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2011年9月 7日 (水)

「主のない電話」~永田和宏著「家族の歌」より

前に、「歌人・永田和宏氏のエッセーの朗読」(ここ)という記事の続編で、「「相槌」~河野裕子「家族の歌」より」(ここ)という記事を書いた。今日はその続き・・・
先日読み始めた「家族の歌」だが、ゆっくりと、そしてじっくりと読んでいる。この本は、決して急いで読み飛ばすような本ではない。そのひと言ひとことに込められている心情をおもんばかって読んでいる。その中で、こんな一文があった・・・・。何とも切ない話ではあるが・・・。

「このふた月あなたの声を聞かないがコスモスだけが庭に溢れる(永田和宏)
主のない電話~永田和宏
 電話が鳴った。音が違うと思ったら、河野裕子の携帯電話が鳴っているのだった。亡くなったあとも、携帯は充電器の上に置かれたままたった。
 かかってくるはずのない携帯が鳴っている。不思議な気分だが、誰かが彼女の死を知らずにかけてきたのだろうか。
 「もしもし」と電話を取ると、受話器の向こうでは確かに一瞬、息を呑んだ気配が感じられる。シンと無言のまま。もう一度「もしもし」と呼びかけ、そのまましばらくすると、消え入りそうな声で「済みません」と女性の声がする。
 それは私たちの短歌会「塔」の会員、Kさんだった。
「まさか、先生が出られるとは思わなかったんです」とひたすら恐縮している。「河野先生のことを考えていたら、急にたまらなくなって、出られないことはわかっていたのですけれど、思わずかけてしまいました」と言う。私か出てしまい、想定外のなりゆきに思わず絶句してしまったのであるらしい。
 いたずらを見つけられた子供のように、おどおどと言い訳をしているKさんは、普段は竹を割ったようなという表現がぴったりの、あっけらかんと好きなことを言っている広島にいる女性会員なのであった。その性格がとても好ましく、私も河野も好きな会員のひとりである。
 本当はまだ河野の思い出を人と話すまでには、自分白身が回復していない。
 私たちの短歌会の全国大会が、河野の死の一週後に松山であったのだったが、そこでも最初の挨拶で、私がみんなにお願いしたのは、まだ私に河野のこと、お悔やみを言うのは控えて欲しいということだった。
 さすがに百六十名ほどの参加者は、よく心情を汲み取ってくれて、誰もがそっとしておいてくれたのは、私には何よりありがたいことだった。
 Kさんとは、河野と一緒にスイスのユングフラウに登ったことなど、いくつかの思い出を、ぼつぼつと話をしたが、家族と話をしているような気分で、それは少しも嫌ではなかった。
 最後まで恐縮しながら電話を切ったKさんだが、衝動的に電話をかけてしまうほどにも河野のことを思ってくれている会員がいることに、なんだかほっと暖かい気分になって、しばらく電話の前にいたのだった。」(河野裕子、永田和宏、その家族(著)「家族の歌」p56より)

前に、誰かが「人は、肉体の死とは別に、誰かの心に記憶として存在しているうちは、まだ死んではいない・・」と言っていたのを、記事で書いたことがあると思い出して、「記憶の中」という文字でこのblogの左欄の「サイト内検索」をしてみた。すると出てきたのが3年前に書いた「永田和宏氏の短歌の世界・・・」(ここ)という記事・・・。何とも奇遇である。
改めて先の記事を読んでみると、3年前の番組で、氏はこんな歌を紹介していた。
“「亡き夫(つま)の 財布に残る札五枚 ときおり借りてまた返しおく  野久尾清子 南日本新聞の投稿歌」
死者はいつまでも向こうに行ってしまわないで作者の中に生き続ける。我々の記憶の中に留め置かないと、死者はあまりにかわいそう・・・“
ここ)より

話が飛ぶが、世で生涯未婚率の上昇が懸念されているという。男性が2割、女性が1割近いという。社会的な地位がある方は別にして、普通の家庭人の記憶は、代々、子・孫・・・と受け継がれて行く。
しかし未婚の場合、または子が居ない場合は、その人の記憶は、何となく消えて行ってしまう・・。血縁以外のつながりでは、その当事者の記憶はあんがい簡単に消えてしまうものなので・・・

“人”という字は、お互いに支え合っている、とは良く言われること。つまり社会。その最小単位が家庭。人間が生きていくためには、やはり人々が支え合う家庭が原点。
その意味でも「家族の歌」という本は、家庭の素晴らしさを高らかに歌っている。
一方、色々な家庭が存在するのも事実。幼児虐待を例に挙げるまでもなく、ニュースで暗い話が毎日のように報道されている。今、我が家で“凝視”しているテレビドラマ「それでも、生きてゆく」(ここ)でも、幼児殺人犯を出した家庭と、被害者の家庭が、その苦悩から脱しきれずに何十年も、のたうち回っている・・・。
「そんなのに比べれば、独り者は自由さ・・・」という論も確かにある。
しかしやはり家庭は大切だと思う。否、“大切な家庭”を作るべく、人は努力すべきだと思う。
この本を読みつつ、家庭の大切さ、ありがたさを思い、ふと周囲を見回す自分ではある。

(関連記事)
永田和宏氏の短歌の世界・・・
歌人・永田和宏氏のエッセーの朗読
「相槌」~河野裕子「家族の歌」より

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コメント

年齢が60歳を過ぎて、何回か死を予感させる病気をすると、死は身近なものになってきますが、長生きできそうな気もしてきます。そうすると、自分だけが長生きしても、遠慮なく話せる人々がいないと、寂しいですから、身内にも、友人にも長生きするように気を配り始めました。要は生活習慣を改善する事から、食事のことまで、とことん言うことにしました。嫌がられても、言う事にしました。
そして、寿命が来るまで、とことん長生きをしようと言い合っています。当然家内とも。
皆で90歳以上は生きよう、精一杯元気でを合言葉に、そして我がままに・・・。

【エムズの片割れより】
前に記事で書いたかも知れませんが、自分の伯父夫婦は、89歳と82歳になりますが、子供が居ないせいか、現役の時の一戸建てを売って、熱海のデラックスな老人ホームで生活しています。夫婦の合い言葉は「勝手に先に死なない」とか・・・。今頃になって、自分もその意味を噛みしめています。

投稿: 中野 勝 | 2011年9月 8日 (木) 20:03

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