「神頼みしたいことがありますか?」
先日の朝日新聞にこんな記事があった。
「神頼みしたいことがありますか?
約1億2700万人がひしめくわが国に神がみも八百万(やおよろず)いらっしゃるのなら、お一人あたり16人の迷える民の願いをかなえてくださればよいのです。初詣のお賽(さい)銭は超リーズナブルですが、もうちょっとだけお仕事に身を入れていただいて、今年こそどーかひとつ、お情けを!
■己を客観視して願え
記憶にあるかぎり人生5回目になる元日の「大吉」のおみくじを、去年の初詣でひいた東京都の男性(76)は、長年のしきたりにしたがって、その紙片を心をこめて折りたたみ、財布にしまいこんだ。
初詣のおみくじは大みそかまで財布に入れておく。「転居 さしつかえなし」「争いごと 目上の人の助けを得る」などと書かれた文面を事あるごとに読み返し、「処世の指針」にしているのだ。
東京でも指おりの古社と伝わる近所の神社を「心のよすが」と信奉し、勤め人だったころから約40年来、週に1度、欠かさず参拝している。30代のころ、脳梗塞(こうそく)で倒れた母親の命乞いをして、危篤だった容体から3年も生き延びた御利益を体験してから、ゆるぎない信仰が心に根づいたのだという。「やたらに神頼みはしませんが、小さな願いごとはだいたいかなう。守られている実感があるんです」
「転職を決意したとき神頼みをしたら、4分の3だけ願いごとがかなった」と茨城県の男性(65)は苦笑する。
東京の多摩地区に暮らし、大手マスコミで働いていた20代後半のころ、あこがれていた高校の英語教師への転身を思い立った。勤めをやめ、再就職先の学校を探し歩いた約半年の間、もよりの駅前にあった名もない神社を毎朝、拝み、「どうか、私を多摩地区の学校の教員にしてください」と一心不乱に祈った。
「あきらめかけたころ、都内の私立高校から採用通知の電話がかかったんです。そこは多摩地区(たまちく)ではなく、港区の田町(たまち)にある学校でした。なんという神のお引き合わせかと、泣き笑いしてしまいました」
神がみの足もとににじり寄り、黙したまま、ひそやかに告げられる人びとの願いは千差万別だ。今年の初詣では、こんな頼みごとが神域で念じられているようだ。
「亡くなった両親や、やさしかった親類を思い浮かべながら家内安全をお願いする」(神奈川、60歳女性)、「施設にいる母の認知症が悪化しないように」(東京、53歳女性)、「趣味の意見投稿が頻繁に新聞に載る」(神奈川、62歳男性)、「世界が平和になり、飢餓がなくなる」(埼玉、65歳男性)などである。
「悪妻の典型のような連れあいが、せめて人並みになるように。毎年、下がり続けている給料が少しでも上がるように。不本意な転勤を命じられないように」(大阪、47歳男性)と欲ばった参拝客もいないわけではない。でも、ほとんど強欲や背徳などとはほど遠い、謙虚で奥ゆかしくさえあるお願いばかりだ。
だが、神頼み否定論者も、少数派とはあなどれない。
ある親子は「息子が大学受験の日、神社で合格祈願をして帰宅すると、なんと試験時間中のはずの息子がいるではないか。驚いて訳を聞くと、受験票をなくしてしまったという。私はこのとき、『この世に神はいない!』と確信した」(福岡、64歳男性)と、不幸のどん底にたたき落とされているのだ。こんな悲劇をあげつらい、「神頼みは一種の『思考停止』だ」(福岡、67歳男性)、「神とは本来、罰を与える存在。人間の願いを都合よく聞き届けてくれるはずがない」(青森、62歳女性)などと、浮ついた「にわか信心」を非難するのである。
「神前は、謙虚な心をとりもどす領域。合掌すると、己を客観的に見つめられるようになる。人事を尽くして天命を待つという心構えになれなければ、神頼みをする資格はない」(大阪、44歳女性)。
そんな面倒くさいこと、怠惰で欲深い私のような凡人にはとても無理。宝くじで億万長者になるのと同じぐらいの確率で、霊験あらたかな御利益を当てにしております。(保科龍朗)」(2014/01/04付「朝日新聞」b10より)
毎年、初詣に行っている近くの高幡不動。ここが混んでいる。今年も3日に行ったのだが、案の定、既に駅前から参拝の列。この現象は、調べてみると2011年の正月から始まったようだ(ここ)。
それまでは、元旦に行っても、駅までの列など無かったし、お参りも充分に出来た。しかし2011年以来、並ぶのがイヤなので、まともにお参りできていない。遠くからチョコッと頭を下げるだけ・・・。世の中、頼み事が多くなっているらしい。
ところで、お不動さんにお願い事をすることはOK? そもそも仏さまにお願い事・・・って有り??
「神頼み」という言葉があるように、神さまにお願い事をするのはある。しかし仏さまにはどうなんでしょう・・・?
でも高幡不動からは、毎年「願いごと」を書いたお札を貰っているし、そもそも仏さまの“観音さま”は、衆生を救ってくれる存在・・・。
そう言えば、亡くなった人も仏さまと言う。でも亡くなった人に願い事を期待しても、たぶんダメだろうな・・・。17年前に亡くなった親父に、色々頼んでみたが、全部ダメだった・・・。だから先日亡くなったお袋に頼んでもダメだな・・・。でも、よく祖父母が、孫の病気を持って行ってくれる・・・という話しは聞く。オトナは良いとしても、せめて子どもたちは守ってあげて欲しいものだが・・・。
大いなるものへの畏怖。朝、通勤電車を待つホームから見る空と遠い山々は、いつも“大いなるもの”を感じさせる。神さまも仏さまも、すべては大いなるもの・・・。
そろそろ我々世代は、勝手なお願い事を繰り返す時期は過ぎ、大いなるものとの対話が必要な頃なのかも知れない。
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