「戦争で消えていった鉄道 物資欠乏、レールなど金属資材を供出」
今日はお盆と共に、終戦の日。68年経った・・・。戦争体験を記憶に留めている年齢は幾つ位なのだろう。小学校1~2年は無理とすると、8歳位か? とすると、76歳以上の人でないと、戦争体験の記憶がないということ・・・。段々と戦争が風化しつつある。
今日の戦没者追悼式で「安倍首相は式辞で、近年の歴代首相が表明していたアジア諸国に対する損害や反省などに言及しなかった。・・・式辞で安倍首相は、2007年に自身も使った「アジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与え、深い反省と哀悼の意を表する」という表現を用いなかった。近年の首相が使っていた「不戦の誓い」にも触れなかった。」(ここ)という。
話は変わるが、先日の日経新聞(首都圏版)にこんな話が載っていた。
「戦争で消えていった鉄道 物資欠乏、レールなど金属資材を供出
今年も終戦の日が近づく。日本は金属や石油などを南方から輸送していたが、戦争後半になると米軍の攻撃で資源の調達が困難になった。そうした中で鉄道が消えていったのをご存じだろうか。
JR立川駅で中央線から青梅線に乗り入れる列車は駅を過ぎると、単線をゆっくりと走り 西立川駅で複線の青梅線と合流する。この単線区間は敗戦が色濃くなった1944年10月まで営業していた五日市鉄道、通称「五鉄(ごてつ)」の名残だ。
当時は青梅線の南側をほぼ奥多摩街道に沿って、現在のJR武蔵五日市方面へ走っていた。拝島―五日市間は現在のJR五日市線として残っている。五鉄で立川まで通っていた昭島市の小林鶴吉さん(83)は「いつも通勤、通学の人で満員だった」と振り返る。
政府は物資が欠乏すると国鉄や鉄道会社に対して不要、かつ不急の路線は、休止したり単線にしたりするよう求めた。レールなどの資材を輸送力増強を進める他の路線へ転用するほか、武器などの原料に使うためだ。対象となった路線は一般に不要不急線と呼ばれ、全国各地にある。
その不要不急線の一つで、誕生と廃線ともに軍の影響を受けたのが、千葉県のJR成田駅から三里塚を通ってJR八日市場駅まで結んでいた成田鉄道(現京成グループの千葉交通)多古線だ。千葉県営として1911年に開業したが、建設したのは陸軍の鉄道連隊。陸軍は物資輸送の切り札として鉄道に着目し、鉄道連隊を設けていた。主な任務は鉄道の建設・運転・敵の鉄道の破壊だ。
鉄道友の会参与・白土貞夫さん(79)によると「営業が始まってもしばらくは鉄道連隊の軍人が運転していた」という。しかし、この多古線も1944年1月に姿を消す。当時、京成電鉄は海軍から資源開発のためにインドネシア・スラウェシ島での鉄道建設の命を受けていた。資材逼迫の折、多古線のレールを転用することになった。
「京成電鉄五十五年史」(1967年)によると出石鉄道(兵庫県)、善光寺白馬電鉄(長野県)など日本各地からレールが集められた。そのレールを積んだ船は南方への航行中に攻撃を受け沈められたという説があるが、白土さんは「当時、既に制海権は無く海上輸送は無謀。国内で使ったと考えるのが妥当ではないだろうか」と推測する。
〈もっと知りたい〉
○家庭内の鍋や釜などの金属も供出が奨励され、当時は「家庭鉱脈」と呼ばれた。現在の携帯電話などに含まれる貴金属を回収する「都市鉱山」に通じるものがある。
○戦争の影響を受けたインフラは鉄道だけではない。1937年に日中戦争が始まると軍事費が膨らみ、電話通信網は後回しに。設備不足で電話がつながりにくくなり、東京から大阪へ電話しようとすると、相手と通話できるまでに8時間かかったこともあったという。」(2013/08/13付「日経新聞」p35より)
戦時中、家庭の鍋釜を供出した話は良く聞くが、鉄道線路などのインフラを止めてまでとは、その窮状が偲ばれる。
帰りの通勤電車で、立川駅まで青梅特快で来たとき、中央線方面への電車にホームで乗り換えるのだが、今までいつも不思議に思っていたことがあった。青梅方向は下りで右(北)方向に向かう。よって、ホームの右側(北側)が青梅線の電車で、左側(南側)が中央線の八王子方面だと納得出来るのだが、いつも逆なのである。青梅線の電車は、どこで中央線を越えるのかな?と疑問に思っていたが、上の記事によると、別に単線で線路があるという。そうなのか・・・
身近な出来事にも、それぞれ歴史がある。そのうち、じっくりと五日市鉄道の路線の“その後”を確認してみようかな・・・。
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