ハンセン病・多摩全生園の見学ツアーに行く
今日は、カミさんと一緒に、東村山にある国立ハンセン病資料館と、多摩全生園内の現地ガイドツアーに行ってきた。
新聞で見学ツアーがあることを知ったのは、1カ月ほど前だった。10月には行けなかったので、11月に行こうと予定表に書いておいた。それで思い出し、天気も快晴だったので行ってみた。
国立ハンセン病資料館のホームページにあるように(ここ)、現在「2013年度秋季企画展」の開催中であり、付帯事業として現地ガイドツアーを「2013年 10月19日(土)・27日(日)、 11月23日(土)・24日(日)、12月14日(土)・15日(日) 」の6回開催していた。(下記パンフレットのPDFはここ)
ウソだろう・・・と思いつつ、「各回先着30名様までとさせていただきます」とあったので、少し早めに行ったが、予想以上に参加者が多かった。80名以上いただろうか?案の定、2グループに別れて出発。せっかく来た人を帰すわけがない・・・。先着30名様の表示は不要・・・
午後1時出発の2時間の予定が、結局2時間半のツアーになった。ツアーは毎月、1日目は「史跡」コース、2日目は「日常生活と医療の場」コースに分かれており、もらった立派なガイドブックもそのように2部に分かれている。今日は「史跡」コースだった。
園内は広い。まるで都内の皇居のように、都市の中に豊かな自然がある。雑木林を抜け、「豚君之碑」からツアー開始。昔は園内で全てが賄われていたため、豚や牛の飼育場、そして火葬場から納骨堂、水を表に出さないための「排水溜め」まであった。逃げないように、土塁や監房、神社や葬式のときの各宗教施設。娯楽のための劇場跡など・・・
嫌われる養豚場や火葬場は、時代と共に土地が拡張された際、その隅に隅にと移動していったという。
地域内はまさに独立国家。建物から焼き場まで、何から何まで自前。患者の中にはあらゆる職業の人がおり、宮大工の人が神社を作ったという。そして1937年には歌舞伎座まで作ったが、7年後に焼失してしまった。
印象に残ったのは、劣悪な環境の中でも改善に対する運動があり、その人たちは弾圧され、死んでいったという。「洗濯場跡」の史跡には、「洗濯場事件」の事が書いてあった。1941年、洗濯場主任の山井道太は、穴の開いていない長靴の支給や食事の改善を園に求め、拒否されると作業を2~3日休んだ。すると包帯やガーゼが腐り、その責任を問われ、草津にあった重監房に送られ、ほどなく病気になって亡くなったという。このように、改善への運動と、それを弾圧する権力との戦いが長かったという。
そして宗教地区。真宗、真言宗、日蓮宗、カトリック、プロテスタントなどの教会や会館が同じ所に並ぶ。ここは国立であるため、各宗教設備はそれぞれの団体の寄付で賄われているという。そして「いとちとこころの人権の森宣言の碑」(上の下中央)。
ここに書いてあることが、この施設の今後の課題を良く表している。
ガイドさんに聞くと、全生園の平均年齢83歳はで、入所者数は229名。そのうち、一人で生活が出来る一般舎は93名、介護が必要なセンター入居者は88名、そして病棟入院者が53名の内訳だという。
そして現代は、日本での発病者は年に1~2名で、それもブラジルやインドのように、まだ撲滅されていない地域での感染者だという。しかし既に薬で治癒するため、昔のようにここに来ることはない。もちろんこの施設の入居者もハンセン病は完治している。しかし帰る所がない人が多く、そんな人が住んでいるという。
つまり、現在の平均年齢83歳が、20年経つと100歳を越えるわけであり、つまり全国に13カ所あるというハンセン病施設は、全てが閉鎖に向かって進んでいることになる。そこで、今までの過ちの歴史をどう、後世に伝えるか・・・ということが課題。そのことがガイドブックの概要に詳しい。(下記のPDFはここ)
しかし現実問題として、入居者の漸減にともない、ハンセン病という言葉も風化していくのだろう。施設の今後への危機感も強い。よって納骨堂を資料館のすぐそばに設置したのも、消えていく危機感の表れだという。
ハンセン病、つまりはライ病は古代から忌み嫌われてきた病気。ライと聞いて、色々思い出す。映画では「ベン・ハー」(ここ)や松本清張の「砂の器」(ここ)、そして鉛筆画の木下晋氏(ここ)や(ここ)を思い出す。
木下氏の絵画は、テレビの番組でも何度か見たことがあるので、まさに今日は氏が通ったかもしれないその現場に行ったわけだ・・・
広島の原爆資料館と同じく、非常に立派なこの高松宮記念ハンセン病資料館。ここでは、段々と消えていくこの病気と人権との戦いが良く見て取れる。
天気がよかったせいもあるが、100人に近い人が今日は集まった。読売新聞に先日載ったこともあると、ガイドさんは言っていたが、でもこのように沢山の人が集まることは良いこと。
こんな非日常のツアーもたまには良いのかも・・・・
自分は知らなかったが、ハンセン病患者の作家・北条民雄が執筆した場所にも行った。ウチのカミさんは、学生時代に読んだ、北条民雄の「いのちの初夜」をもう一度読むんだ、と図書館に予約したとか・・・。
最後にガイドさんが「納骨堂」で話していた言葉を紹介する。
「療養所の中に火葬場があって納骨堂がある意味を考えて欲しい。ふるさとに帰れない。お骨には名前があるが本名は書かれていない。それは入居時に、家族に迷惑をかけないために名前を変えるから。
「千と千尋の神隠し」という映画があるが、宮崎駿監督は近くに住んでいることもあって、こことは非常に縁が深い。人権の森のプロジェクトにも1千万円の寄付を貰った。「千と千尋」や「もののけ姫」の時は、この辺りでよく見かけた、という話も聞いている。ラストで、千尋は自分の名前を取り戻して、現代に戻っていく。そのときに手を振っているカエルの姿の人も、もしかすると名前を取られて外に出られないのかも知れない。千尋は外に出られたから良いが、我々はむしろカエルさんに目を向けなければいけないのではないか・・・。全生園のオマージュのような気がしている。出るときに橋を渡るが、ここでは堀・・・。宮崎さんが言っているわけではないが、自分は、残された人をどう思いますか?という隠しテーマがあるような気がしている。
ぜひハンセン病も自分の問題として考えて頂きたい。もし自分の結婚する相手が、かつてハンセン病の患者だったらどうする? 本人が納得しても、親を説得出来るか? 親戚を説得出来るか? ではなぜ説得出来ない? なぜ反対する? そこが問題・・・」
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