ファッションデザイナー・森 英恵さんのトーク
自分にとって、それこそ全く縁のない世界であるファッション界。そんな話を聞くのも、ヘエ~と思って、また楽しい・・。
NHKラジオ深夜便で「<天野祐吉の隠居大学>第5回ゲスト:ファッションデザイナー 森 英恵」(2011/08/29放送)を聞いた。 自分でも、名前だけは知っているデザイナー・森英恵。何と言っても「英恵」を「ひで~(失礼!)」ではなく、「はなえ」と読むことに新鮮さを覚え、「自分は“はなえ”って読めるんだぞ・・」と、若い頃にその名前を覚えたもの・・・。しかし自分の人生の中では(←これ、オーバー!)、話はそこまで。別に森英恵ブランドのものを買ったこともないし、興味もなかった。
しかし、この番組を聞くと、彼(か)の世界的ファッションデザイナーの森英恵さんも、この業界のスタートは、結婚後、25歳の時にドレスメーカーに勉強に行ってから。そして友人からの誘いで、新宿の2階に部屋を借りて、洋裁店「ひよしや」を開店。そして、目立たせるために窓側をガラス張りにして米国直輸入のマネキン3体を置いてPR。それをキッカケに映画のファッションを担当。裕次郎の「狂った果実」など・・・。しかし映画業界はポルノ路線に移り、洋服が要らなくなっちゃった。それで仕事が無くなって(そりゃそうだ!)パリへ・・・。そして・・・。少し聞いてみよう・・・。
<天野祐吉の隠居大学~森英恵のトーク>
広辞苑で「おしゃれ」を引くとこうある。
お‐しゃれ【御洒落】みなりや化粧を気のきいたものにしようとつとめること。また、そうする人。「―な紳士」
この定義からすると、自分はどうも「おしゃれ」には無関係。“みなりや化粧を気のきいたものにしようとつとめる”努力が不足しているようだ。カミさんはそれを称して「いつも同じ服を着て、貧乏ゴッコしている」と言う。
でも確かに、子どもころから、格好良い服を着ようとか、良く見せようとか、そんな意欲がなかった。今考えると、これは怖ろしい話で、危うく“生涯独身”の危険性があったのだ・・!(クワバラ・クワバラ・・・)
でもたまにはカミさんと服を買いに行くこともある。何かのイベントがあると、「着て行く服がない」と自分が騒ぐので、「予め買っておけ・・」と。しかし買いに行っても、カミさんが勧める服はどれも気に入らん・・・。
これらは、自分の価値観から来ているのかも・・。つまり、オーディオセットに金は掛けても、服に大金を掛ける気がしないのである。
これは、決して自分の育った家庭環境のせいではなさそうだ。自分は知らなかったが、親父は、世間では「おしゃれ」と言われていたらしいし、お袋も裁縫の学校の出身で、子どもの頃から家ではいつもミシンが動いていた。まあお袋に“その道のセンス”があったかどうかは知らないが、少なくても「洋服」が身近にあったことだけは確か・・・
ふと、この放送にも出てきたが、良く聞くファッション用語で、意味を知らないものが多いのに気付く。この際なのでWikiで調べてみた。すると・・・
「オートクチュール」=(仏: haute couture)とは、パリクチュール組合加盟店で注文により縫製されるオーダーメイド一点物の高級服やその店のこと。フランス語でhaute(オート)は「高い」「高級」を意味する形容詞 haut(オー)の女性形、couture(クチュール。女性名詞)は「縫製」「仕立て服」のことで、高級仕立服を意味する。
「プレタポルテ」=(フランス語: prêt-à-porter)とは、既製服、とりわけ「高級既製服」を意味する言葉。フランス語でprêt(プレ)は「用意が出来ている」、porter(ポルテ)は「着る」という意味であり、à(ア)は不定詞を導く前置詞である。英語に直訳すると ready to wear、あるいは、ready to carry にあたり、「そのまま着られる」「そのまま持ち帰られる」とも訳せる。
なーるほど・・・・
ところで、ウチの家族のファッションセンスは?というと、気にしていないのは、どうも自分と長男(?)だけらしい。カミさんもまあそれなりに金をかけているらしいし(良く分からないが・・・)、次男坊も「服のセンスが良い」とカミさんは評しているし・・・。でも、30歳を超えて相変わらず“虫”が付いていないらしいので、ファッションセンスが無くても“虫”が付いた自分とは、やはり“人間の中身の違い”かもね・・・
でもこの放送で言っていた。人間の外見と中身とは違う、という言葉があるが、人間の外と中身とは同じであるべき。背広姿だけのサラリーマンは、自分を表現することに慣れていない・・・、と。
今までは、サラリーマンは背広と決まっているので、楽だ楽だと思っていた。しかしこの背広を脱ぐ日も近い。自分らしい服装というものをそろそろ考えないといけない頃かも知れないな・・・。
ともあれ、全くの別世界では話に入り込めないものの、このように名前だけは知っている“違う世界”の話は、なかなか新鮮で面白かった。
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コメント
昭和25年ごろ、お袋はドレメに夜、通っていました。中古の足踏みペダルのミシンを買い、子供たちに衣類を作ってくれました。私も幼稚園の卒業式にお袋に作ってもらったジャンパーを着て写真に写っていました。方や出発点は同じでも、世界の「ハナエ・モリ」なのですね。出発点は同じでも、めぐり会う人、時代が異なると、勿論才能によって、月とスッポンになってしまうのですね。すごいもんですね。と感心してしまいます。
【エムズの片割れより】
ウチでも、子どもの時に、親父の古いコートが自分たち兄弟のジャンパーに化けて・・・。お袋の裁縫の技術はそれなりに有用でした。
投稿: 普賢 | 2011年9月 1日 (木) 22:02