癩作家・北條民雄著「いのちの初夜」を読む
先日、ハンセン病の多摩全生園に見学に行ったが(ここ)、それを機に、カミさんが昔読んだという北條民雄(大正3年~昭和12年12月)の「いのちの初夜」を図書館で借りて読み直していた。そして、「この本はやはり自分で持っていたい」と、改めて中古本を探して買った。それで、あまりにカミさんが絶賛するので、自分も読んでみた。
この角川文庫「いのちの初夜」は、短編が8つ入っている。最初の短編が「いのちの初夜」。何ともロマンチックな題だな、と思ったが、読んでみると「いのち」とは、癩患者の肉体が滅びて“いのち”に昇華した姿であり、初夜とは癩病院に入院した最初の恐ろしい夜のことである。つまりこの小説は、(現在の)多摩全生園に入院した最初の一夜の体験がもとになっているという。
川端康成は、この文庫のあとがきで、「いのちの初夜」についてこう書いている。
「この作について私あての手紙に、「・・・けれど、書かねばならないものでした。この病院へ入院しました、最初の一日を取り扱ったのです。僕には、生涯忘れることのできない恐ろしい記憶です。でも一度は入院当時の気持に戻ってみなければ、再び立ち上がる道がつかめなかったのです。先生の前で申しにくいように思いますけれど、僕には、何よりも、生きるか死ぬか、この問題が大切だったのです。文学するよりも根本問題だったのです。生きる態度はその次からだったのです。……」と北條民雄は書いてよこした。」(p244より)
この「いのちの初夜」で、少し気になった部分をメモしてみる。
「どんなに痛んでも死なない、どんなに外面が崩れても死なない。癩の特徴ですね」(p38より)
「尾田さん、あなたは、あの人たちを人間だと思いますか」・・・
「人間ではありませんよ。生命です。生命そのもの、いのちそのものなんです。僕の言うこと、解ってくれますか、尾田さん。あの人たちの『人間』はもう死んで亡びてしまったんです。ただ、生命だけがびくびくと生きているのです。なんという根強さでしょう。誰でも癩になった刹那に、その人の人間は亡びるのです。死ぬのです。社会的人間として亡びるだけではありません。そんな浅はかな亡び方では決してないのです。廃兵ではなく、廃人なんです。けれど、尾田さん、僕らは不死鳥です。新しい思想、新しい眼を持つ時、全然癩者の生活を獲得する時、再び人間として生き復(かえ)るのです。復活そう復活です。びくびくと生きている生命が肉体を獲得するのです。新しい人間生活はそれから始まるのです。尾田さん、あなたは今死んでいるのです。死んでいますとも、あなたは人間じゃあないんです。・・・」(p40より)
癩によって滅びていく肉体。しかし肉体は滅びても、健全な精神で生きていこうとする癩患者・・・。
この短編は著作権が切れているため、「青空文庫」(ここ)で読むことが出来る。短いのでぜひ一読を・・・
北條民雄は、19歳の時に発病し、20歳で多摩全生園に入院。そして入院後に文学の創作を開始し、22歳で『いのちの初夜(原題「最初の一夜」)』により第2回文學界賞を受賞したが、翌年24歳で腸結核のために死んだ。
あまりに短い生涯であった。しかしこの短編の完成度はすごい。
この文庫本の3番目に収録されている「癩院受胎」にはこんな言葉がある。
「肉体を持っている限りここでは生きられません。断じて肉体は捨てなきあならんです。そうでなければ、ここでは自殺するよりほかにないんですよ」(p74より)
「覚悟するよりほかありません。生き抜く道はその上にあるでしょう。肉体を捨てることです。どんな発疹の肉体にの中にも、美しい精神は育つんですからね」
「肉体を捨てることが、人間にはできるでしょうか」・・・
「できます!」(p76より)・・・・
一般に男の子は病気の進行が急激であるが、女の子はほとんどが治癒状態にあるのが多く、・・・」(「癩院受胎」p93)
3年ほどの文学生活であったが、その作品は川端康成に認められ、師事した。その凝縮した時間に、北條民雄の文学は病身の体を蝕み、体力を奪ったのだろう。しかし肉体は滅びても、癩病棟という特殊な環境を背景にした文学は世に残った・・・。
前の多摩全生園の見学紀のときも書いたが、既に過去の病気になったハンセン病。しかしこの病気の歴史は、「人権」というものをよくよく考えさせてしまう。
北條民雄の作品を通して、我々の心にある「差別」「偏見」というものを、今一度呼び起こして考え直してみるのも良いのかも知れない。
(2013/12/17追)
どうしても頭から離れない一文がある。「続癩院記録」の中の一文である。
「・・・・
六号病室にもう数年の間病室を転々と移つて来たY氏がゐる。
氏のことに就いては私は委(くわ)しく書くだけの元気がなかなか出て来ないのであるが、と言ふのは氏のことを書かうとするとなんとなく私自身息づまるやうな気がして来るのである。
人の年齢といふものは、顔の形や表情や体のそぶりなどによつてだいたい推察されるし、またさうしたヂェスチュアや表情などがあつてこそ年齢といふ言葉もぴつたりと板についた感じで使用出来るのである。ところがさうしたものが一切なくなつてしまつた人間になると、年齢といふことを考へるさへなんとなくちぐはぐなものである。Y氏は今年まだ四十七か八くらゐであるが、しかし氏の姿を見るともう年齢などといふ人間なみの習俗の外に出てしまつてゐるのを感じさせられる。たとへば骸骨を見て、こいつはもう幾つになるかな、などは考古学者ででもない限り誰でも考へないであらうやうに、Y氏を見ても年齢を考へるのは不可能なばかりでなくそんな興味がおこつて来ないのである。氏は文字通り「生ける骸骨」であるからだ。
眼球が脱却して洞穴になつた二つの眼窩、頬が凹んでその上に突起した顴骨、毛の一本も生えてゐない頭と、それに這入つてゐる皸(ひび)のやうな條、これが氏の首である。ちよつと見ても耳のついてゐるのが不思議と思はれるくらゐである。その上腕は両方とも手首から先は切断されてしまつてをり、しかも肘の関節は全然用をなさず、恰も二本の丸た棒が肩にくつついてぶらぶらしてゐるのと同然である。かてて加へて足は両方共膝小僧までしかない。それから下部は切り飛ばしてしまつてゐるのである。つまり一言にして言へば首と胴体だけしかないのである。こんなになつてまでよく生きてゐられるものだと思ふが、しかし首を縊るにも手足は必要なのであつてみれば、氏にはもう自殺するだけの動作すら不可能、それどころか、背中をごそごそ這ひ廻る蚤に腹が立つてもそれを追払ふことすら困難なのである。
飯時になると、氏はそれでも起きてけんどんを前にして坐る。附添夫がどんぶりに粥を盛つてやると、犬のやうに舌をぺろりと出してそのあたりを探り、どんぶりを探し当てると首をその中に突つこむやうにしてぴちやぴちやと食ひ始める。少しも形容ではなく犬か猫の姿である。食ひ終つた時には潰れた鼻にも額にも、頬つぺたにも粥がべたべたとくつつき、味噌汁はなすりつけたやうに方々に飛び散つてくつついてゐる。それを拭はねばならないのであるが、勿論手拭を持つて拭ふといふ風な人間並の芸当は出来ない。それにはちやんと用意がしてあつて、蒲団の横の方に幾枚も重ねたガーゼが拡げてある。氏はころりと横になると、うつぶせになつてそのガーゼに顔をこすりつけて拭ふのである。既に幾度も拭つたガーゼは黄色くなつてをり――勿論附添夫が時々取りかへてやるが――それは拭ふといふよりも、一個所にくつついてゐるのをただあちこちとよけいくつつけるばかりであるが、そんなことに一向気のつかない氏は、顔はたしかに綺麗になつたに違ひないと思つて蒲団の中へもぐり込んでしまふ。
私は昨夜もこの男のゐる病室へ用があつて出かけて見たが、氏は相変らず生きてゐた。しかし大変力の失せたのが目立つてゐて、近いうちに死ぬのぢやないかと思つた。
だが、驚くべきことは、かういふ姿になりながら彼は実に明るい気持を持つてをり、便所へ行くのも附添さんの世話になるのだからと湯水を飲むのも注意して必要以上に決して飲まないといふその精神である。そして煙草を吸はせてやつたり便をとつてやつたりすると、非常にはつきりした調子で「ありがたうさん。」と一言礼をのべるのである。また彼は俳句などにもかなり明るく、読んで聴かせると、時にはびつくりするくらゐ正しい批評をして見せる。私は彼を見るときつと思ふのであるが、それは堪へ得ぬばかりに苛酷に虐げられ、現実といふものの最悪の場合のみにぶつかつて来た一人の人間が、必死になつていのちを守り続けてゐる姿である。これを貴いと見るも、浅ましいと見るも、それは人々の勝手だ。しかしいのちを守つて戦ひ続ける人間が生きてゐるといふ事実だけは、誰が何と言はうと断じて動かし難いのである。・・・」(北條民雄著「続癩院記録」より。全文は青空文庫の(ここ))
こんな一文を読むと、つくづく人間は肉体と精神(気持ち)の二つで出来ているのだと思う。そして、我々シニア族もそれと同じで、老化によって肉体は故障がちになるのは致し方ないとしても、精神は永遠に若さを保つことは可能であり、精神をも老化させてしまうのは、本人の心の持ちよう次第なのだろう。でも、精神の若さを保つのは、結構大変なことではあるが・・・
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