「ドミニカ移民 小泉談話の持つ力」
先日の朝日新聞のこんな記事に目が止まった。
「(ザ・コラム)ドミニカ移民 小泉談話の持つ力 大久保真紀
カリブ海にあるドミニカ共和国を先日、訪ねた。日本人移住者による物故者慰霊祭を取材するためだ。新大陸を発見したコロンブスが最初の航海で足を踏み入れ、初めて町が築かれた地。彼の遺体が首都サントドミンゴに葬られている。
1956年から59年にかけて、日本から249家族1319人が移り住んだ。18ヘクタールの優良農地を無償譲渡するという日本政府の募集に大規模農業を夢見た人たちが、田畑や財産を処分し、鹿児島、福島、高知、山口県などから新天地に向かった。待っていたのは、石ころの山、塩の砂漠、乾燥した荒れ地だった。
土地はもらえず、生活は苦難を極めた。隣国のハイチに不法入国すれば強制的に日本に帰されると思って越境して殺された若者。自分が死ねば妻子を帰してもらえると思って首をつった人など自殺者は10人を超えた。その後、大半が日本に帰国したりブラジルなどに転住したりした。残った47家族がいま、約1千人の日系人社会を築く。
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私が彼らの存在を知ったのは16年前。募集要項の履行を訴えるため移住者16人が集団帰国したときだった。「日本政府のドミニカ移民政策は詐欺同然だ」と口々に語られる話のあまりのひどさに愕然(がくぜん)とした。
その中に、嶽釜徹(たけがまとおる)さん(75)がいた。嶽釜さんは18歳のとき、鹿児島県の農業高校の教頭だった父に連れられ移住、ハイチとの国境地帯で農奴同然の生活を強いられた。「おやじは政府にだまされたかもしれないが、俺はおやじにだまされた」。父に食ってかかる毎日だった。
「話が違う」と先頭に立ち、現地の日本大使館に通い続けた父が逝ったのは87年。「移住問題の解決を頼む」という遺志を継ぎ、何度も来日して政府と交渉を続けた。
無視する政府に対し、移住者たちは2000年、損害賠償を求めて提訴した。原告は計177人。金を出し合い、代表者として嶽釜さんを法廷に送った。裁判の弁論など訪日は計67回。家族で自動車修理工場を営みながら、私費もかなり投入した。
06年6月の東京地裁判決は、国の責任を全面的に認める一方で、20年の除斥期間の経過によって請求権は消滅したとして棄却した。「祖国とは何なのか。自国民をだまし、苦しめ、殺すのが祖国なのか」と悔し涙を見せる嶽釜さんの姿は痛々しかった。
だが、政治が動く。判決内容を聞いた当時の小泉純一郎首相(71)は「実質敗訴だな」と漏らし、国の謝罪を閣議決定、最高200万円の見舞金の支給を決めた。「政府として率直に反省し、お詫(わ)び申し上げます」。素直に非を認めた、極めて珍しい首相談話が出た。原告は控訴を取り下げた。
その裏に、裁判を傍聴し、移住者を支援した元厚生労働相で自民党参院議員の尾辻秀久さん(73)の存在がある。尾辻さんはこの問題に興味をもち、外務省の役人を呼んで説明を求めた。が、「ホームページを見て下さい」。その態度にあきれ、自ら調べるようになり、現地にも足を運んだ。
首相だった小泉さんとは怒鳴り合いのケンカをしたこともある仲だったが、首相談話を出す際、「謝るならきちんと謝って下さい」と言うと、小泉さんは「そうだな」と応じたという。文面は当初の「遺憾」から、率直な謝罪に変わった。「普通の総理ならああは書かない」と尾辻さんは言う。
首相談話は書状として、移住50周年記念式典で移住者一人ひとりに手渡された。
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今回、ドミニカを訪問して「政治の力」を改めて痛感した。以前は移住問題を訴える人たちを歯牙(しが)にもかけなかった現地の大使館や国際協力機構(JICA)事務所の対応が百八十度転換していたのだ。慰霊祭に参列した大使に直接取材を申し込むと、二つ返事でOKが出た。佐藤宗一大使(64)は1時間も時間をとり、移住者問題について「総理談話はバイブル」と語った。植松聡領事(59)も「移住者が訴訟によって勝ち取ったもの。大使館もJICAもいろんな問題があったが、小泉談話を受けて、できることからやっていこうと歩み寄っている。やっと本音で話せるようになった」と話した。その成果として、高齢の移住者世帯に年22万円の保護謝金(特別困窮世帯には55万円)の支給や、助成事業としての医療保険への加入も始まっている。
政治家が方向性を打ち出さない限り、官僚は動かない。それが日本の現実なのだ。原発ゼロ発言で時の人となった小泉さんに、あの時の首相談話について取材したいと申し込んだが、なぜか断られた。
滞在中、嶽釜さんと移住地を訪ね歩いた。首都から西に約250キロのドベルヘは照りつける太陽の下、塩が一面に噴き出た大地が広がっていた。地面に生えた草を口に含むと、塩辛かった。そこから20キロほど北東に行ったネイバは、一面石ころだらけ。57年たったいまもだれも耕作していない。「約束の優良農地をもらえるまで交渉を続けていく」と嶽釜さんがつぶやく。
想像を絶する移住者たちの絶望、その後の努力と苦労……。その地に立ち、私は流れる涙を止めることができなかった。(編集委員)」(2013/11/10付「朝日新聞」p11より)
こんな事があったとは知らなかったが、何とも痛ましい・・・。直ぐに思い出したのが、先日見た映画「かぞくのくに」。この映画では、北朝鮮への帰国だったが、どちらも「国にだまされた・・・」。そして相手国に渡ったが最後、帰れない・・・。
それにしても、「18ヘクタールの優良農地を無償譲渡するという日本政府の募集」で、国が国民をだましてまで、行う背景は何だったのだろう? それとも国はだますつもりは無かったのか? するとドミニカがだました?
WIKI(ここ)にその経緯が詳しい。
それによると、ドミニカ、日本双方の政府によるだまし討ちだったことが分かる。
「その原因は、日本とドミニカ共和国の両政府によって締結された条約において、日本からの移住者には耕作権だけしか与えないことが決められており、日本政府が発表した募集要項にはそのことが一切記載されていなかったうえ、当時の駐ドミニカ大使も、現地の水問題と塩害が多発している事実を把握していたことを隠していたことにあるとされている。一方のドミニカ政府も、日系移民をハイチからの侵入者を防止する為の国境警備に使い、同時に荒地の開発にも利用することを意図しており、日本政府もその事実を把握していたとの記録が残っている。」(ここより)
これも当時は“秘密”事項・・・。この例は、時間と共に事実が暴露されたが、今回の秘密保護法が成立したら、こんな事実も闇の中・・・?
ともあれ、戦後はこんな事もあったのかと、恥ずかしながら勉強になった。
「ドミニカ共和国へ移住した女性の間では、当時自分たちの置かれた悲惨な状況を、浦島太郎のメロディに乗せた
むかし むかし 母ちゃんは
ぶらじる丸に乗せられて
ドミニカ移住をしてきたら
難儀、苦労が待っていた
オヤジ殿が 移住など
考え付いたばっかりに
若き時代は夢の間に
今は白髪のお婆さん
といった替え歌が歌われていた。」
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