「老・病・死は不幸とは決まっていない」
雑誌「大法輪」の先月号(2011年7月号)に「老・病・死は不幸とは決まっていない」という特集記事が載っていた。
最近、義姉の逝去をきっかけに、こんな話題を身近に感じる・・・。曰く・・・
「健康至上主義のあやうさ
花園大学元学長 西村惠信
○人間存在の根源的苦悩
仏陀は「生老病死」の苦悩を、生きとし生けるものの避け難いリアリティー(真実実在)であると説いた。これは世間の凡夫にとって、徹底した悲観主義のように見える。しかし誤解してはならないのだ。
仏陀はこのように、苦悩という真実を説くことによって、人に悲しみを与えようとしたのではない。むしろ人間の根本に纏わり付く苦悩の真実を示すことによって、人を夢のような安逸な楽観主義から目覚めさせようとして、ひとときの快楽に酔いしれる人間の「無明」を告発されたのである。
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生きとし生けるものにとって、「生」れてくることじたい、すでに血みどろの苦しみを経るのであり、若い者もやがて「老」いとともに身心が衰え、醜い姿になっていくということも苦しみである。
さらに生身の身体であるかぎり、身体が傷つき、健康を損なって「病」の床に臥すという苦も避けることはできず、そしてやがて「死」という絶対的絶望によって迎えられねばならない。
このことは誰一人として例外の許されることのない「必然的苦悩」である。これを少しく西田哲学に倣って言えば、「個人あって苦悩があるのではなく、苦悩があって個人がある」、ということになる。
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もし「老いる」ということを好ましくないことと考え、無理に若さを繕おうとすれば、これは若さへの執着という醜さを曝(さら)すだけである。かつてローマの賢人キケロが、『老いの豊かさについて』で書いているように、老人には若者に対して誇りうる多くの点がある。それは死を目前にした老人の自己卑下ではなく、老人に与えられた人生の最も豊かな時期(死を迎えようとする時)に於ける讃歌であるという。
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言うまでもなく老若男女を問わず、健康であるほど結構なことはない。健康でいることは人間にとって理想である。しかし病というものが、生けるものの不可避の実在として、生存に纏わりついている以上、病むことが必然である以上、健康でいることは一時的逃避であり、滅多にあり得ない偶然と言うべきである。健康で有ることが難しいから「有り難い」と言うのである。
病むとか死ぬとかいうことは、生存の根本にある「実在」としての「病」や「死」が、現実化するに過ぎず、決して偶然の出来事ではない。それは大きく自然との縁によって起こる必然であって、医療の介入できる領域ではない。
○病の体験は自己の完成
病んで「病」を知ることは、自分の中のリアリティー(実在)に出会うことであり、自己の完成であるとさえ言えるのだ。そういう意味で「死」は存在するものにとっての更なる完成であろう。しかし人は死を体験することは出来ない。
そうとなればその一歩手前の「病」は、生きる者にとって出会う最後の真実であるとさえ言うことができよう。他方、人の病を見舞う者にとって、病む人は「病」というリアリティーを現成してくれている教師でさえあるのだ。そういう立場から病む人と対するのでなければ、真の見舞いにはならないと思う。
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もちろん病人はふたたび元気になることを望んでいる。しかし直ぐには元気になれないから、やむなく床に臥しているのである。このことはとりわけ回復不可能と診断され、死
の床に臥せている人にとっては深刻であろう。本来そういう人を見舞うには言葉がないものだ。
ともあれ病を見舞うとき、健康を標準として見舞うと、見舞いがかえって病人を惨めにする。そうではなくて、「病」というものが生きとし生けるものの根底に潜む避けがたい真実であるという「諦観(たいかん)」から見舞うならば、真に病人にとって慰めになるであろう。
仏陀は「大医王」と呼ばれるほどに、病む人の治癒に努力された。しかし病人の苦しみを安らげたのであって、決して死を遠除けようとされたのではない。むしろ死を厳(おごそ)かに迎え入れることを教えたのである。
もし仏陀が現代にいませば、生にのみ執着して死の真実から逃れようとする現代人の無明と傲慢を見て、どんなに嘆かれることであろう。」(雑誌「大法輪」2011年7月号p88より)
ここで述べられている「病んで「病」を知ることは、・・・自己の完成である・・・」「・・「死」は存在するものにとっての更なる完成・・・」は少し誇張が過ぎる気もするが、そんな捉え方もあるのだ・・・。
理屈的には“当たり前”の「老・病・死」。しかし、それを当たり前の事として、素直に受け入れられる人は、世界広しといえど、何人いることか・・・
徐々に訪れてくる「老」は仕方がないと諦めても、「病」と「死」が自分に訪れるときは、“何で自分が・・・”と捉えるのが普通。そして、(自分が代表例だが)“自分だけは「病」と「死」には関係無い・・・”と思って日々生活している我々・・・。
頭では分かっているものの、現実直視が難しい「老」⇒「病」⇒「死」。我々凡夫は、どうしたら「老・病・死は不幸とは決まっていない」と思える境地に達することが出来るのだろう?
そう考えると、先に見事に諦観して(?)亡くなっていった義姉(ここ)は、もの凄い人だった・・、ということになる。
まだまだ「老・病・死は不幸」の呪縛から逃れられない自分ではある。
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コメント
四苦の問題は、八正道の正見の対象を『生あるもの』の変化相と捕えることであろうと思っています。私は釈尊は全ての現象を有りのままに捉えることを目指された人であると理解しています。しかし、理解する事と肌で感じる事は異なりますから、肌で感じる方に重きを置きます。すなわち理解する事を体感する修行を心がける事が大切になります。仏道とは、体感する修行を意味するのでしょう。四苦は有りのまま捉えることにより、煩悩即菩提、苦しみは即悦びに変るのでしょう。釈尊自ら四苦を仏の喜びとして行ったのでしょう。長年の修行と一瞬の悟りでしょうか?
【エムズの片割れより】
コメントありがとうございます。釈尊の世界の理解はほど遠いのですが、最近毎晩カミさんと“坐禅もどき”をやっています。サボりながらの15分ですが、「止める」という事が、なかなか心地よく・・・。まあ修行の坐禅に近付くのは大変ですが、少しでも釈尊の世界を身近に感じたく・・・
投稿: 中野 勝 | 2011年7月16日 (土) 03:50