« 「喧嘩をしましたか?」 | トップページ | 童謡「落葉の踊り」 »

2012年12月10日 (月)

「真珠湾攻撃、遅れた最後通告~大使館怠り説を覆す?外務省の故意か」

太平洋戦争の宣戦布告遅延について、wikiにはこうある。
「アメリカ東部時間午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒を手交した。
この文書は、本来なら攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ手交する予定であったのだが、駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官(2人ともその後外務事務次官を務めた)らが翻訳およびタイピングの準備に手間取り、結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後となってしまった。その為に、「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」とのアメリカのプロパガンダに使われることとなった。」

この話はもはや定説になっているが、この説がくつがえるかも知れない・・・という。先日の日経新聞に、実は遅らせたのは外務省の故意で、その事実を隠していたという・・・。なかなか興味深い話なので、長いが読んでみよう。

大使館怠り説 覆す?新事実
 
 真珠湾攻撃-間に合わなかった最後通告
   通信記録を九大教授が発見
    修正指示は半日後 外務省の故意か

 1941年12月8日の日米開戦をめぐる新事実が明らかになった。最後通告の手直しが遅れ、米国に「だまし討ち」と非難された問題で、修正を指示する日本から大使館への電報が半日以上を経て発信されていたことを示す傍受記録が米国で見つかった。これまで不明だった発信時刻が判明。「在ワシントン大使館の職務怠慢による遅れ」とする通説に一石を投じそうだ。

 米メリーランド州にある米国立公文書記録管理局で9月末、記録を発見したのは九州大学の三輪宗弘教授。外務省が東京中央電信局からワシントンの大使館に向けた電報の発信時刻や、米海軍がそれを傍受した時刻などを記録した資料だ。
 開戦直前に外務省が大使館に送った公電は901号に始まり、911号まである。中核となる電報は902号で、米政府が戦争回避のための条件を日本に突きつけた文書、いわゆるハル・ノートに対し、これ以上の交渉を打ち切るとした覚書がその中身である。それ以外の電報は、誤字訂正や暗号解読機の破壊を命じた訓電などだ。
誤字など175カ所
 902号電報は長文のため14部に分かれ、第1部から第13部までほぼ予定通りの時刻に121210saigotuukoku 発信された。しかし、12月7日午前1時(日本時間)までに発信するはずの14部は15時間以上遅延した。
 しかも902号電報には多くの誤字脱字があり、外務省は175カ所に及ぶ誤字などの訂正を903号、906号の2通に分けて大使館に送信した。
 外務省は戦後に、この2通の原本を紛失したとして、発信時刻に関して謎が残ったままだったが、三輪教授が今回の調査で2通の発信時刻を突き止めた。前に送った電報に誤りなどがあれば直ちに訂正電報を打つのが通例だが、調査結果によって、2通の発信時刻は前の電報(902号第13部)から十数時間後と大幅に時間がたっていることがわかった。
 当時は文書の清書にタイプライターを使っていた。ワープロと違って、字句の修正や挿入、削除があると最初から打ち直さなければならない。つまり訂正電報が届かない限り、大使館は通告文書を清書できないが、この2通の遅れが、最終的に米政府に通告文書を手交する時刻が遅れる大きな要因となった。
 なぜ2通は遅れたのか。訂正電報2通の発見は、通告遅延の真相解明に大きな意味を持つが、三輪教授は「発信の大幅遅れは、陸軍参謀本部のみならず外務省も関与していたことを示す証拠」と語り、外務省が故意に電報を遅延させた可能性が高いという。
 元外務官僚で退官後に東海大学などで近現代史を教えた井口武夫氏は、こうした問題を長年にわたり追究、戦後の極東軍事裁判での証言、関係者の手記などを基に902号第14部の遅延は陸軍参謀本部が関与、これに外務省が協力した結果と推定している。今回、見つかった新資料はそれを補完するものとなる。
 米国の通信会社が、日本からの暗号化したこれら電報を大使館に届けたのは7日午前9時前後(米国東部時間)とみられ、大使館が暗号を解読してタイプで清書、コーデル・ハル国務長官の手に渡ったのは真珠湾攻撃が始まった後の7日午後2時20分(同)だった。
 遅くとも真珠湾攻撃の30分前と設定していた最後通告が攻撃の後になったのは、大使館の怠慢によるとされてきた。米国で客死した大佐の葬儀に大使が参列しミサが長引いたほか、届かない公電を待ちくたびれて帰宅、翌朝になって出勤したため、米政府に手交する通告文書作成が遅延したというものだ。
 が、井口氏はそれを否定。「真実を歪曲(わいきょく)した開戦物語が一人歩きして国民に誤った印象を与えている」と指摘する。
奇襲成功“支援”
 近年の研究によって様々な事実も明らかになっている。開戦直前の緊迫した状況だったにもかかわらず、大使館宛てのこれらの訓電の「至急」の指定が取り消され、「大至急」を「至急」に引き下げたものがあった。
 また、大佐の葬儀も、遅延には無関係だったことが長崎純心大学の塩崎弘明教授の研究によって明らかになった。
 さらに今回とは別に、三輪教授は国立公文書館で「A級裁判参考資料 真珠湾攻撃と日米交渉打切り通告との関係」を発見している。通告文の遅れを在米大使館に責任転嫁するとした弁護方針を記した資料だ。目的は東郷茂徳外相が重い罰を科されないようにするためとされる。
 今回の資料発見について、塩崎教授は「真珠湾の奇襲を成功させるため意図的に電報を遅らせたことがこれで明らかになった。打電時間についての新資料自体は細かなことだが、正確な歴史認識を得るためには、こうした史実を丁寧に掘り起こしていく必要がある」と語る。
 また、東京大学の渡辺昭夫名誉教授は「通告の前に攻撃が始まったという問題の本質は(新資料によっても)変わらないと思うが、隠されていた事実を明らかにし、政策決定における問題を追究するのは学問的に意味がある」と評している。(編集委員 松岡資明、西部支社 郷原信之)」(2012/12/08付「日経新聞」p44より)

我々一般ピープルはこう思う。通告が1時間遅れたのなら、あと1時間早く電報が届いていれば間に合ったのでは??と。
しかし外務省と陸軍が、意図的に電報を遅らせたのだとすれば、通告が開戦後になってしまう可能性をどう見ていたのか?? 奇襲を成功させるため、最後通告が遅れても仕方が無いと判断していたのだろうか??
普通考えると、本国と在米大使館との信頼関係が無かった、とも見える。もし両者に信頼関係があれば、余裕をもって打電しておき、大使館に米側への最後通告を持って行く時刻を指定しておけば済む話。
もし米軍が傍受しているかも知れない・・・と予想していたのなら、13部を先に打電したことが解せない。結果として、米側には奇襲作戦の情報は筒抜けで、大統領はそれを認識していたのだから・・・・

しかし戦後処理の過程で、「外務省は戦後に、この2通の原本を紛失したとして、発信時刻に関して謎が残ったままだったが」とか「通告文の遅れを在米大使館に責任転嫁するとした弁護方針を記した資料だ。目的は東郷茂徳外相が重い罰を科されないようにするためとされる。」という件(くだり)は、いつの時代でも繰り返される権力者(役所)の論理。

そして先のwikiの「井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官(2人ともその後外務事務次官を務めた)」という記述は、二人が遅れの責任を問われるどころか、甘んじて責任の転嫁を受け入れたことに対する論功行賞そのもの??

大将を助けるために、部下は犠牲になる。まあ戦(いくさ)とはそんなもの。しかし戦争が終わった後の、これら歴史的事実の歪曲は、国民はどう捉えたら良いのか・・・。先の記事では、戦後の裁判でこの“物語”が作られたらしいが、戦争中は“宣戦布告の通告遅れ”という情報は、どのように国民に流布されていたのだろう。アメリカでは大問題化していたが(プロパガンダ)、日本では無視?? しかし、怖いことだ・・・・。まあ大本営・・・だけど・・

何事も真実を知るためには反面調査が有用。しかしアメリカ国立公文書記録管理局の史料の発掘には、大変な苦労が伴うという。
でも今回の発見が、なぜ新聞の“文化”欄か?? トップニュースで報じてこそ、世間の見方が変わるのに・・・。それとも、“そっとしておきたい”というエネルギーが、今もあるのかな??

121210youdou <付録>「ボケて(bokete)」より


« 「喧嘩をしましたか?」 | トップページ | 童謡「落葉の踊り」 »

コメント

関係した事務官が次官までなったと聞いていたが、納得。それに比べて杉原千畝は石もて追われた。いまでも官僚無誤謬がまかり通っている。三権分立というがもたれあいの構造がある。大飯原発の裁判官は左遷され、新たに最高裁から判事を送り込んでひっくり返した。現政権になってより露骨になった。

【エムズの片割れより】
ホントウにそうですね。

投稿: 田野畑 耕三 | 2016年1月11日 (月) 21:08

興味深い記事ありがとうございました。
これが真実とすると、宣戦布告の遅れは軍部と外務省幹部が意図したことであり、真珠湾攻撃は「卑怯な奇襲」を日本政府が意図したものだった事になりますね。(米国が暗号解読していたのだから、なおさらに当時の首脳部の国際感覚の欠如と無能さを浮き彫りにします)
戦後の復興期の日本国民にとっては、こんな真実より大使館員の怠慢のせいにしておいた方がハッピーだったかもしれません。(外務省の事情に詳しかったはずの吉田首相が大使館員を昇格させたのも、そんな事情なのでしょうか)

【エムズの片割れより】
権力と隠蔽。
いつの時代もイヤですね。

投稿: 武田Vikke | 2020年5月19日 (火) 22:17

私もこの問題には興味があったので、柴山哲也「真珠湾の真実ーー歴史修正主義は何を隠したか」(平凡社新書、2015年11月13日初版第1刷)や堀田江里「1941--決意なき開戦」(人文書院2016年6月15日初版第1刷)を読みました。とくに柴山本の第3章「宣戦布告」の遅れは作為だったのか」はこの問題を取り上げています。2012/2/8の日経新聞の三輪宗弘教授の調査の報道よりあとに出版された本なので、当然ながら、三輪教授の調査に触れていることはむろんのこと、その後の学界の研究成果を踏まえたうえで書かれています。戦後70年以上経ったいまでも、まだまだ分からないことや謎があるようです。

・通告が遅れたのは、14部に分けて送られた「対米覚書」の最後の第14部の到着が15時間も遅れたことが主たる原因で、大使館員の怠慢やミスはあったとしても小さいというのが今では通説でしょう。では、なぜ遅れたのか?いろいろ読んでもいまいちはっきりしません。
・軍部はできるだけ事前通告を避け、むしろ事後通告を画策していたこと。参謀本部は12月1日以降の外国電報は防諜のため最低5時間、12月6日には5時間ないし10時間遅らせるよう逓信省に指示していた。日本軍機動部隊がハワイに向かっていた時期だからでしょう。
・この時期アメリカのルーズベルト大統領から天皇宛ての親書が届いており、これを読んだ外務省(東郷外務大臣等)が当初の宣戦布告文書を書き換える必要があったので、書き換えに手間取ってしまったのかもしれない。

・13部までの「対米覚書」の内容というのはこれまでの日米交渉の経緯を縷々述べたもので、これを読んだ在米日本大使館の野村大使・大使館員は宣戦布告文書とは思わなかったといわれる。最後の、遅れに遅れた第14部ですら、結論部分は、「・・・帝国政府ハ茲ニ合衆国ノ態度ニ鑑ミ、今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニ達スルヲ得スト認ムルノ外ナキ旨ヲ合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ」と、明確な宣戦布告文書ではなく、交渉継続打ち切りの文章にすぎないのです。事務方のトップをつとめた井口参事官も「対米通告が宣戦布告だとは思わなかった」旨のメモを添えた文書を日米開戦後の1942年に交換船で帰国したとき外務省に提出したらしいが、所在不明になっているようです。いずれにせよ、パールハーバーへ奇襲攻撃があるとは、在米大使館は大使をふくめて誰も知らなかっただけでなく、日本にいた東郷外務大臣すら知らされていなかった。したがって、日本からの外交暗号電報を傍受・解読していたルーズベルト大統領やハル国務長官は開戦の予想はしていたが、パールハーバーが攻撃されるとはまったく予想していなかったというのが真実です。

・「ルーズベルト大統領は翌12/8(ワシントン時間)の議会で、「日本の航空部隊が攻撃を開始した1時間後、日本の大使と彼の同僚が、国務長官に最近のアメリカからのメッセージに対する正式な返答を持ってきた。その返答には、これ以上外交交渉を継続するのが無駄だという見解が述べられていたが、戦争や武力攻撃の示唆はまったく含まれていなかった」と演説し、「交渉していると見せかけ奇襲攻撃をした卑劣な日本」と非難した。外交交渉打ち切りの通告(日本が「最後通告」としているもの)が攻撃開始以前に行われたとしても、奇襲あるいはだまし討ちの要素をぬぐい切れなかったでしょう。一番の問題は、柴山哲也氏や堀田江里氏が主張しているように、「宣戦布告」をしなかったことにあったと思う。宣戦布告とは、事前に宣戦布告だとはっきりわかる通告を相手国にすることだからだ(ハーグ条約)。

・実は、宣戦布告文書の原稿が存在していた。この文書の結論部分は「本使は日本政府の命令により、閣下に対して次のとおり通報する光栄を有します。米国により取られた敵対的措置は、日本の安全と生存に重大な脅威を与えたので、日本として自衛の手段に訴えることを余儀なくされるに至ったので、今や日米両国の間に戦争状態が存在することを閣下に通告いたします。また、本使は、国交断絶に関する日本政府の見解をしめしたステートメント一通を閣下に手交するよう、併せて訓令されました。・・・・」とあり、これなら疑いの余地なく、「宣戦布告文書」であった。なぜ、これが使われずに、「対米覚書」が採用されたのだろうか、謎が残る。

・それから、もう一つ。柴山氏が主張していることだが、なぜ当時の日本政府と外務省は複雑な迷路をくぐりながら、「宣戦布告」を行ったのか?宣戦布告は相手国の国務省に提出しなければならないという規定があるわけではない。東郷大臣が駐日米国大使のグルーに真珠湾攻撃の1時間前に外務省に呼んで宣戦布告文書を渡していればこの問題が今に至るまで繰り返し語られることはなかったろう、と。

投稿: KeiichiKoda | 2020年6月21日 (日) 13:21

訂正と追記。
第4パラ「日米交渉の刑を縷々述べた」⇒「日米交渉の経緯を縷々述べた」
第5パラ「ルーズベルト大統領の翌2/8(アメリカ時間)の議会で」⇒「ルーズベルト大統領は翌12/8(ワシントン時間)の議会で」
と直してください。
ついでですので、いくつか追加コメント。2015/12/8のBSフジのプライムニュースで「日米開戦と通告遅延を再考する」と題する、秦郁彦、柴山哲也、三浦瑠璃の3氏をゲストに迎えての討論があり、反町キャスターからの「13部からなる「対米覚書」の部分は何のためにあったのか」という質問に現代史家の秦さんは「やたら前置きの長いスピーチをする人がいるが、それと同じで、趣味だろうということになっている」と言っていました(笑)。
エムズさんは「本国と在米大使館との信頼関係がなかった」と書いておられるが、むしろ「軍部と内閣とくに外務省との信頼関係」の問題でしょう。「そもそも、真珠湾攻撃は外務省には知らされておらず、外交電報には真珠湾攻撃を示す表現が出現するはずがない」のですから(筒井清忠編「昭和史講義ー最新研究で見る戦争への道」(ちくま新書の243ページ))。したがって、エムズさんのコメント「・・結果として米側には奇襲作戦の情報は筒抜けで、大統領はそれを認識していたのだから・・・」はあり得ないことになります。筒抜けだったのは、日本からの外交電報で、上述のように外交電報にはハワイの奇襲作戦のことは一切出てこない。日本の機動部隊は無線封止を実施し、船舶の往来の少ない北側の航路を通ってハワイに向かったのです。

投稿: KeiichiKoda | 2020年6月23日 (火) 09:51

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 「喧嘩をしましたか?」 | トップページ | 童謡「落葉の踊り」 »