秋田の無投票知事~選挙って何だろう
今朝の朝日新聞の社説にこんな記事があった。
「無投票知事―選挙って何だろう
秋田県知事選で、現職の無投票当選が決まった。
1月には山形の知事も無投票で再選された。平成に入ってからそれまで、無投票の知事選は2例のみ。まさに異例である。
対立候補が出なければ有権者は選択の機会を奪われ、民主主義が機能しなくなる。ふつうの社説なら、こう警鐘を鳴らすところだろう。
だが、ここでは別の観点から選挙とは何かを考えたい。
秋田での無投票の直接の理由は、自民、公明、社民の各党が支持する佐竹敬久知事に対し、民主党が対立候補の擁立に失敗し、共産党も見送ったためだ。
ただ佐竹氏は、有権者にも対立を望まない空気があったとみる。再選後、こう語っている。
政治家は、選挙で無理やり対立の構図をつくり、現実味の乏しい公約を掲げがちだ。それでは政治や行政は停滞し、世の中は変わらないと、有権者は気がついてきた――。
実際、秋田では、非自民勢力が推す前知事の後半、県議会自民党は知事の提案を次々に拒否。子育て教育税の導入も地域振興局再編も実現せず、県政の停滞が続いた。
その末に、敵をつくらないのが持ち味の佐竹知事が誕生。1期目に住宅リフォームの助成など共産党の提案も採り入れ、同党の擁立見送りにつながった。
再び知事の発言に戻る。
高度成長期には、年々増える予算で「何かをやる」ために選挙で激しく争った。いまは「何かをやめる」選択にならざるをえない――。
少子高齢化と財政難の時代、選挙は意義を問われている。
できることは限られているのに、選挙で争うために、相手との違いを際立たせる。何かをやめるという難しい合意形成はさらに困難になり、「動かない政治」に有権者の不信が募る。
国政でも、そんな悪循環が繰り返されてきた。
選挙は大切だが、それだけで民主主義が機能するとは限らない。選挙の限界をどう補うか。問われているのはそこである。
その点で、無投票当選の知事たちの動向に注目したい。
有権者から信任を得る機会を逃したのだから、民意をくむ工夫を凝らさなければなるまい。情報公開を進め、公約の実施状況を明らかにし、対話の場を設けることが不可欠だ。責任転嫁する相手はおらず、議会を説得する努力や技量も問われる。
本来、すべての政治家が心すべきことが再認識されるとすれば、無投票当選もあながち捨てたものではない。」(2013/03/24付「朝日新聞」社説より)
普通の社説は、何かを主張するのに、この社説は“考えよう”というスタンスで面白い。
無投票当選をどう考えるか・・・。有権者にとっては清き一票を投じる機会が失われる。つまり、この社説が指摘しているように、有権者の信任を得ていない知事、ということになる。これはある意味、怖いこと。昔の松下電器の山下社長のように、「失敗したら私を選んだ人(=松下幸之助)にも責任がある」という、言い訳を言うことも出来ず・・・。
無投票当選は、昔の市町村議会で良く話を聞いた。事前に調整して、無投票を画策し、それ以外の候補者が出ると、あの手この手でその人を立候補しないように仕向ける。表面上は「無駄な費用の削減」とか言って・・・
よって無投票当選は、有権者をないがしろにした悪い印象しかない。しかし、・・・である。
地方自治体の長は、国会のような政党のぶつかり合いが本当に必要なのか、疑問。5年前に野党だった民主党が、日銀総裁候補をことごとく蹴ったのは、政治の停滞の好例。
しかしこの秋田が「・・・県政の停滞が続いた。 その末に、敵をつくらないのが持ち味の佐竹知事が誕生。・・・」とすると、今回の無投票当選は、県民の全員一致の推挙、とも見える。
国の政治もこんな形がもし出来れば、実に望ましいこと・・・。
しかし現実は、何の実績もないアベノミクスとやらに浮かれて、円安株高とか・・・。まさにバブルそのもの・・・。
国会議員も秋田を見習って、「政治家は、選挙で無理やり対立の構図をつくり、・・・」という従来型政治は卒業して、国民全員から推挙された無投票当選の政権、なんていうのが出来ると良いのだが・・・
おっと、初夢とは季節が違った・・・
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