「自分も○、相手も○」~「よっぽどの縁があってのあなたと私」(3/3)
雑誌「大法輪」の2011年12月号に、「よっぽどの縁があってのあなたと私」という記事があった。今日はその3回目。
「よっぽどの縁があってのあなたと私(3/3)
奈良・薬師寺執事 大谷徹奘
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■自分も○、相手も○
まだ十九歳の時だったと思うのだが、他人ばかりの集団に一人送り出されることがあった。その時、師匠から「他人ばかりの社会に行けば、時として、自分が欲しくない言葉も貰わなければならない事もある。その時、言葉だけを聞けばケンカになるぞ。嫌な言葉に接したら、言葉はハエや蚊のように勝手にその辺を飛んでいるのではない、必ず言葉には言葉を発した人の人格がそこについているんだと思え。その時、言葉だけにすぐ反応するのではなく、また、自分の正当性だけで理解するのでもなく、この人の言おうとしていることは何なんだ、とちょっとでいいから考える間を持てば、今まで自分が持っていなかった新しい価値観を手に入れられる」
と、教えていただいていたのだが、多くの人々とぶつかって、もがき苦しんだ今頃になって、その師匠の教えを思い出して“なるほど、師匠の言うとおりだった”と首肯(しゅこう)している自分が、なんとも情けない。
人間の行動の中で、難しいものの一つに、間違いなく「人を素直に受け入れること」があると思う。でも、苦手、苦手と逃げていても、決して相手は受け入れられない。では、どうしたら良いのだろうか。これも、また修行の中の難題の一つであった。実は、この答えを出すのにはずいぶん苦労した。しかし、正に人とぶつかって相手どころか自分の人生をも恨んでいる時に、仏様の手が差し伸べられたのだ。お経を読んでいたら、数えきれない文字の中から、「歓宿縁」というたった三文字が光って見えたのだ。宿っている縁を歓べと、仏様はおっしゃった。
しかし、迷いに迷っている時に「歓べ」と言われても、どうやって歓べばいいのであろうか。それがわからぬ私は「歓べませんよ」と、それこそケンカ腰で仏様に言い返した。仏様にも、批判の言葉を投げつけていた。「自分は○、仏様は×」だった。迷いは一層深くなった。
そんな仏様との対話を繰り返している時、今度は別の経文が光って見えた。それが、「百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)」という七文字だった。それこそ僧侶となる以前から数えたら、何千回とお唱えして来た言葉だ。
今度は、仏様は私に、お前に与えられている縁は、それこそ確率はゼロに近いものなんだぞ、それが与えられたんだ。よく考えろ、すべての出会いは“たまたま”でも“偶然”でもないんだ、と教えて下さった。
この二つの言葉が私の中で融合して、一つの言葉が生まれた。それが、「よっぽどの縁があってのあなたと私」だった。
この考え方を身に付けた時からだ、少しずつ自分が変化しだしたのは。
何を見ても、何を聞いても、誰と出会っても、よっぽどでなかったら出会わないよなあと、相手を歓んで受け入れることができるようになってきた。そしてそう思うと、自分だけを通さずにお互いに笑える方法がきっとあるはずだと、自己主張よりも出会いのすごさを優先することを考えるようになった。思わず今まで相手に、自分のものさしだけ正しいと、否定と批判だけを繰り返した自分がバカらしく思え、思わずニガ笑いが出た。
しかし、いくら気づきがあったからとしても、総論と各論は別物である。理屈はわかっても、実践はなかなかうまくはいかない。それが現実だ。
これを身につける為に、日々繰り返して行くしかない。般若心経に説き示される、「行深(ぎょうじん)」である。行で深めること以外にはない。
教えに随って少しずつ少しずつ自分を訓練してきた。遅々たる進みではあったが、重ねれば重ねるほどに自分が変わってきた。
そのおかげで「自分は○、相手は×」が「自分も○、相手も○」となって来たのだ。
時として、「自分は×、相手は○」という、自分を滅私するという手法、つまりガマンをすればいいと思う時があるが、私はできるだけそれは避けてきた。ガマンはストレスを溜めるだけだからだ。だから、相手にもガマンはさせない、その為に、相手と真正面からぶつかって、とことん話をすればいいと思っている。話もしないで“わかってくれ”“わかってくれるはず”は、それは自分のものさしの振り回しで、誰も幸せにはならない。
よっぽどの縁があって出会えたのだから、自分以外はダメと敵対心を持ってぶつかるのではなく、相手の人にも心や価値観があるのだと好意を持ってぶつかればよいと思っている。
そして今は「自分も○、相手も○」をさらにバージョンアップさせて、「自分+相手で◎」となるように心掛けている。」(雑誌「大法輪」(2011年21月号p25より)
ウ~ン。なかなか“手厳しい”・・・・。
今日、会社でちょっとした出来事があった。その時の自分の反応が、まさに「総論と各論は別物である。理屈はわかっても、実践はなかなかうまくはいかない。それが現実だ。」であった。つまり、相手に言われた事は、相手にも理がありそう・・・。でも感情の自分はそれを受け入れたくない・・・。よって面白くない・・・。そこに感情の塊の自分が居た。
前回(=前2/3回)も取り上げたが、D.カーネギーの「人を動かす」(ここ)。ここにある言葉で表現すると・・・
「死ぬまで他人に恨まれたい方は、人を辛辣に批評してさえしておればよろしい。その批評が当たっておればおるほど、効果はてきめんだ」(P17)
不愉快になるという事は、相手の指摘が当たっている?? だから相手を恨みたくなる?? フン、それが今日の未熟な自分なのさ・・・。
そして、その背景はまさに・・・
「およそ人を扱う場合には、相手を論理の動物だと思ってはならない。相手は感情の動物であり、しかも偏見に満ち、自尊心と虚栄心によって行動するという事を、良く心得ておかねばならない」(P17)
そうさ、自分は感情の動物さ・・・。
話は変わるが、先日昔ビデオで撮った絵を、DVDに落とした(ここ)。
昔の映像を見て、カミさんから言われた。「昔の自分の姿を見て、どう思った?」。対する自分の返答は、「青い・・・」。
つまり、今の自分は、それから20数年経って、あの時の自分とは違うのだ、という思いがあった。しかし、今日の“自分の感情の居場所”を眺めてみると、その時と何も変わっていない。まだまだ青い・・と思った。
人間、円熟して“枯れる”というのはなかなか難しい。自分の未熟さを自身で気が付くほどだから、他人から見たらバレバレ・・・・。
やはり坐禅が必要かな・・? それとも・・・・?
この自身の未熟さを抱えて、まだまだ死ねないな、と思うこの頃である。(←何? あまりにご都合主義な解釈??)
*今日の記事とは全く関係無いが、イタリア中部沖で13日夜に起きた豪華客船座礁事故。当サイトお気に入りの「米boston.com(ここ)」に、この事故の写真も載るはず・・と見ていたら1月18日付で載っていた(ここ)。その写真のいくつかを紹介すると・・・(写真はクリックで拡大)
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コメント
感情を抑えるための手法について、経典にいくつか書かれていますが、その最後は、ぐっと体に力を込めて、奥歯を噛み締めて、その感情を抑え込め、ということだったような。
それから、常に自分の心を自分で観察している、怒りが生まれた瞬間の自分の心の変化に、その瞬間に自分で気付くことができれば、その怒りに振り回されない、その怒りはすぐに分断される、というのもあります。それも瞑想の一種とされています。それなら坐らなくても日常生活の全てが瞑想修業になります。
とは言え、それもまた難しいのですよね。
朝起きて、今日は昨日より自分に気付いている時間を長くするぞと思って実行するのですが、すぐにそれを忘れて感情に振り回されます。怒鳴ってしまうこともあります。その度に、まだまだガキだなと思わされます。
【エムズの片割れより】
いくつになっても、なかなか自分の感情をコントロールするのは大変。性格なのか、修行の不足なのか・・・・。まだまだ先は遠いです。
投稿: たかはし | 2012年1月20日 (金) 20:54