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2013年11月21日 (木)

「漢字で包み込む、長寿の祝い」&終末医療を考える

先日の朝日新聞にこんな記事があった。
漢字で包み込む、長寿の祝い(桜井進の数と科学のストーリー)
 少し気が早いですが、お正月、親戚が集まった場で「長寿のお祝い」をしようというご家庭はありませんか? 日本では、77歳は「喜寿」、88歳は「米寿」、99歳は「白寿」……と、特別な呼び名があります。これ、実は分解すると数式のようになるんです。
 例えば、88歳の米寿。「米」という漢字を分解してみます。最初の筆順の点々を逆さにして「八」、次が真ん中の「十」、そして下の「八」。だから「八十八」。
 似ているのが、81歳の「半寿」です。「半」を分解すると「八」「十」までは「米」と同じ。それに「一」を加え「八十一」。81歳は「盤寿」とも言います。将棋盤は、9×9=81マスなんですね。
 では、77歳の「喜寿」は? これは難しい。でも「喜」という字の草書体をご存じならわかり131121choujyu ます。「●(●は七の下に十と七)」だから「七十七」。80歳の「傘寿」も「傘」の略字が「●(●はひとがしらに十)」で「八十」。90歳の「卒寿」も「卆」で「九十」です。
 99歳の「白寿」は100歳の「百寿」と並べて考えます。「百」という字から「一」をとると「白」。つまり、100(百)-1(一)=99(白)です。111歳は「川寿」とも「皇寿」とも言います。「川」は、そのままで111に見えますね。「皇寿」の「皇」は、99(白)+10(十)+2(二)=111というわけです。
 ここまで来れば、宿題にした「茶寿」もわかりますね。ヒントは「米寿」です。茶のくさかんむり以外の部分は「米」と同じ理由で88です。くさかんむりを真ん中で分けると「十」と「十」です。茶=十(10)+十(10)+八十(80)+八(8)=108歳が答えです。「茶摘み」の歌は「夏も近づく八十八夜」と歌います。お茶は「88」と関係が深いんですね。
 日本には、お金を紙に包んで渡す文化があります。長寿の特別な数も「漢字」にして包み込む。「数と科学」ならぬ「数と漢字」の粋なストーリーを、祝いの席でも話題にしてみてください。 (サイエンスナビゲーター)」(
2013/11/17付「朝日新聞」p16より)

自分が、歳によって呼び方がある事を意識したのは、還暦を意識したとき・・・。当時「「還暦」とは?」という記事を書いた(ここ)。
その日付を見たら2006年6月10日とあるので、このblogを初めて10日目である。当時58歳だった。それ以来、こんな“文字のカラクリ”も覚えた。良くこの言葉が出るのが、昔の仲間との飲み会。誰が今年は喜寿だとか・・・。そんな話に最近はついて行けるようにも・・・

それはそれとして、最近、終末医療について考えることが多い。こんな歳の呼び方を意識する世代は、誰もが親の看取りを経験する。その親の看取りをどう受け止めるのか、というのが大きなテーマ。
自分は何度か「胃ろう」についての是非を、当サイトにも書いてきた。色々な本も読んだ(ここなど)。そして結論は「胃ろう」はしない、させない、という基本的なスタンス。
しかしここに来て、その思いは少し揺れている。

一般的に、人間が生きることについて、「もういいか・・・」となると、食べられなくなる。そして自分が蓄えていたエネルギーを使い果たして枯れるように死んで行く。それが生きものとしての自然な姿。
しかし医療の現場では、そんな簡単な話ではない。
人間が食べられなくなると、何もしないと2週間で亡くなるという。よって、食べられなくなると、先ずは栄養の点滴を始める。しかしあっちこっちに点滴の針を刺すと、同じ場所に刺せないため、そのうちに血管確保が出来なくなり、点滴が物理的に出来なくなる。
次に待っているのが、鼻からチューブで胃に栄養を送る「経鼻(けいび)栄養法」や、直接腹部の皮膚と胃に穴を開けてチューブを入れる「胃ろう栄養法」の選択。
それを拒否すると、今度は胸元や太ももの付け根の太い血管から長いチューブを差し込んで栄養を注入する「中心静脈栄養」をするか・・・?、ということになる。これは細菌による合併症の心配があるという。しかしこのどちらも、意識がなくて動けない場合は良いが、本人がわずらわしくなるため、そのチューブを外してしまう場合がある。その時は手にミトンと呼ばれるグローブをはめさせる。もしそれでもダメな場合は、手をベッドに括りつける身体拘束ということになる。
もし「拘束が可愛そう」と、それも拒否すると、最後の手段(?)として、皮下点滴による水分補給だけ行うことになる。これはお腹などの皮下に水分を1日1リットル程度注入する方法。体は良くしたもので、自分の必要な水分だけを皮下から吸収するという。これをいやがる場合は、点滴の針が外れないように、つなぎ服のようなお腹に手が入らない服を着ることになる。

これらの方法による余命は、「胃ろう」や「経鼻」は、内臓系がしっかりしていれば年単位で長生きする。よって外すと即「餓死」を意味するので、一旦始めたら外せなくなると言う。中心静脈栄養による余命は数か月、皮下点滴による水分補給では3ヶ月位らしい。
しかし何もしないと、10日~2週間くらいで死を迎えるという。

ここで問題になるのが、家族はそれらをどう判断するのか、という問題。そのようなケースに陥った場合、医師は家族にその判断を委ねる。そして家族は皆で相談し、決定し、その方法を医師に頼むことになる。家族も色々な意見がある。それを一つにまとめるのは大変・・・

もし脳の病気などで、本人の意識がない場合はそう悩まなくて良いかも知れない。しかしまだ意識があって話が出来る場合は悩む。胃ろうをして、まだ何年も生きる手段があるのに、結果として余命を家族が決めてしまうことになりかねない、という思いが頭をよぎる・・・。
しかしそれは間違いだと思う。これらの手段は、終末医療が発展した現代だからこそ出てきた方法で、そんな療法が無かった昔は、「食べられなくなる=老衰で亡くなる」ということが当たり前だった。それをベースに考えると、あまり悩まなくても良いのかも・・・
それと「身体拘束」と余命との間合いをどうするか・・・
80年から90年生きてきた人生の、最後のたった数週間の命を延ばすために、本人がいやがってでもベッドに体を縛り付ける意味がどこにあるのか・・・という問題。本人の事を思えば、当然身体拘束は避けることになる。
すると結局最後は、残された家族の心の問題となる。幾ら生物としての役割が終わった、という事実が正しいとしても、家族の心の問題はそう簡単に割り切れるものではない。

「胃ろうはしない」という、理屈では分かっているスタンスも、実際にその場に遭遇すると、家族たちの頭(理屈)と心(心情)は離れてしまい、その間で葛藤する。それが現実らしい。
特に本人の、体は「もういいや」と諦めても(食事が採れない)、心(魂)は「まだ生きたい」というエネルギーが残っている場合、家族はどう対処したらよいのか悩む・・・
結局、本人のいやがる身体拘束は避けて、そして痛みや苦しみのないようにして、せめて水分だけでも・・・と、皮下の水分点滴を最後の手段にする。そして時間と共に、残っている体力を使って(筋肉を熱に変えて)生き、最後は骨と皮だけになって亡くなる・・・。それがベストの道ではあるまいか・・・。本によると、これが一番苦しくない道だという。それを信じて・・・。
白寿だ何だと、“お祝い”の後には、こんな現実もある。そんな事を思うこの頃である。

(関連記事)
田中奈保美:著「枯れるように死にたい―「老衰死」ができないわけ」を読む 

131121shimero <付録>「ボケて(bokete)」より

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