「敗戦の非を認めぬ監督」
ロンドン・オリンピックで、女子サッカーに続いて男子サッカーも第一戦で勝った。テレビのニュースでインタビューの場面を見ていても、男女とも“勝つぞ!”という執念が伝わって来るのが頼もしい。
先日の日経新聞の「フットボールの源泉」というコラムにこんな記事があった。曰く・・・
「敗戦の非を認めぬ監督
たった1ヵ月の滞在で決めつけてはいけないのかもしれないが、ウクライナ人はそう簡単に謝らない。
欧州選手権の取材中、ドネツク空港でこんなことかあった。乗客を航空機に運ぶバスが途中で立ち往生した。どこを目指すべきかが分からなかったらしく、結局、ターミナルに引き返した。
キエフ行きの飛行機は実は隣のゲートにつながっていた。普通なら航空会社の者がわびるところだろう。しかし、係の女性は頭を下げるどころか、この失態にひるみもせず、照れ笑いもしなかった。無表情のまま「こちらです」と促した。
ソ連の崩壊に伴う独立からまだ20年余り。人々が自分の非を簡単に認めないのは、旧体制下の社会の影響なのだろうか。ウクライナの1次リーグ敗退が決まった直後のブロヒン監督の態度も、そのなごりの一部なのかもしれない。
監督は敗退した責任については一切、言及しなかった。それどころか、地元記者による「きょうの試合の最後の30分は走れていない選手がいた」などの指摘でキレた。
「選手経験のある私に敬意を示したらどうなんだ。あなたはプレーしたことがあるのか?」「男だったら表に出ろ。一対一で相手をするから」。この恫喝(どうかつ)するような態度は醜くもあり、西欧のメディアに批判もされた。
日本人監督だったら、こんな問答に至る前に「期待に応えられず、申し訳ありません」と口にしていたのではないだろうか。ウクライナに限らず欧米ではよくあることだが、非を認めたら、立場はどんどん悪くなり、再起不能に追い込まれる危険がある。日本の指導者や選手が敗戦後に責任を口にし、安易に頭を下げてしまうのは、それでも、しばらくすれば許される社会だからなのかもしれない。(吉田誠一)」(2012/07/17付「日経新聞」p32より)
スポーツは結果が全て。先の大リーグ松井の戦力外通告も、冷徹な結果に対するジャッジ。
一方、この記事を読むと、この監督は怖さを恫喝する事によって逃げていることが、良く分かる。
人間に限らず、動物は怖い物に対しては、過激に反応する。ウチの愛犬・メイ子も、散歩ですれ違うイヌたちに吠える。ケンカを売る。つまりは怖いのである。
さて今回のオリンピック。多くの期待を受けながら、なかなか結果を出せない人も多く出るだろう。
でも先の松井の宣告を受けた時の言葉、「・・・プレーする機会を与えてくれたことに感謝していたし、期待通り結果を残せなかったことを残念がっていた」(ここ)のように、日本人は例え負けてもオトナのコメントをするのだろう。
おっと、オリンピックはこれから開会式・・・。敗戦の弁よりも勝利の言葉の話をするべきだった・・・。
●メモ:カウント~315万
| 0
コメント