母が元旦(2014/01/01)の午前10時49分に、老衰で亡くなった。大正10年5月13日生まれ、享年92歳。
故人を思い出すことは、供養になるという。自分の記憶の中で、たぶんこれから徐々に薄れていくだろう母の死までの経緯。それをメモしておくことも、ひとつの供養の姿かな・・・と思ってメモしておく。
茨城県竜ヶ崎市の実家で一人で住んでいた母は、2年少し前の2011年10月3日、自宅の玄関で転んで大腿骨転子部(足の付け根)を骨折した。それが全ての始まり。たまたま玄関だったため、大声で助けを呼び、近くの人が気が付いてくれて病院に入院した。それから1ヶ月余、入院中にいわゆる痴呆の症状が出始め、夜おとなしく寝ないため、付き添い婦さんを頼んで話し相手になって貰ったり、大変だった。
このまま実家に一人で帰すわけにも行かず、結局、2011年11月25日介護付き有料老人ホームに入れた。(ここ)
しかし老人ホームでの生活は、話し相手もなく、テレビを眺めながら、食べて寝るだけの生活。結局、痴呆が徐々に進んだ。女性は同じような年代の女性たちと雑談をするとばかり思っていたが、アテは外れた。たまにトランプをすることはあったようだが・・・
ホームに入って2年弱経った2013年8月頃から、手が震えだした。両手が胸の辺りから大きくビクつき、震える。しばらくすると治まるが、本人は不安がる・・・。そして食事が手の震えでうまく食べられない状態になった。
9月中旬になると震えがひどくなり、10月27日に総合病院を受診したが原因が分からず、神経内科がある病院を紹介され、ある高齢者の病院を受診した。そこでの脳のMRI検査では、「軽いアルツハイマーの症状が見られないことはないが、92歳の年齢からするとそう悪くはない」とのことだった。しかし物忘れ検査は悪かった。そして、やはり震え・ビクつきの原因は不明だった。
しかし家族としては、本人が言っていたように「老人ホームは、朝から一日何も、やることが無い」ことのストレスから来る精神的な病気だったのでは?と思った。
そして、とうとう食事が採れなくなった。下記はその日から起算しての経緯である。この記録は、直ぐ近くに住む弟が毎日病院を訪れ、毎日の状態をメールで送ってくれたので、それを元にしている。(「 」で表示)
<2013年10月06日(87日前)>食事が採れなくなる。以降、通院等による点滴。
<2013年10月11日(82日前)>食事が採れないので点滴が必要なため、ホームでは処置に限界があるので、地元柏市の大学病院の近くにある、いわゆる高齢者ための病院に入院。点滴開始。
<2013年10月13日(80日前)>看護師さんがトイレに付き添って行って、大便時に下血。一時、呼吸停止。意識消失。
医師の話では「黒色便から、上部消化管からの出血。原因は胃潰瘍、胃がん等が考えられる。貧血がひどい場合には、輸血する。今後、上部消化管出血により急変する可能性もある。」とのこと。
家族は、入院のストレスから来た出血では?との予想もした。
<2013年10月21日(72日前)>医師の話「血液検査の炎症数値が高く、またヘモグロビンの数値も良くない。しかし、抗生剤が効き、熱も下がりました。」
<2013年10月23日(70日前)>医師と面談。延命治療について、「家族の方針として、胃ろう、中心静脈栄養はしない。ただし寿命が短くなっても良いので、苦痛だけは取って欲しい」と伝える。モグロビンが6を切ったら輸血。余命3ヶ月?(その後、モグロビンの値は戻り、輸血はしなかった。下血は一度だけであり、消化管の出血は止まっているらしい。しかし白血球が多い)
<2013年11月09日(53日前)>11月2日に生まれた曾孫の写真を見せる。「女の子は(我が家では)初めてだね」との反応。
<2013年11月12日(50日前)>「看護婦さん2人がかりで、手と足の点滴の出来る血管を、捜しますが、なかなか見つかりません。30~40分かかって、やっと点滴の針が入りました。
お袋も、怖がり痛がり、悲鳴をあげます。本当、可哀想!
お袋の血管は細く、そしてもろく、1回使った血管は駄目になるので、どんどん点滴の出来る血管が、無くなっていきます。「毎日点滴の入る血管を捜すのが、大変なんです」と看護婦さんが、こぼしていました。」
<2013年11月13日(49日前)>医師からの話。「血管確保が大変厳しい状態です。血管確保・点滴が出来ない場合は、中心静脈点滴の処置をしてよろしいですか? それとも点滴を止めますか? 中心静脈点滴の処置をすると、高カロリーの点滴が可能になるので、一時的に元気にはなりますが、延命の範囲は出ず、やがて緩やかに弱っていく。点滴を止めた場合は、余命2週間ぐらい」
⇒点滴中止は、まだ忍びないので、水分だけしか出来ないが、皮下点滴の処置に変えることにする。
<2013年11月14日(48日前)>水分だけの皮下点滴に変更。「看護婦さんの話では、昨夜、手の点滴を自分で取ってしまったため、その後の点滴が入れられず、皮下点滴に切り替えました。お腹への皮下点滴の処置をしたのですが、お袋が嫌がり、管を抜いてしまいます。今迄、着せているパジャマでは、点滴の管を抜いてしまう為、病院にある、手が入らず、管を抜くことが出来ない、つなぎのパジャマを、着せられていました。
皮下点滴になり、途端に弱りました。反応が、大変弱く小さくなり、ろれつが回りません。」
<2013年11月18日(44日前)>(見舞いに行って、自分が出来た最後の会話になった)
話はできるがロレツが回らない。しかし曾孫の赤ん坊の写真を自分で手に取って見た。「女の子だってね。初めてだね」と言った。そしてしばらくウトウトした後に、「何もする事がないので帰れ」。またウトウトした後、「気になるから早く帰れ」と言われる。
今思い出すと、これがまともな最後の会話・・・。
<2013年11月27日(35日前)>医師の話。「心配していた身体の炎症値が、上がってきました。水分不足から、タンが多く硬くなっているので、口に当てる加湿器でタンを柔らかくして、出しやすくしています。尿も1000cc~600ccと、何とか出ています。緩やかに悪化しています。意識レベルは、少しずつ落ちて来ている様にも見えます。」
<2013年11月29日(33日前)>「この所は、呼吸が苦しそうです。起きている時は、息が苦しい、息が苦しいと、訴えます。口を開けて、大きな音の呼吸をしています。水分が足らない事もあり、タンが喉の奥で硬くなっているのが原因のようです。なんとかしてあげたく、タンの吸引を頼むと、タンの吸引は、大変苦しいので、大騒ぎになります。尿は、量が出てないせいか、濃い色になりました。足先、手にムクミが出ています。」
<2013年12月01日(31日前)>心電図の常時装着。目を覚ましたので、声をかけたが、まるで聞こえていないように、反応無し。目は少しキョロキョロするが、まるで分かっていない。看護婦さんが口の清浄にきたので、帰りに少し話をした。「意識レベルが下がっているが波があり、今朝は話が出来た。痰は鼻から管を入れて取っているが、痰を取らないと窒息する可能性があるため取っている。心電図を常時取っており、何かあればナースセンターですぐに分かるようになっている。歳なので、いつ何があってもおかしくないが、もし苦しむことがあれば、麻薬という手もある。これは貼り薬」「前からお願いしているが、麻薬でも何でも使って、苦しみだけは取って上げて欲しい」「伝えておきます」
<2013年12月04日(28日前)>夕方危篤の連絡あり。
夕方、血圧が下がり測定不能状態になったとのこと。午後8時半に病院に着いたときは何とか持ち直しており、血圧は徐々に130-80まで戻る。酸素吸入器の中で、何かをしゃべる。よく聞くと「死んじゃうよ」と言っている。「大丈夫、大丈夫」と耳元で言うと、少し静かになった。重たい言葉・・・
<2013年12月07日(25日前)>看護師さんが痰を取りに来たので聞いてみたら、「尿が昨日60cc今日20ccで、この血圧を保っているのはすごい。点滴は1日1リットル」
昏睡状態でも、苦しがっていないのは何よりである。
<2013年12月11日(22日前)>状態安定。むくみにより、水分の点滴を1日1リットルから500CCに減らす。
「脈拍 85前後、血圧 104-65、尿も昨日は最終 400cc今日も200cc。今日はムクミがかなり出ていたので、点滴の量を500ccに減らしています。そのせいか、手のムクミは少し改善しています。手足・全身 カサカサ状態です。気になる点は、呼吸がよく止まり、1分間に、2~3回 5秒から長いと10秒近く、呼吸が止まります。」
<2013年12月18日(14日前)>
看護婦さんが来たので聞いてみると、「血圧が132-93と高いようだけど?」「それは服の上から測っているせい。さっき聴診器で血圧を測ったら112だった」
血液の酸素量:100~98% ⇒「95以上なら苦しくない。」「尿の量は?」「昨日は340CC。今日は12時に交換したが、100CCだった。今日は200CC位かも」「安定しているのでしばらく大丈夫?」「危険な状態は続いている。意識レベルは下がっている」
看護師さんが「家族さんが来てくれてますよ。分かる?」と耳元で大きな声で言うと、うなずいた。 どこまで分かっているかは分からないが、聞こえてはいるよう・・・
<2013年12月28日(4日前)>状態安定
「今日も、目を覚ましました。2~3分でしたが、しっかり目を開け、私の確認も出来たみたいです。尿の量が、1日500ccの点滴に対し150ccに落ちて来ているので、足のムクミになって表れていると思えます。それ以外は、いたって安定しています。
見回りに来た看護婦さんも、血圧が下がった上旬の4日の日から、良く回復されました。凄いですね。と言っていました。」
<2013年12月30日(2日前)>
「タンの吸引の為、口に蒸気をかけていますが、喉にタンが絡むのか、さかんに咳をします。チョット辛いですが、タンの吸引をしてもらい、呼吸が静かになりました。
看護婦さんからは「こちらの言っている事も、わかるようだし、まだまだお元気ですよ」と言われました。」
<2013年12月31日(1日前)>明け方、危篤
「今、病院に来ています。3:45に電話が入り、4:10に病院に着きました。看護婦さんの話では、昨夜から脈に乱れがあり、180位になったりと、安定しなくなってきたようです。そして、今日に変わる頃から、血圧が下がり始め、60台に下がったのでご連絡しました。との事。今は90~100ぐらいで打っています。酸素は、自立呼吸で、100近く取れています。目を開けて、顔を少し動かすしぐさをしています。」
「午前8時現在、脈は65~100ぐらいを、行ったり来たりして、安定していません。血圧は、74-52で低めです。酸素は、97~99と取れていますので、苦しくは無いと思います。目の瞳孔反射は、あります。気になる事は、4時に来たときから、目は開けたままで、寝てくれません。焦点の合わない目で、顔を左右に動かし、周りを見ている様に、見えます。声かけも、聞こえているのか、反応が弱く、わかりません」
「午前10時半、酸素濃度が80%まで下がったので、看護婦さんを呼びました。血圧は 66-42でしたが、変動しています。酸素濃度 が70~80台に、下がって来ました。指先までの血行が、悪くなり酸素濃度が測りにくくなってきている様です。足は冷たく、血行不良から、足の爪は、紫色に変色しています。瞳孔の大きさで、看護婦さんの話では、まだ大丈夫のようです。」
<2014年1月1日(87日目)>死去
「午前9時半現在、脈は70~150位を行ったり来たりで、安定していません。モニター波形をみても、どれが脈だか、波形が細か過ぎて、良くわかりません。血圧は、さっき取れた値は、上が42でした。9:30の計測は、取れませんでした。血中酸素濃度は、70~80%台です。下顎呼吸をしています。尿は、昨日から全く出ていません。」
午前10時10分、自分たちが病院着。
看護師さんが瞳孔の開きを、スケールで測っていた。脈は乱れ、波形も小さい。呼吸の波形は出ている。アゴを動かして呼吸をしている。10時48分、アゴの動きが止まる。近寄ってみると、たまにアゴが動いて呼吸をする。しかし10時49分、それも止まった。看護師さんが来て、医師を呼ぶ。10時55分、医師が死亡を確認。
開いている口を閉じさせようとしたが、アゴが外れているような状態でダメ。看護師さんがアゴバンドをしてくれた。
葬儀屋に連絡。11時半から看護師二人により、体の処置。パジャマから浴衣に着替える。
12時に葬儀屋が迎えに着て、遺体を弟宅に運ぶ。その後、葬儀屋と通夜、葬儀の打合せ。
<<葬儀>>
葬儀は「価格コム」(ここ)で調べ、「イオンのお葬式 家族葬(密葬)プラン」(ここ)にした。
込み込みの定価498,000円。花を追加したり、化粧や料理を頼んだりで、結局68万円ほどだった。
打合せには、地元のK斎苑が来た。まずビックリしたのは、宣言から始まる。イオンで決まっているルールとのことで、担当者がメモ片手に「心を込めてお世話することを誓います」・・・(ここ)
つまり、イオンのコンセプトに従って、地元業者が実際のサービスを提供する仕組み。請求書も、いったんイオンの許可を貰ってからでないと請求出来ない仕組みという。つまりはイオンの監督のもとで地元業者が行う葬儀なのだ。
今回の葬儀は、家族で相談の結果、息子と孫だけによる家族葬とする。よって親戚には事前には連絡しない。事前に連絡すると、何かしなくては・・・との負荷を掛けるかも知れないので・・・。よって香典、弔電の類も一切なし。
まずは火葬場の予約。三が日は火葬場も休みのため、一番早くて4日の15時半だというので、それに従い菩提寺の都合を聞く。結果、4日18時の通夜、5日13時半の告別式、に決定。
遺体を安置した弟のマンションは、棺が入らないため、納棺式は通夜の前に行うことになる。
通夜の日、会場に行ってみて、広く立派なのにビックリ。お花の祭壇も立派。そしてスタッフの数が多い。出席者が少数なのに、たくさんの人が対応してくれるので、かえって恐縮して
しまう。遺影の場所には大きな液晶テレビ。そこに鮮明なかつての母の笑顔がある。今までの黒縁の小さな写真に比べて圧倒的な存在感。そして無いはずの供花がある。見ると亡くなったときの病院の理事長名。前日に、喪主である弟に「お花をおくりたいので葬儀社を教えて欲しい」と、病院から電話があったとのこと。今考えると、結果的に良い病院で亡くなった。つまり病院が、いわゆる老人病院らしく、入院患者もほとんどが老人で、医師も看護師も老人に慣れていた。その点で、結果的に良い病院で看取って貰った。
会場の入り口には、額の写真とともに、やはりテレビでスナップ写真のスライドが映っていた。
4日14時半過ぎから、納棺の儀式。その中で、足に足袋を履かせるのだが、臨終まで水でパンパンに腫れていた足が、見るとガリガリに痩せている・・・。死後3日を経て水分が抜けたらしい。やはり最後は肉体を削って生きていたのであり、体は皮下点滴の水分で膨れていたのだ。
これを見て、少し後悔した。最後は医師に頼んで、水分の点滴を減らして貰うべきだった。体が水分を吸収しないので足が点滴でパンパンに腫れる。それでも、決められた水分の点滴を最後までしていた。これはかえって母を苦しめたのではないか・・・と、後になって思った。
そして出席者は少数だが、菩提寺の住職による型どおりの通夜。
予定以外の人は誰も来ない通夜のはずが、弟の仕事関係の人が数人来てくれる。念のために香典返しを用意してあったので、助かったという。
翌5日13時半から告別式。型通りだが、出席者は家族のみ。そして隣町の火葬場へ。火葬の費用は、自分の市だと1万5千円だが、他市に頼むと5万円だという。混んでいたので仕方がない・・・。
1時間後に骨あげ。あまりにもお骨が少ないのでビックリ。2年前に骨折した際、医師から「手術のときに金属が骨にスポッと入ってしまうんですよ」と言っていたのを思い出した。そうとうな骨粗鬆症だったのかも・・・。
でも骨壺には、氏名と没年月日が横に明瞭に書いてあり、ある意味感激した。今までは、蓋にマジックで氏名を書いた記憶が・・・
2年ほど前に、地元の葬儀社で、義姉のごく一般的な葬儀を行ったが、その時の200万円に比べ、規模が小さいとは言え、イオンの葬儀は確かに満足度は高い。
ここ3ヶ月を振り返り、母の老衰死で、人間の徐々に死を迎える姿を初めて見た。(ただし死亡診断書には、死因が「上部消化管出血」とあったが、そもそも“食べられない”ことによる死なので、家族は老衰だと思っている)
人間が、(老人ホームに入ったため)日常“すること”が無くなり、精神的に弱っていって、食べられなくなり、最後に自分の肉体をエネルギーにして、水だけで必死に1月半生き、そして力尽きて死んで行く・・・
その一部始終を見た。本人は死ぬとは思っていなかった。しかし精神は生きたくても、肉体は限界だった・・・。しかし、一番恐れていた苦しみはあまり感じないで逝ってくれて良かった。
そして通夜・葬儀も、イオンの葬儀で何の不満もなく行えた。葬儀屋さんには、ただ感謝・・・
息子の一人が、亡くなった当日は旅行中だったので、あえて祖母の死を知らせなかった。そして旅行から帰る2日になってメールで知らせた所、「了解」とのあまりに簡単な返事・・・。
後で聞くと、1日の夜に夢で悲しそうな祖母の姿を見たという。それに武者震いが10分ほど止まらなかったとも・・・。霊感の強い息子は、それで何かあるな・・・と感じていたので、亡くなったと聞いて、やっぱり・・・と、合点が行ったとか・・・。やはり虫の知らせはあるようである。
今頃、17年前に亡くなった親父とも会っているだろう。そして、ここ数年で亡くなった、実姉にも、早くして亡くなった長男の嫁(自分の義姉)にも、そして10年前に亡くなった義弟(叔父)にも・・・
そう考えると心が軽くなるが、危篤になったときに「死んじゃう」と言った言葉は、いつまでも自分の耳に残ると思う。
最後に、この経験で自分が得た教訓を三つ。
一つ目は「延命治療をしない」という判断について。
血管からの点滴が出来なくなったとき、医師から判断を求められる。そのときに、理屈通りに「何もしない」と決断すると、それは自分の親に「あと2週間の命」と、死を言い渡すことになりかねない。まだ意識があり、話も出来るのに・・・。それは出来ない。これは理屈と現実とは違った。
今回は、水分の皮下点滴、ということにしたが、確かに、あまり意味のない実質の延命治療だったかも知れないが、少なくても残された家族に“心の傷”は残さなかった点で、良かったと思う。よって自分の延命治療の方針は、自分が決めてあらかじめ家族に言っておくべし。家族にそれを判断させるのはコクである。
二つ目は、「死を看取る=臨終に立ち会う」ということの重要性。今まで、臨終に場に間に合わなければ仕方がない、と思っていたが、もし自分が臨終の場に間に合わなかったら、後でどんなにか余韻(心の納得)が残っただろう・・・と、今更ながら間に合って良かったと思った。臨終の場に間に合う方が、死を受け入れやすいようなので、出来る限り臨終に間に合うべし。
三つ目は、自分の死に際して家族に伝えたいことは、物理的に一つにまとめておくべし。母は十年以上前に、「自分が死んだら、遺影はこれを使って」と、息子3人に自分が気に入った写真をそれぞれ託した。しかし今回、3人でその写真を探したが、結局3人とも出て来なかった。よって自分が死んだときに伝えたい書類などは、物理的に一つのバックに入れて、その場所を家族に教えておくなどして、保管を家族に頼むのではなく、自分で保管してその場所を家族に知らせておいた方が確実。まさに、17年前に脳出血で突然亡くなった親父が「重要な書類はこのバックにある」と常々言っていたことと同じ方法である。
母の死で、色々な意味での人生の勉強をさせて貰った。
臨終の直前、母の耳元でヌケヌケと言ってしまったが、もう一度繰り返す。「ありがとね」。
合掌。
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(2015/02/09追)
<<老人ホームで何もせずに老衰で亡くなった義母の例>>
2015/02/05に義母が、同じく老衰で85歳で亡くなった。カミさんのメモによる、その経緯である。
・2005/12/19(9年前) 特養に入所。既に認知発症。
・2014/07/28(6月前) 吐血し、血圧が下がったので、緊急入院。検査の結果、進行性胃がん3型発覚。治療をせず、特養での看取りを頼む。
・2014/09/04(5月前) 認知の進み方は激しく、体重は3ヶ月で6キロ位痩せた。食事はミキサー食、トイレはオムツでするようになり、うつらうつらしているのも多くなった。人とのコミニュケーションが取り辛く、要介護の項目が増えた。一人で出来るのは、食べることぐらい。
・2014/09/22(4月半前) 「来たの、食べるとこなの。待っていて」と、娘にしっかり言う母に、看護師主任も驚いた様子。
・2014/10/22(3月半前) 曾孫を連れて行くと笑った。食事があまり取れていないとのこと。
・2014/10/24(3月半前) 歯を磨いてベットに寝せて色々話していたら、急に嘔吐。血圧は下がっていない。でも目の下の皮膚が白いので出血しているらしい。カーテンの上に、人が一人とか三人とか見えるらしく、サイドテーブルの上に、何も無いのに取ろうとする。「あなたを一人にするとかわいそうだけどそろそろらしい」とか言う。譫妄だろうか。
・2014/10/31(3月前) 息子を連れて行くが、孫の事も私の事も忘れたらしい。「自分の名前は?」と聞くと「吾作の娘」と言う。自分の名前は出なかった。「何も分からなくなった。もう、良いのよ」と言う。「今日も女の人が見えるの?」と聞いたら「男の人が一人いる」とのこと。譫妄か?
・2014/11/11(3月前) 医師と面談。看取り介護の確認書にサイン。
・2014/12/01(2月前) 吐くようになる。母の兄が先日亡くなったことを話しても分からず。しかし、「なかなか逝けない」と言う。
・2014/12/06(2月前) 「足が痛い」と言うため整形外科に行くが、レントゲン異常なし。特に治療せず。
・2014/12/30(1月6日前) おやつの時間。「**さん、はい、目を開けて、あ~ん」とやるが、なかなか目を開けず、口も固く閉ざしている。苦労したが、力業でなんとか150CCくらい麦茶を飲ませる。バナナは割と口を開けてくれて三分の二ほど食べる。
・2015/01/19(17日前) 一日中うつらうつらして、表情は苦しそう。飲みたくないのに麦茶を押し込まれ、口の中でもぐもぐしている。
・2015/01/21(15日前) 昨日吐いたらしい。状態は悪く、いつ何があってもおかしくはないらしい。長くいた中で、私に母が言ったのは「だめだった」という言葉。最初はわからなかったが、昨日吐いてそのまま逝けるかと思ったけど、「だめだった」と言うことではないかと思った。
・2015/01/24(12日前) 耳は聞こえるが意識はない。声をかけると、うなずいたりして反応はある。
・2015/01/26(10日前) 医師、看護士と打合せ。元々7月末の段階でBSC(ベストサポーティブケア)の状態で、水の飲み込みも難しく、嘔吐があるため食事はとれなくなります、とのこと。看護士さんから「普通なら輸血を毎日する状態。でも、このまま痛みなくすっと逝けると思う」と言われる。嘔吐物が戻って肺に入り、急死になる可能性が高いとのこと。時々目を開け、ニコッとする。突然目を開けて、「持って行ってあげるから」という。心配を持って行ってくれるということなのかと一瞬涙が出る。
・2015/02/02(3日前) 今回は一番状態が悪く、大声で呼んでも反応はなし。目を少し開けたが、意志のない遠い目。
・2015/02/04(1日前) 昨日髪のカットをしたら、意識がなくなり、血圧低下が見られたとの事。部屋を2人部屋に移す予定とのこと。口の中が出血しているように見える。辛そうに手を動かしている。目は閉じているが前回より意識レベルは高い。「大丈夫?」と言うと、「だめ」とはっきり言った。初めて[痛い」とも言った。施設から「看取り介護になる」と言われる。
・2015/02/05(当日) 施設の配慮で、部屋には童謡が流れている。午前中は、手をあちらやこちらにやって辛そう。そして、痛そうに目をぎゅっとして口をゆがめる。身のおきどころない様子を見ているのが辛い。医師は薬を使う検討もしたらしいが、認知の関係で、あまり効果が望めないと判断したらしい。
・同日14:10 逝去。苦しみの時間が短くて良かった。医師の話。「食べられなくなって亡くなったので、死因は老衰としましょう。その原因は進行性胃がん6ヶ月」。
何の点滴のチューブにもつながれず、手がミトン(グローブ)でつながれることもなく、最期は少し苦しんだものの、良い看取りではなかったか・・・
茨城の菩提寺に電話。「一日葬にしたい」と言うと、「こちらではキチンと通夜、葬儀をする。日にちさえ合えば、(一泊で)通夜と葬儀に行く」とのことで、なかなか話が合わない。
葬儀社と打合せ。火葬場が混んでいる。同じ市なら、1週間後の2/10朝一番か2/11だが無料。提携しているM市なら5万円、隣のT市なら8万円掛かるが、2/7でもOKとのこと。
子どもたちの会社のこともあり、2/11とした。
その後、菩提寺と相談。2/11はあくまでも葬儀でなく家族だけの「お別れ会」とし、2/14に我々夫婦がお骨を菩提寺に持って行って、そのときに法名を頂いて正式な葬儀を行い、同時に納骨をすることになった。
都会では、直葬など「何でも有り」だが、地方では、そのお寺の決まった段取りでしか、葬式は行えないようだ。例え、葬儀の場所が都会であっても、菩提寺が都会での葬儀に来る場合でも・・・
今回は、「遠いこと」と「火葬場が空いている日にちでお骨にし、正式な葬儀は菩提寺で」という事で、実質の1日葬(お別れ会)と、納骨の1日で終えられそう。(住職の都合の悪い日しか、火葬場が空いていない・・・と言うのも手??)
菩提寺との関係(話し合い)は非常に難しい。都会的な割り切った考え方は、地方のお寺では通じない。しかしこちらには、「墓に入れて貰う」という弱みがあるので、強くも言えず・・・
(追)終えてみて、カミさんの感想は、「自分の思い通りの葬儀で、心残りがない」とのこと。葬儀は、お寺や会葬者のことを考えて規模などを決めることが多いが、やはり故人とのお別れは遺族のもの。残された人の気持ちを優先して、全てを決めるべきだと、今更ながら思った。(下記は、カミさんの書いた死亡報告)
(追:2015/02/19)
2年続いて、お袋と義母を老衰で送った。その二つの経験を経ての感想である。
<老人病院で水分皮下点滴をしたお袋~48日目に死去>
・亡くなった時、皮下点滴で体はパンパン、ぶよぶよ。葬儀の時は水が抜けてガリガリ。
・看護士が一日数回痰を取るが、昏睡状態でもその時だけは苦しいらしく、体をよじっていやがる。
・「何もしなければ2週間」という医師の言葉に家族がたじろいて、水分点滴で1ヶ月延命したが、本人にとっては、点滴と導尿のパイプにつながれ、苦しんだだけの期間であった。
<老人ホームで何もしなかった義母>
・10日前頃から水も飲めなくなったが、点滴や導尿というパイプにもつながれず、体の手も自由。水分を入れていないため、苦しい痰の吸引もない。苦しんだ期間は最小で済んだのではないか・・・
★もし今後、自分が「延命の判断」を求められたら・・・
・「本人がなるべく苦しまない」ことを最優先に、食事を自分で取れなくなった時点で、躊躇無く「何もしない」という判断をするだろう。
・お袋のときに行った水分点滴は、結果として「自分のわがまま(心の整理)のために、お袋から“苦しまない自然死”の機会を奪ったのではないか・・・」という後悔が残った。本人が自分の意志で「1日でも命を長らえたい」と言わない限り(特に認知症の時)、パイプによる延命は本人が苦しむだけで意味が無いと悟った。これは老衰に限らず、死が避けられない病気の末期は、全て同じだと思う。
(追:2017/04/07)
・長尾和宏著「薬のやめどき」(p9)によると、「点滴のやめどきを知らないと、体内は過剰な水分を受けきれず、病院のベッドの上にいながら溺れて死ぬことになる。溺死は非常に苦しいものだ。」
⇒お袋のとき、何もしないのではなく、水分の点滴だけを頼んだが、医師から「体は必要な分の水分しか吸収しない」と言われたが、実際には、水分で皮膚が割れるほどに体がパンパン。亡くなった数日後の葬儀の時は、体から水分が抜けてガリガリ。いまだに「水分の点滴の中止、または減量を医師に言えば良かった」と後悔。病院は、決められた点滴を淡々と繰り返していた。その苦しみから救えるのは家族しか居なかったのに・・・
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