「機縁-そうなるべくしでそうなる」
先日、雑誌「大法輪」を読んでいたら、こんな記事を見つけた。(いつも同じ雑誌の話で恐縮だが、なかなか他の本を読むヒマがないのだ・・。←これムダな言い訳・・・)
曰く・・・
「機縁-そうなるべくしでそうなる
「おとずれる」ということで思い出すことがあります。
小説『ビルマの竪琴』の著者・竹山道雄さんは、その著書の最後に「ビルマの竪琴ができるまで」という一文を載せています。
ビルマの資料が足りなくてなかなか小説が書けなかったのだそうですが、「機会というものは注意を集中しているとつかまるものだ」と言われ、次のように書いていらっしゃるのです。――少し長い引用ですが――
『ある日、電車にのっていました。あの頃のことですから、立ったまま身うごきもできず押しつぶされそうでした。隣りに立っている人が雑誌を手に丸めて読んでいましたが、それが私のすぐ目の前にありました。見るともなく見ると、その記事はビルマの戦争の様子を報じたものでした。これが私の求めていたものでした! これが第一報でした。私はそれをむさぼるように覗き読みしました。その雑誌が何であるかを知りたくてなりませんでしたが、知らない人が読んでいるのを覗きこんでいたことですから、きくのも照れました。もじもじしているうちに、その人が手を持ちかえ、その瞬間に、それが「月刊読売」であることが分かりました。私は駅を降りると、すぐにこれを買いました。四頁ばかりの短い記事でしたが、ここには、ビルマ全国に日本兵の白骨が累々と野曝(のざら)しになっていることが報じてありました。このことと、前から私の頭にひそんでいたことが結びついたのでした。すでに第一話を作っているときからそういう話にしようと思っていながら、それにはっきりとした形をつけることができないでいたのがにわかにまとまり、骨子がきまりました。』
驚きました。こういうことってあるんですね。条件が調っていて、次から次へ、良いほうへ良いほうへと事が運ばれていきます。
――隣の人が雑誌を手にしていた。それが私のすぐ目の前にあった。その記事はビルマの戦争の様子を報じていた。これが私の求めていたもの。むさぼるように読む。その人の手が雑誌を持ちかえた。それが「月刊読売」だった。駅を降りるとすぐに買った――
あざやかというよりほかはありません。
このようなとき、駅を降りるとちゃんと雑誌は店にあるのですね。竹山道雄さんに買われるべく「月刊読売」は待っていたのではありませんか。
人はこれを「偶然」と言っていますが、そう簡単に片付けてしまっていいものでもありません。
「偶然」とか「奇遇」とかは、思いがけない出合いのことで、なぜそうなったかを説明することが困難であることから、漠然とそういう言葉を用いて逃げてしまっているときのことを言います。
「機会というものは注意を集中しているとつかまるものだ」と竹山さんは言われました。求めれば得られる、求めなければ得られない、そのことを言われているのです。
偶然でもなし、奇遇でもなし。仏教ではこれを「機縁」と呼んでいるのですね。「そうなるべくして、そうなるべきときに、そうなっている」ということなのです。
わたしはそれを「おとずれ」と言わせてもらっています。・・・・」(雑誌「大法輪」2011年9月号p29より)
ここにある「求めれば得られる、求めなければ得られない」という言葉が心に残る・・・。考えてみると、“そりゃそうだ・・・”。良く聞く笑い話で「宝くじは買わなければ当たらない」というのがある。確かにそうだ。当てようと思って買うから当たる。自分のように、買いもしないで「宝くじが・・・」というのは、もはや妄想の世界・・・
先日、テレビで「北の国から~‘87初恋」を放送していた。“純”が“れい”に一目惚れしたとき、その後二人が恋人になる事に、自分が「幾ら男が一目惚れしても、そうそう上手く行くはずがない」と言ったら、カミさんが「いや、念ずれば通ず。その女性を想う心に対しては、女性も共感するもの」みたいな事を言う。つまり、幾ら一方的な好意でも、相手もそれに共鳴する事があるというのである。
この言葉には恐れ入った。
自分も青春時代、幾多の片想いを経験した。しかし“おっかなくって”、その想いを伝えたことはほぼ皆無・・・・。
もしさっきのカミさんの言葉がホントウだとしたら、青春時代、自分もその想いを相手に伝えれば良かった・・・・!!(若しかしたら、カミさんが別の人だったりして・・・。ホホホ・・・。思わず笑みが出てしまう!!失礼!)
おっと話がずれた。
ところで、ウチの夫婦は果たして「機縁-そうなるべくしでそうなった」のであろうか・・・??これ以上論じると“血を見る”ので、今日はこの辺でお開きとしよう・・・。
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コメント
仏教の事ですので、少し所見を述べてみます。参考になれば、幸いです。機縁という詞に関してですが、機と縁は別々にしてみると良く解るのです。機という言葉は①機会の機の意味でグッドタイミングという意味と、②機根の機のように、グッドタイミングに合う条件を備えているという意味を考える事が可能なようです。縁は関係性と解釈できますので、②の意味と縁を繫ぎあわすと、グッドタイミングに合う条件を備えている関係性という意味になるようです。ですから現在ご夫婦の方は当然ながら機縁ですし、これから夫婦になる方も機縁なのです。
【エムズの片割れより】
なるほど・・・。頂いた言葉を良く噛みしめて、もう一度味わってみます。
投稿: 普賢 | 2011年8月17日 (水) 13:19
小説『ビルマの竪琴』の著者・竹山道雄さんは運良く生還復員された教え子より、武者一雄和尚たちの慰問合唱団の話を聞かれ、小説を書こうと思われた矢先、上の文章と繋がるものと思われます。
私はその復員兵と一摘みの塩で生還された戦記を見つけ出そうと 『ビルマ戦線 : 歩兵第五十八連隊の回想』 を読んでいます。
高校を卒業し会社勤めをし受験勉強を開始するまでは戦記ばかり読んでいましたので、何処の戦場かも分りません。ガダルカナルかも知れません。或はニューギニア戦線であったかもしれません。大東亜太平洋侵略戦争の陸戦では大部分の戦死は戦闘によるものではなく、餓死だと言われています。
投稿: 今井 龍弥 イマイ タツヤ | 2017年9月 2日 (土) 21:56
訂正 「大東亜太平洋侵略戦争の島嶼部、中国大陸以外の陸戦では」 です。
原爆ばかりが悲惨ではなく、餓死もまた悲惨です。飽食の時代の人々に、餓死の戦記を読んで貰いたく思います。
投稿: 今井 龍弥 イマイ タツヤ | 2017年9月 2日 (土) 22:06
戦死者のほとんどは餓死である。
一昨年 あるセミナーの講師の一人であった
俳人の金子兜太さん(当時95歳)の言葉が今なお鮮明にお声まで記に憶に残っていいます。
ご自身も捕虜の経験があり奇跡の生還をされた方です。
他のお二人の講師
大江健三郎氏は?マーク」ご家庭の日常
労わられているご様子でした。
谷川俊太郎さんも?マークでした。
高級車に興味があり 趣味となされた時期があた方は心からの文化人と言い難いというのが私の独断と偏見です。
その意味では一時期 高級車にハマった五木寛之氏も同じです。
金子兜太さんのトラック島での捨て石体験
水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る
氏の絶唱に涙が止まりませんでした。
投稿: りんご | 2017年9月 6日 (水) 19:50
「高級車に興味があり 趣味とされた時期があった方は、心からの文化人と言い難い」全く、同感です。
「人間一人を運ぶのに車は不要」と考え長年バイクで移動しておりました。60歳近くになり、家内にプリウスに乗って貰いました。価格は高級車でしたが、二酸化炭素排出量が少ないので無理をして導入しました。今は車を運転しなかったこと後悔しています。頑固も程々と知りました。
『爆死と餓死の島で「蹴戦」を誓った / 金子兜太 述』と言う論文を見付けました。貴重な情報を有難う御座いました。
投稿: 今井 龍弥 イマイ タツヤ | 2017年9月 6日 (水) 20:50
イマイタツヤ先生の共感を得て恐悦至極に存じます。並びにこのような場を提供くださった
エムズの片割れ様にも感謝深謝に堪えません。
筋金入りの頑固人生へのご褒美としてのプリウス~お医者様ですものと
俗な見解をご容赦ください。
当時95歳の金子翁 流石に体力の衰えから1時間の講演は椅子に座しての熱弁でした。
思えば さかのぼること11年、県朝日俳句大会で賞をいただき力強い握手に「先生お元気ですね」とお調子者の私に「84歳です」と快活に誇らしく答えた姿が懐かしく甦りました。
とまあ〆は自分の自慢になりました。悪しからず
投稿: りんご | 2017年9月 6日 (水) 21:43