知的障がい者の映画「くちづけ」は画期的な社会的メッセージ
知的障がい者たちの自立支援のためのグループホームを描いた、映画「くちづけ」(ここ)を見てきた。
このような映画が、一流のスタッフによって作られ、メジャーな映画館で上映され、そして多くの“健常者”が見て涙するとしたら、アベノミクスとかのお祭りで浮かれている日本も、まだまだ捨てたものではないな・・・と思った。(写真はクリックで拡大)
ストーリーをNetから引くと 「あらすじ:知的障害を持つ娘のマコ(貫地谷しほり)を、男手ひとつで育てる愛情いっぽん(竹中直人)は、かつては人気漫画家だったが休業し、すでに30年がたっている。知的障害者のためのグループホーム「ひまわり荘」で住み込みで働き始めたいっぽんと、そこで出会ったうーやん(宅間孝行)に心を開くようになったマコ。しかしそんなある日、いっぽんに病気が見つかる。」
この物語は、劇団のために書き下ろした作品がベースとなっているだけあって、「ひまわり荘」という知的障がい者のグループホームの中だけで展開されて行く。しかし凝縮された展開・・・。そしてこの映画は、2週間という短期間で撮影されたという。
ネタバレになるので、映画の内容は書かないが、スタートは左の赤い新聞記事から始まる。マコが死んだ・・・。そしてドラマは半年前から、そこに至る「ひまわり荘」の出来事を追っていく。
映画が終わって、隣のカミさんを見ると、目が真っ赤。さんざん泣いたという。切なくて・・・。聞くと、館内のあちこちで泣き声が聞こえたという。そして映画が終わった女子トイレは、泣き顔の修正で大変な混みようだったとか・・・!?
しかしこの映画は、通俗的な“お涙ちょうだい”の映画とは違う。観客は意図的な映画のストーリー展開によって泣くのではない。人の根源的な切なさに涙するのである・・・
カミさんが、「この映画はたぶん実話が元になっているはず」と言う。買ったパンフレットにそのことが書いてあった。
<原作・脚本:宅間孝行>
――『くちづけ』の物語の発想はどこから生まれたものですか?
もとは劇団〈東京セレソンデラックス〉のために書いた戯曲です。きっかけは、ずいぶん昔 に読んだ数十行の短い新聞記事で、・・(略)・・・それを読んで、50年近く見守って来たにも関わらず最後に悲劇的なことになってしまうとはなんて切ないことか、そのときの当事者の気持ちはいかばかりかと心の片隅に引っかかっていたんです。ただ、そのときはまだその事件を作品にしようとは思って
いませんでした。その後、知的障がいの方と触れ合う機会がありまして。僕の劇団の公演に、お父さんがグループホームを経営していて、アルバイトとしてその手伝いをしている女性が出演したんです。彼女からグループホームで生活している人たちは僕たちとまったく違うところがないと聞いて驚きを覚えました。
彼らは普通に働き、恋の話もする。ただ、例えば、数字の識別ができなくて電話をかけることができない人がいると。僕らだってこれはできるけれどあれは苦手ってことがあって、そういうことと同じなのかなと思いました。誰もが各々いいところも悪いところも持った同じ人間だというのに、へんに分けて考え過ぎているのではないだろうかって。そのとき昔読んだ新聞記事を思い出して、芝居として1本書いてみる気になったんです。
――書く上で気をつけたことはどこですか?
グループホームの住人たちの姿を特別視することなく、いいところも悪いところも描くことです。彼らを天使に例えることもありますが、決してそれだけではないんですよね。暴れるし、薬を飲んでないと情緒不安定になったりする。頼さんが痴漢騒動を起こしたり島チンが勝手によそのクリスマスツリーをもってきたりする場面がありますが、彼らと向き合っている人たちは、そういう問題に24時間、365日ずっと直面しているんです。そういうことをありのまま、事実として客観的に描きました。・・・・
そして監督が言う。
<監督:堤 幸彦>
――『くちづけ』を監督することになったいきさつを教えてください。
2010年に宅間孝行さんの舞台を見て、この社会的なメッセージをもった作品は、映画あるいはテレビドラマにしたほうがいいと宅間さんに話した記憶があります。そのときは私か監督をするという意味ではなく、広い意味での話でしたが、まわりまわって光栄にも私かやることになりました。監督するに当たりグループホームへ取材に行ったとき「親なき後」という言葉を聞きました。障がいのある子供をもった親はどう生きていいのかということは大変な問題です。障がい者といっても千差万別で、一言ではくくれませんが、当事者の思いや現実の過酷さが舞台『くちづけ』にはっきりと出ていたので、これは逃げずにやらなくてはいけないと、天命のようなものを感じて臨みました。・・・
そう。この映画の第一の特長は、「社会的なメッセージをもった作品」なのである。
当サイトで前に書いた記事ともリンクしている。例えば、知的障がい者が警察で尋問を受けると、怖くてやっていないことでも、やったと言うこと(ここ)、刑務所に入っている人の1/5が知的障がい者だということ(ここ)、ホームレスの3割は知的障がい者だということ(ここ)などが、セリフとして語られていた。よって、この映画の父親は、愛する娘を、自分がいなくなった後、刑務所や路上での生活など、冗談じゃない!と悩む・・・。
少しオーバー気味の竹中直人のこれらのセリフの場面は、鬼気迫るものがある。竹中直人自身がそれを訴えているように・・・。しかし現実問題として、一人では生きられない障がい者たちが、親が亡くなった後、ひとり残されてしまうのも、事実・・・。それを社会はどうするのか・・・。重いテーマを我々に突きつける。
そして兄に知的障害者を持つ妹(智ちゃん)が、結婚を破棄されてしまう場面も含めて、知的障害者の存在が社会の無理解によって家族に与える苦悩も、この映画は我々に突きつける。
前に石井筆子の映画「筆子 その愛」を見た(ここ)。市民会館の会議室で・・・。その映画と通じるものを感じたが、この映画の山田火砂子監督は、やはり知的障がいを持った娘さんがいる。つまり、この手の映画・ドラマは、いわゆる障害者の関係者でないと、意識がそっちに向かない。およそ他人事になってしまう。
この映画では、『はるかの同級生 南』さんの存在がそれを暗示する。彼女は「キモイ」という外野的な視点でグループホームの人たちを見ている。彼女のセリフが、まさに世の健常者からの視点・現実を如実に表現していた。(ちなみに“はるか”は、NHK朝ドラ「あまちゃん」のユイちゃんである)
繰り返すが、この手の作品のテーマは、いわゆる関係者以外ではおよそ他人事。それが、これらメジャーな映画として一般公開され、多くの人が見るということは画期的なこと。
これからこの映画がどれだけの評価を得られるか知らないが、この映画を通して、“人としての優しさ”を確認したいもの。
セリフでも、「知的障がい者はピュア」というのがあったが、我々は、彼らの“幼い純真な心”+“邪悪な心”を持っただけではないのかと思わされる映画であった。
ぜひ多くの人に見て欲しい映画である。
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