沖縄の普天間基地は、辺野古に移る。原発は今の状態ですっと行く。再稼働は当然する。民主党政権でもする。
・秘密保護法案は、もし共産党政権になったらもっと厳しくなる。民主党政権になっても変わらない。集団的自衛権の解釈は変わる。でも広く一般論として認めるわけではないので心配ない。限定的な状態が非常に厳しいので、現実にそのような状態は想像つかない。ただPKOで外国に行っているときは有り得るが、国会の承認が必要であり、そう心配はいらない。外国に行って戦争する、などということは朝日が煽っているデマに過ぎない。ただ限定的に解釈を変えることは有り得る。
・今後の総選挙でも自民党はずっと勝つ。安倍首相が健康上などの理由で辞めたいと言う時まで続く。今の状態では後継は石破幹事長しかいない。あと20年以上自民党政権は続く。
・トルコやエジプトなどのように、外国では選挙で選ばれた政権が倒れたり軍事衝突が起こったりで大変。日本は選挙で政権が変わる余地があるだけ立派。
・憲法は永久に改正出来ない。100年経っても不可能。
・日本の総理大臣は権力が全然無い。外国を見ると独裁国家は幾らでもある。日本は、マスコミは全部反安倍だからやりたいことが全然出来ていない。やりたくて出来たのは靖国参拝くらい。安倍さんにはそんなに力はない。それは日本の仕組みがそうなっているから。
・健康に問題なければ5~6年はやるのでは? 立候補すると聞いたときは、出来るわけがないと思ったが、分刻みのスケジュールをこなし、外遊も繰り返し、強靱なエネルギー。
・靖国参拝は、もう辞める、というときに8月15日に参拝に行くだろう。それまでは、いちおう保守主義者への形は付けたので行かないだろう。1回行けば、もう良い。
・管官房長官は、思慮深くて、一番の切れ者。知恵者。全てを仕切っている。記者会見でも言っていることはまともだし、ミス(失言)を全くしていない。政府として言うべき事は言っているし、言うべきでないことは言わない。
・次の内閣改造では、石原環境大臣は降ろすのでは?
・公明党は権力に寄り添いたい。たった一人大臣を入れてもらうために・・・。でも山口さんは頭がよい。歴代の公明党の委員長の中では一番優秀。

これらの議論をどう見るか・・・。
言い争うつもりは特に無く、黙って聞いていたが、まあそうだろうな・・・という話も多かった。
つまり、否定したいし、そうあって欲しくない・・・とは思うのだが、世論がその様な方向に向かうか?と考えると、少し疑問。
色々な意見や見方があるな・・・、と思った雑談ではあった。

140302jyama <付録>「ボケて(bokete)」より

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