ある遺書~「お別れのことば」
雑誌「大法輪」(2014年2月号)「いのち輝かす仏教」という記事にこんな一文があった。
「農業一筋に生き、近所の人たちから“いざという時の相談人”と頼りにされていたSさん(男性・86歳)が、世寿をまっとうして亡くなったのですが、こんな遺言、「お別れのことば」を残しておいでになりました。
遺言・別れのことば――反省をこめて――
●いろいろ知っていると思っていましたが、何も知らない私でした。
●あれやこれややってみましたが、あまり他人さまのためにお役に立てない私でした。
●表向きは善人らしくしていながら、実は悪人と言われても仕方のない私でした。
●いただくばかりで、何もさしあげようとしない私でした。
●多くの方々のお力によって生かしていただいているのに、自分の力で生きていると考えちがいをしている私でした。
●死ぬ時には何ひとつ持って行けないとわかっていながら、これは私の物、これも私の物と、手渡すことのできない私でした。
●感謝することもなく、懺悔することもなく、自分さえよければいいとの思いで生きてきた私でした。
こんな私を仏さまは、お導き下さるでしょうか?
こんな私に仏さまは、お戒名を授けてお弟子にして下さるでしょうか?
私を父とよび、祖父とよんで大切にして下さった家族のみなさんに、心から感謝します。
みなさん、ありがとう。
財産と言えるほどのものは残せませんでしたが、役に立つものがあったら、みんなで仲よく分けあって下さい。財産相続の争いほどみにくいものはありませんから……。
どうか天地いっぱいの力をいただいて、生かされて生きるよろこびの中に、与えられた今日のつとめを果たしていくような人になって下さい。
お願いしますよ。さようなら。ありかたい人生でした。
凡愚老人・八十六歳
この遺言を読んだ遺族のみなさんの心の中に、悲しみをこえて、暖かなものがいつまでも残り、こんな遺言が書ける人間になりたいという思いが、ふつふつとわいてきたとのこと……。
「死に方」は「生き方」によって決まります。この遺言はSさんの生き方を表しているように思えてなりません。」(「大法輪」(2014年2月号)p31より)
遺言については、当サイトでも何度か取り上げた。しかし遺言と聞くと、直ぐに頭に浮かぶのは財産分与のこと。しかしこの遺言は、それらを超越していて、なかなかに爽やか・・・。
この記事は、仏教の雑誌なので仏教の視点で書かれているが、一般の人は、「仏さま」のことをそれほど認識しない。つまり、何となく漠然と捉えている・・・
でも残される人への想いは、宗教の有無とは関係無く、純なもの・・・
残された人に、これだけ純に感謝できる人生を送った人。そんな人はこのように静かに逝けるのだと思う。一方、世の幽霊話は、全てが“怨み”。
果たして自分はその時に、何も怨みがない状態で逝けるのかどうか・・・。今から心掛けなければ間に合わないな・・・と思いながら読んだ記事ではあった。
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