「死ぬ時節には死ぬがよく候」
雑誌「大法輪」を読んでいたら、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」という言葉を見付けた。この言葉、どこかで聞いたことがある言葉だが、良寛さんの言葉だという。この雑誌の本文を少し読んでみよう。
「禅僧の老いと死
作家・日本歴史宗教研究所所長 武田鏡村
老いることは、病むことである。
病むことは、また老いることである。
そして、老いと病いの向こうには、死が厳然としてある。
この厳粛な事実に対して、禅僧たちはどのように立ち向かったのであろう。
◆良寛の死を見つめる眼差し
まず江戸後期の大愚(だいぐ)良寛は、老いと死をどうとらえたのであろうか。
壮年の作と思われる「無常信(まことに)迅速」と書き出す長詩がある。その趣旨は、
「一朝、病に就いて臥(ふ)さば、枕裳(ちんきん)、長く離れることなし」
「一息(いっそく)、わずかに截断(せつだん)すれば、六根、共に依(よ)るなし」
「冥々(めいめい)たり、黄泉(こうせん)の路、茫々として、且(かつ)、独り之(ゆ)く」
と、人間がかかえる無常をよんでいる。
良寛は、あくまでも釈尊と同じく、病いと死は避けることができないという事実に立って、人生を直視して自覚的に歩めと唱える。
だが、死を直視せよとはいっても、死の恐怖や、死後の世界にはひと言もふれない。それは釈尊も語ることはなかったもので、いたずらに死と死後の不安に脅えるのではなく、その不安を生に転化して充実して最期まで生きることを勧める。
良寛は死の事実は語っても、そこに留まらない。
「過去は已(すで)に過ぎ去り、未来は尚未だ来たらず。現在復住(またとどま)らず、 展転(てんでん)して相依る無し」
とうたう良寛にとって、よるべき所なく展転とする“現在”、すなわち、あるがままの“今”を生きることが、何よりも大切であると考えている。
有名な「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」という言葉は、災難や死に直面しても、それから逃げずに、それを直視して受けとめる。それが死を乗りこえる「妙法」である、と死に立ち向かう良寛の姿を明らかにしている。
良寛の晩年は、やはり病気との闘いであった。良寛は、症状に応じた民間療法などで養生している。また下痢に悩まされながらも、その症状を的確に書いている。日々に衰弱していく自分を自覚しながらも、看病する弟子の貞心尼と歌をよみあう。
そして、
「うらを見せ、おもてを見せて、ちるもみぢ」
とよんだという。これは自作ではないというが、表裏・生死・美醜・善悪など二元対立するものから、つねに自由になろうとする禅法を体得した良寛ならではの句である。
・・・・・」(雑誌「大法輪」2012年3月号p69より)
なぜか「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」という言葉が心に沁みる。
結局、そうなのだと思う。あくまで自然体・・。つまり、生き物が死ぬ確率は100%。よって、その順番が来たら、ガタガタ言うのではなく、そのまま受入よ・・・。単に生きている時間がちょこっと多いか少ないか・・・ではないか・・・。そりゃそうだ・・・けども・・・・
そんな心境になるためには、いったいどんな修行をしたら良いのだろう?否、修行の話ではなく、心構えの問題?しかしこの自然体は驚異・・・。
確かに自然体で、災難もあるがままに受け入れ、そして粛々と死んで行きたい。それが多くの人の希望。それが出来ないから誰も苦しむ・・・。
ふと、認知症になると死の恐怖からも逃れ、自然体で死ねるのでは・・・?と思ったり・・。いや、かえって悩みが無くなり、ストレスが無いために長生きしてしまう?
そして話は原点に戻ってくる。つまり生きるとは何だ? 単に動物的に生きているだけでも価値があるのか? 社会的に死んでいるのに動物的に生きていることに価値が・・・
ではどうする・・・・。果てのない、結論のない話ではある。
でもこの「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候」という言葉。何度か口にしていると、心が穏やかになってくるような気がする。開き直ると心が平安になる!?
しばらく、この言葉を噛み締めてみようと思う。
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コメント
ほんとうにそのとうりな、心に沁みる言葉です。 良い文章を出していただき、ありがとうございます。
【エムズの片割れより】
なかなか味わいがありますよね。
投稿: キンコンカン | 2012年3月 2日 (金) 23:08
皮肉っぽい見方をすると・・・
ちょっと気障にも聞こえますね(笑)
良寛さん、そのように冷静に、クールに受け止められたかな?
説法では素敵な響きですね。
それに比べ
「うらを見せ、おもてを見せて、ちるもみぢ」
この句はとてもいいです。
私は気にいりました。
すみません!
【エムズの片割れより】
ま、色々な見方があるようで・・・。でも自分は素直に捉えたいですね。その方が純で気分が良いので・・・
投稿: 小父さん | 2012年3月 2日 (金) 23:57
寺で修業して、住職になれる資格を取ったけど、旅に出て、地元に帰ってきたけど住職にならずに、小さな庵に住んで托鉢生活で、子供と遊んで気ままに暮らした。良寛に対する私の印象は、そんな感じです。白い目で見る人もいたとか。托鉢に行って水をかけられた家に、平気で次の日も行ったというのは良寛の逸話だったような。
執着捨てる厳しい修業をして、良寛なりの結論が、そういう生活なのかなあ、と思っています。寺で修業時代に、頭が悪くて経も読まずに農作業ばかりしていた一人の修業僧がいて、みな馬鹿にしていたけど、あれが正しい姿かも知れないと後で思った、というのも良寛だったかも。
生を望まず、死を望まず、願いなく、死の到来を待つ、という言葉が経典にあります。そんな修業の果てに、自分なら何を見るだろうか、と考えることがあります。
【エムズの片割れより】
自分は不勉強で、良寛さんのことはほとんど何も知りません。自由人?という印象は持っていますが・・・
投稿: たかはし | 2012年3月 3日 (土) 18:28
ちなみに、私は津波被災者です。家は全壊認定でしたが幸運にも死者は出ませんでした。避難所にいたときに良寛のその言葉を思い出しました。でも、ここでそんなこと言ったら、避難所から追い出されるかもしれない、と思いました。被災者がその言葉の意味を冷静に考えることができる日が来るだろうか、なんて思います。
【エムズの片割れより】
人間、平穏時に思う事とと、非常時に思う事は違ってきますよね。先日、がん宣告をされたら、身辺整理どころではない、というコメントを貰い、その通りだと思いました。
投稿: たかはし | 2012年3月 3日 (土) 18:48