「破綻行トップの死~スケープゴー卜の無念」
先日の「朝日新聞」「波聞風問(はもんふうもん)」で、こんな記事を目にした。曰く・・・
「破綻行トップの死 スケープゴー卜の無念
編集委員 原 真人
日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の窪田弘・元会長ほど不幸な役回りを引き受けた銀行トップはいない。過日無念のまま死去した氏に、申し訳ないと思った関係者はどれほど多かったろうか。かくいう私もその一人だ。1998年の日債銀破綻(はたん)を取材した新聞記者のはしくれとして。
大蔵省(現財務省)出身の窪田さんは93年、日債銀頭取になる。バブル時代の経営陣がつくった不良債権で経営が悪化し、同行は事実上、大蔵省の管理下にあった。頭取はいわば、国が派遣した公的管財人のようなものだった。
窪田さんは報酬まで返上して負の遺産の処理や大胆なリストラに本気で取り組んだ。その努力もむなしく、金融当局が不良債権処理ルールを突然変えたことで日債銀は破綻する。試合中のルール変更でいきなりレッドカードを突きつけられたのに等しかった。
99年、東京地検は日債銀経営陣を粉飾の罪に問う。予想外のルール変更。トップは実質管財人。犯罪と呼ぶのは、あまりに酷だった。
世論は銀行批判一色だった。検察もマスメディアも、危機でうずまく国民の不平や憎悪をそらそうと、責任をかぶせる「誰か」を探していたのではないか。窪田さんらはそのスケープゴートだった。
12年続いた裁判は一昨年、全員の逆転無罪が確定する。
この事件は何だったのか。金融関係者の一人は「社会的安定をもたらす効果はあったかもしれない」と言う。「国策捜査」が権威ある者を罪に問い、庶民は留飲を下げ、怒りが静まったというのだ。
対照的なのが、米国の金融危機だ。大量の失業や破産で多くの人が苦しんでいるのに銀行は公的資金で救われ、巨額の報酬をむさぼってきたトップらはだれも牢獄に入らない。怒りをつのらせた人々はついにウォール街を占拠した。そのエネルギーが生んだ大衆運動は大統領選にも影響し、金融規制を強化させた。
日本では一部の人が罪を背負うことで、なんとなく社会の平穏が保たれてきた。だがそれで危機の本質は結局つきつめられず、社会制度までふくめて真の原因をえぐり出そうと努めたこともなかった。
窪田さんから昔いただいた自著エッセー集を読み返し、こんな一文を見つけた。戦前の歴史学者、朝河貫一の主張である。「国のためなら正義に反してもいいという思想は永久の国害を論ずる人さえ、非愛国者にしてしまう。そして識者は世の憎悪をおそれる結果、国の大事についても公言することができなくなる」
危機や大事に際し、私たちメディアは真実を伝えてこられたのか。安易な道に逃げ込んでこなかったか。今も同じ過ちを繰り返してはいないか。窪田さんの「遺言」に接し、そう自問せざるをえない。」(2013/02/17付「朝日新聞」p7より)
正直言って、自分はこの窪田弘氏のことは知らない。いわゆる「日債銀事件」についても知らない。でもこの記事は、ある種の畏怖を持って読んだ。
「世論は銀行批判一色だった。検察もマスメディアも、危機でうずまく国民の不平や憎悪をそらそうと、責任をかぶせる「誰か」を探していたのではないか。窪田さんらはそのスケープゴートだった。・・・」
NHKが好きな経済ドラマでも、よくこんな場面がある。先日放送された“テレビ60年記念ドラマ「メイドインジャパン」”(ここ)も、そんな経済ドラマの一つだった。
しかしこの「日債銀事件」はドラマではない。本来は功成り名を遂げたであろう一人の元高級官僚が、たぶん“誰か”の意志で“いけにえ”にされ、被告として晩年の12年を過ごしたとなると、何とも心が痛む。いったい誰のための、何のための後半生だったのか・・・と。
しかしそれが、たった一人だったとしても、このような追悼の(?)記事が新聞に載ることは、良いことではないか・・・。それが生前、窪田弘氏がどのような評価に“戻って”いたのか、とは別に・・・。
日本だけでは無いのかも知れないが、この“世論”という軽薄なバケ物。その世論に対して、TVを初めとしたマスメディアが大きな影響力を持っていることは誰も疑わない。
一方、それに無警戒に踊る、いや踊らされる国民が怖い・・・。
最近、今の小選挙区制による振り子体制よりも、昔の55年体制の方が、バランスが取れていたように思えてきた。もちろんたくさん良い面もある日本人の国民性。せめて「品位」や「良識」の面で、他の国よりもマシならば良いのだけど・・・・・・ね。
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