« トワ・エ・モアとさだまさしの「旅人よ」 | トップページ | 住友生命の「2011年の創作四字熟語」 »

2011年12月 8日 (木)

「常に観察すべき五つの真理」(4/6)~「すべて変化し、離れていく」

前回(ここ)に引き続き、日本テーラワーダ仏教教会から出ている「常に観察すべき五つの真理」という冊子を読んで行こう。

常に観察すべき五つの真理
     アルボムッレ・スマナサーラ長老
・・・・
私の好きなものはすべて変化し、離れていく
「私の好きなものはすべて変化し、離れていくものである。このことを女性も男性も在家も出家も常に観察すべきである。」
 Sa**は「すべて」、me ***は「私が好きで、欲しくて、愛着があるもの」という意味です。その愛着しているものすべてに、変化する性質があり(na**)、離れる性質がある(vi**)のです。
 したがって、「自分の好きなもの、愛するもの、欲しいものはすべて変化し、それらから離れなければなりません。それを避けることはできません。このことを常に観察してください」という意味です。
 私たちはだいたい自分の欲しいものや好きなものが揃っていると、楽しくて舞い上がって、ほかの人の話はまるっきり聞かなくなるという傾向があります。欲しいものなら何でもあるぞという感じで、態度がでかくなり、傲慢になるのです。
 しかし反対に、その対象が変わったり無くなったり壊れたりすると、その反動でものすごくショックを受け、頭がクタクタにいかれて立ち直れないほど落ち込んでしまう人も中にはいます。ときどき、その状態で私のところに「なんとかしてほしい」と相談に来る人もいますが、そのときはもう治療できないほどの状態。怒鳴って目を覚ましてあげることが治療なのですが、そういう状態でもないのです。
 ですから、最初から「すべてのものは変化する。だから舞い上がって調子に乗るべきではない」ということをしっかり理解しているなら、何かがあってショックを受けたとき、それほど落ち込むことはないでしょう。
 したがって「どんなに好きなものでも、それらから離れなければならない」ということを憶えておいたほうがよいのです。」(日本テーラワーダ仏教教会「常に観察すべき五つの真理」より)

「茫然自失」という言葉がある。広辞苑を引くと、「【茫然自失】あっけにとられて、我を忘れてしまうさま。」とある。
人間が茫然自失に陥るのは、まさに想定していない事態に遭遇する時。
その点、今年は茫然自失となる出来事が多かった。東関東大震災を筆頭に、福島第1原発の事故など、もはや言葉にならない出来事だった。
個人的にも、今年は良くない出来事が多かった。よって「早く今年が終わらないかな・・」と言ったら、誰かに「でも来年はもっと悪くなるかもよ・・」と言い返されてしまった。

上の論のように「私の好きなものはすべて変化し、離れていく」と悟っていれば、どんな想定外の出来事が起きても、心の平静は保たれるのかも知れない。しかし現実には、そんな人は、ほんの一握り・・・・
普通の人は、「自分にとって不都合なことは起きない」と信じて、または考えないで日々暮らしている。先の論で言うところの“真理”を受け止めることは、凡人にはなかなか大変な事なのである。

上の話とは関係無いが、この頃、朝起きると暗いのが気になる。この季節になると、毎年のように、そのことが気になり、ついつい前に書いた記事を読み返す。「朝が暗い・・・“日の出”時刻の研究?」(ここ)を書いたのが、2006年12月 9日。もう5年も同じ話題を繰り返している。
先の記事でも書いているが、日の出は1月上旬が一番遅いが、日が暮れるのは、今の12月上旬が一番早い。
先日、NHKラジオ深夜便で、スウェーデンのストックホルムからの、電話でのレポートが放送されていた。その時に、今のストックホルムは、日の出が午前10時で、日の入りが午後1時だと言っていた。つまり昼間が3時間しかないとのこと。地図で見ると、ストックホルムはノルウェーのオスロ、フィンランドのヘルシンキ、ロシアのサンクトペテルブルグとほとんど同じ緯度。よってこれらの大都会も、今の季節は昼間が3時間・・・
それに比べると、日本は暮らし良い国・・・・

ついでに、今日は真珠湾攻撃から70年目だという。
日々は流れて行く。その中で、望むと望まないとにかかわらず、色々な出来事が起きてしまう。我々はそれらを、何が起きても「想定内さ・・」と強がって“うそぶきながら”生きていくしかない。
「私の好きなものはすべて変化し、離れていく」という真理は、日常的には何とか認めたくない言葉ではある。

←BACK                       NEXT→

|

« トワ・エ・モアとさだまさしの「旅人よ」 | トップページ | 住友生命の「2011年の創作四字熟語」 »

コメント

執着は喜びの元、執着がなければ喜びはない、と悪魔が言うと、それに対して、執着は憂いの元、執着がなければ憂いはない、と釈迦が返答する、という経典の言葉を思い出しました。

投稿: たかはし | 2011年12月 9日 (金) 03:18

ご無沙汰しました。しばらくぶりで覗きました。何に執着するかと言う問題ですね。執着する対象が自らの本能的な欲望の対象ならば執着の対象は変化するでしょう。変化しないものに執着すれば、全てが想定内ということになるでしょうか。不変なものとは何か?それを追い求める自分は不変ではないという、矛盾はありますが、執着するものを不変なものへと移行させていけば、自分も不変なものへと近づいていくのでしょう。無理な挑戦かもしれないけれど・・・。もともと仏教の教えは当たり前で実行不可な教えが多いから

【エムズの片割れより】
そうかも知れませんね。
自分の執着は、時間とともに変わって行きます。でも、それがトシとともに、段々少なくなっていくような気がしています。

投稿: 中野勝 | 2011年12月 9日 (金) 10:21

移ろい往くものに根を生やすと根こそぎにされる
と聞きました 

生まれる前と死んだ後の自分に瞑想しなさい
とも聞きました
 私はイメージするだけでも静けさが訪れます

釈尊の言葉か否か不明ですが・・・  

投稿: まんすーる | 2015年5月14日 (木) 00:53

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« トワ・エ・モアとさだまさしの「旅人よ」 | トップページ | 住友生命の「2011年の創作四字熟語」 »