「がん治療の不信と向き合う」~柳原和子さんが残した言葉
今日は、長いのではなはだ恐縮だが、非常に示唆に富む話なので、じっくりと読んでみたい。先日の朝日新聞に載っていた記事である。
「(インタビュー)がん治療の不信と向き合う
編集者・ライター、工藤玲子さん
まっとうな懐疑心 自立と依存の間で納得目指し生きる
「がん治療は有害無益」。そんな内容の本がベストセラーになっている。広がる医療不信にどう向き合うか。がんを患いながら医療への問題提起を続け、2008年に亡くなった作家の柳原和子さんの言葉は、それを考える上での示唆に富んでいる。柳原さんの闘病を間近で献身的に支え続けた工藤玲子さんに、柳原さんの思いを聞いた。
――柳原さんは患者の立場から、医療がはらむ問題を指摘してきました。医療不信についてもたびたび発言していますね。
「柳原さんには、がんの告知を受ける前から不信感がありました。母親が卵巣がんで亡くなった際、医療ミスが疑われ、主治医の心ない言葉を耳にしたことなどがきっかけです。当時『お母ちゃんと同じ年齢で同じがんになって、すべてを記録する』と誓った。その通り、47歳で卵巣がんになってしまったのです」
「でも、決して現代医療を否定したわけではない。海外を含め最新の治療情報にアンテナを張り、専門医を訪ね歩き、徹底的に議論した。亡くなる直前にも『再発後、私が4年以上も生きられたのは現代医学の勝利』と話していました」
――では、がん治療の何を問題視していたのでしょうか。
「現代医療は一人ひとりの人間を匿名化し、治療データを蓄積して発展します。実際の治療でも、症状や病気の進行段階で仕分けされ、標準治療という流れ作業に乗せられる。有効な手法かもしれませんが、患者の個別性が見落とされがちです」
「柳原さんが警戒したのは、『病や死と向き合う私』というかけがえのない物語を、『現代医療にとってのがん患者』という大きな物語に絡め取られてしまうことです。自覚症状がないのに告知され患者というレッテルを貼られ、苦しい治療を受け、検査結果に一喜一憂し、時には余命まで宣告される。医療者の側は善意でも、最後の日々が『納得できる生』とほど遠くなりかねない」
――柳原さんは「がん治療で殺されない七つの秘訣(ひけつ)」などの著書があり、医療不信の流れをつくった一人とされる近藤誠医師とも親交があったそうですね。
「何度も対談したし、柳原さんご自身の治療について意見も聞きました。医療依存を戒め、患者の自立を促す点では共通していた。でも、相いれない面も大きかったです」
「近藤先生の考えは『がんの治療は積極的に行うべきではない。手術や抗がん剤治療は多くの場合、無意味だったり、苦しみをもたらし余命を縮めたりする。基本的に放置するのが一番』ということです。柳原さんの批判は『それは患者にとって救いにはならない』ということでした。告知され、死ぬかもしれないという状況で何もしないことに、多くの患者は耐えられない。『何をしても無駄』と話す医師と、『効果があると信じているからやる』と語る医師のどちらをとるのか。柳原さん自身は近藤先生の意見を、現代医療に依存し過ぎないためのセカンドオピニオンとして受け止めていました」
――近藤氏の主張は、1996年の著書「患者よ、がんと闘うな」からほぼ変わっていません。なぜ今、再び読まれているのでしょうか。
「原発事故の影響が大きいと思います。放射能による健康被害について、専門家の間でも意見が分かれた。データを根拠にしようとしても、過去のデータの蓄積自体が不足していて判断できない。素朴な専門家信仰が崩れ、自分自身でリスクを判断せざるを得なくなった」
「がんも原因ははっきり分からないし、治療法も進歩の途中にある。医師たちは一見、確信に基づき治療しているように見えるが、実は手探りで歩んでいる。医療には限界があり、全面的に頼れるものではない、という考え方が受容されやすくなった。近藤氏の主張は、健康な人々が医療に対しまっとうな懐疑心を持つきっかけになっていると思います」
――柳原さんは著書「がん患者学」の中で、現代医療以外の代替療法を取り入れ、長期生存している患者たちを取材しています。自身でも食事療法や気功などの代替療法を実践しました。現代医療よりも代替療法を信頼していたのでは?
「代替療法の『人が本来持つ治癒力を引き出す』という精神論にひかれていました。現代医療だけに頼っていると、がんに対して自分でできることが何もなくなってしまう。柳原さんが最初に入院した時、多くの患者仲間たちの話を聞いて気づいたのが『退院後、治ったと思って安心し、温泉三昧(ざんまい)、おいしいものを食べていた患者は再発する』ということでした。それは偏見かもしれませんが、人は最終的には自分なりの納得や確信に基づいて動くしかない。『自分は治療が終わっても治ったと安心しない。がんに対してできることをやる』と誓ったそうです」
「柳原さんは、日常生活の中で代替療法を実践することは、現代医療から自立するための杖になりうると考えた。がんを治すためというより、生きる力を養う『養生』と捉えていました。代替療法でがんを治すという治療家には懐疑的でした」
――現代医学による治療を受け入れつつも、頼り切らずに自立する。普通の患者には難しそうです。
「極論を言えば、現代医療で治る患者は依存してもいいと思います。治った患者さんに医療不信などない。『よくやってくれた』と思う人が大半です。でも医者から『治らない』と見放されたら、そこからどう生きればいいのか。柳原さんは現代医療の根底にある『治れば勝ち、治らなければ負け』という価値観からの脱却を目指していました。治らなくても、自分が自分に対して勝利者になる生き方を模索する機会として、がんを考える。そこで『自立』というテーマが前面に出てくる」
――柳原さんは、それを実践できたのですか。
「再発後、ほとんどの医師が絶望を口にする中で『2、3年はだいじょうぶ』と力強く話す医師がいました。その人が行ったラジオ波で腫瘍(しゅよう)を焼く治療で、肝臓に転移したがんが何度も消えました。旅行や仕事などやりたいことをして、がんから解放される猶予をもらえた。治療が順調だった約1年間、柳原さんの日々は充実していた」
「再発がんについては治療データが乏しく、『分からない』という点では患者も医師も対等です。対話を重ねて治療法を決め、最終的には信頼して任せる。患者と医師の理想的な関係にたどり着いたとも言えますが、自らの目標とは異なり、医師に依存していたようにも見えました」
「それで終われればよかったのですが、その医師も弱音を吐くほど、手に負えなくなる時が来ました。柳原さんも覚悟はしていたはずですが、現実を突きつけられた時の敗北感と絶望は大きかった。ある時、すべての治療から撤退し、家に閉じこもってしまいました。死を受け入れるための格闘の日々。少し元気な時期もあったのですが、黄疸(おうだん)が出たことで緩和ケア病棟に入院しました」
――「治らなければ負け」を完全には乗り越えられなかった、と。
「亡くなる数日前、お姉さんに『こんなもんかな』とつぶやいたそうです。人生、理想通りとはいかなかったけど、やれることはやった。まあ、いいか、という感じだったのでは。聖人君子のようには振る舞えなかったけど、病を抱えつつも自分の人生を生き切ったと思います」
「柳原さんには人を丸ごと大きく巻き込んでしまう不思議な吸引力があり、最期までお付き合いしました。泣いたり、わめいたり、はしゃいだり、喜んだり、引きこもったり。人間は強くないし、病を抱えるとさらに弱さが出てしまう。でも、それでいいんだよ、と、柳原さんに教えてもらった気がします」(聞き手・太田啓之)
*くどうれいこ 69年生まれ。料理、健康、医学、子育てをテーマにした本や記事を手がける。編著に「柳原和子 もうひとつの『遺言』。
*故柳原和子さん 50年生まれ。86年、「カンボジアの24色のクレヨン」でデビュー。97年、卵巣がんの告知を受け、8カ月入院。その経験や患者、医療関係者への取材をもとに00年「がん患者学」を出版。患者の側に立ち、現代のがん医療を批判した同書は多くの支持を得た。03年にがん再発、余命半年の告知を受ける。05年、その後の闘病や思索をつづった「百万回の永訣(えいけつ)」を著す。08年3月死去。」
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「完治しなくても美しいグレーを」
NPO法人キャンサーネットジャパン事務局長 柳澤昭浩さん
医師の説明や治療方針に患者が納得できないとき、「医療不信」は生まれます。高い技術や丁寧な説明を患者は求めますが、医師らは忙しく、コミュニケーションが十分に取れないことも多いのです。それに患者と医師では、元々持っている情報に差がありすぎます。医師の言うことを患者が理解できない、正しい情報でも感情的に受け入れられない、といったこともある。さらに、以前に比べて今は、あやしいものも含めて様々な情報が入り乱れ、患者が見聞きするようになっています。
3割以下の自己負担ですむ国民皆保険は、平等に医療を受けられる素晴らしい制度ですが、質が高い医療も低い医療も同じ値段でなされていて、いわば医師のモラルに任されています。一方、公的医療保険のコストには、不安も解消してくれるサービスなど患者の個別性を重視してケアする分まで含まれているわけではありません。しかし患者はその認識が低いため、医師への要求水準が膨らむのです。そうしたことも、不信が募る構造を生み出しています。
その結果、極端なことが起きます。治療をしてもしなくても同じだから何もしない、もしくは薬を個人輸入するなどして最後まで闘う。こうした白か黒かという選択を、患者がとるのです。
人は、際立ったことに飛びつきやすい。分かりやすいですから。でも医療には確立されてないことが多く、個人差も大きい。治るか治らないかに、希望と絶望の分かれ道があるわけではないと思います。
特にがん治療では完治をゴールにすると、達成しえないことがあります。「積極的な治療は困難です」と、医師が「よかれ」と思って伝えても「見捨てられた」と感じる患者もいる。完治以外の、自分らしい生活を送るという目標にシフトできたら、と思います。
私は抗がん剤を扱う会社に勤めていましたが、患者向けの情報が十分でなく、患者の利益にならないことも多くあると感じていました。基本的に医療は、科学的根拠に基づくもの。でも、患者はエモーション(感情)ベースで考えがちです。その真ん中にいて、わかりやすい言葉で伝えるのが今の仕事です。科学と感情のはざま、微妙に合意できる位置にくるようサポートするのです。よりハッピーで、あなたの状況に合った方法を選びましょう、と。白か黒かではなく、美しいグレーを目指して。(聞き手・辻外記子)
*やなぎさわあきひろ 65年生まれ。製薬会社に18年間勤務後、07年から現職。がんになっても生きがいが持てる社会を目指す。」(2013/06/12付「朝日新聞」p17より)
今日も買い物のついでに本屋に寄ったら、近藤誠氏の「医者に殺されない47の心得」や、中村仁一氏の「大往生したけりゃ医療とかかわるな」(ここ)や「どうせ死ぬなら「がん」がいい」が山積みされていた。常識とは逆のことを言うのが新刊書の定番だが、これらも非常に刺激的な題なので、人を引き付けるのだろう。
その近藤氏の考え方について、故柳原和子さんが論じている。
柳原和子さんのがんとの闘病については、何度かNHKのテレビで見たことがある。
それにしても、がんに罹ったとき、“『何をしても無駄』と話す医師と、『効果があると信じているからやる』と語る医師のどちらをとるのか。”という指摘は、何とも重たい・・・。
慶大の近藤誠医師については、まさに15年ほど前、慶大病院の地下の売店で「患者よ、がんと闘うな」を買ったときから知っているが、論としては分かるものの、自分が当事者だった場合はどうか・・・
近藤氏は、wikiによると、1973年に慶大医学部を主席で卒業。「1983年に、臨床同期で最も早く慶應義塾大学医学部専任講師に就任。しかし、1988年に慶應義塾大学専任講師の肩書きで論文「乳ガンは切らずに治る」を『文藝春秋』を発表して以降、昇格を絶たれる。」とある。
医療の標準を否定すれば、現場から白い目で見られて排除されることは常識。それなのに、来年(2014年)3月に定年を迎えるということなので、逆によく定年まで勤められた・・・。そして、定年後のための「近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来」を、今年既に開設したという(ここ)。
自分や家族ががんの当事者になったら、たぶん自分も色々な本を読んで七転八倒すると思うが、上の記事の最後の題、「完治しなくても美しいグレーを」という言葉がなぜかフィットした今日なのである。
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