藤山一郎と島田祐子の「平城山(ならやま)」
自分がよく聞くいわゆる名曲は、ほとんど紹介し終わったと思っていたが、「平城山」が抜けていた・・・。
まずは、自分が高校2年の時(48年前)に買ったレコードから、藤山一郎の歌で聞いてみよう。(もちろん音は悪いが・・・⇒CD音源に交換)
<藤山一郎の「平城山」>
「平城山(ならやま)」
作詞:北見志保子
作曲:平井康三郎
人恋ふは 悲しきものと
平城山に
もとほり来つつ
堪えがたかりき古へも夫に恋ひつつ
越へしとふ
平城山の路に
涙おとしぬ
名歌曲「平城山(ならやま)」は、北見志保子の作詞、平井康三郎の作曲による。昭和9年に短歌が生まれ、翌年に作曲されたという。
自分の歌詞オンチ(歌詞の意味を味わわないで聞くこと)は、歌謡曲だけでなく、こんな名曲も同じだ。どんな意味か分からぬまま聞いていた。この際、少し“勉強”しようと思ったが、その解説を記したサイトは少ない。しかし見付けた・・・。(ここ)を読むと、その全てが分かる。
それによると、
「歌の意味は 「人を恋することは哀しいものです。平城山にさ迷ってきましたが、やはり堪えがたいものです。昔にも夫を恋しいと思いながら平城山を越えてきた女性がいました。その平城山の道に私も涙を落としてしまいました」ということです。」 (ここより)
*「広辞苑」より=もとお・る【回る・廻る】モトホル めぐる。まわる。徘徊する。古事記中「い這ひ―・り」
先のサイト(ここ)を読むと、この歌の背後には、人間“北見志保子”の人生が息づいているので面白い。決して望まぬ結婚ではなかったが、夫の元に通ってくる12歳年下の慶応大の学生と良い仲となり、結局夫とは大正11年に協議離婚。その時の夫の歌が「かりそめにちぎりしことと思はねど去りゆく心つなぐすべなし」・・。何とも可哀想・・・
ところが学生の父親がフランスへ留学させてしまった・・・・。
その後、大正14年にフランスから帰ったその学生と結婚するのだが、この歌は遠い外国の恋人を想って作られたのだろうか?
同じく(ここ)によると、こうある。
「『土佐史談』という本に出ている「北見志保子の平城山」という記事である。この歌が作られた年月日や場所、初出の歌誌まで突きとめられている。橋田氏はそれは昭和9年11月11日のことだと推定している。」
つまり、時期的には恋人に去られた傷心の大正末期の時期と、作られた昭和9年の時期とが合わないのだが、名曲の背景に、このような恋物語があったと思うと、何とも情熱的で楽しい。(自分はてっきり、万葉集とは言わないまでも、昔の何かの“読み人知らず”の歌集から採ったものだとばかり思っていた)
最後に口直し(失礼!)に、良い音でもう一度聞いてみよう。自分の持っている音源13曲の内で、一番心に沁みる歌唱である。
<島田祐子の「平城山」>
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コメント
歌人として知られるようになった北見志保子が戦後初めて帰郷したとき、故郷の人々は温かく迎える雰囲気ではなかったようです。
山川よ野よあたたかきふるさとよ こゑあげて泣かむ 長かりしかな
女性が絆を破り、恋に沈んで浮名を流されるということは、そのころはなおさら波瀾のことだったのでは、と思います。
いのち死なむと心決めし日も ふるさとの山川ありて つひに止みしを
小生母校が二つありますが、どちらの校歌も平井康三郎が作曲しています。
【エムズの片割れより】
確かに大正時代に、夫や子供を棄てて、一回りも年下の男に走る妻は、大変だったでしょうね。
しかし校歌が平井康三郎の作曲とは羨ましいですね。
投稿: 植松樹美 | 2012年2月 7日 (火) 09:24