「死を“前に見よ”」~ブッダの教える発想の転換(4/5)
雑誌「大法輪」2011年5月号に「ブッダの教える発想の転換」という記事があった。なかなか耳の痛い話ではあるが、5回に亘って読んでみよう。今日はその4回目。
「ブッダの教える発想の転換
菅沼 晃(東洋大学名誉教授)
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<死を「前に見よ」>
「大王よ、巨大な山があなたを圧しつぶすように、老いと死があなたに迫っているとき、ただ、真理にかなった行い、正しい行い、善い行い、功徳を積む行いをするほかはありません」(『相応部経典』「コーサラ相応」)
古い経典では、私たちは死へと向かう存在であることが様々な表現で説かれますが、これはコーサラ国王パセーナディヘの言葉で、「雲のような大きな山が、あらゆる生き物を
圧しつぶしながら迫ってくる」というのです。最近のテレビで大雨などによる土砂崩れの有様を見ていると、すべてを圧倒する巨大な山の土石流が私たちを圧しつぶすという譬喩(ひゆ)が生々しく感じられ、まさに我が身に迫ってくる死を実感させられる気がします。
老いや死はもともと人間に内在しているものなのに、いざそれに直面すると「死は突然やって来た」とショックを受けるのは、死を「前に見ていない」からです。ブッダが老・
死について実に多くの言葉を残しているのは、老死を後ろからやって来て突然私たちを暗黒の淵に突き落とすものととらえるのではなく、「前に見る」ことを私たちに求めているからです。「死を前に見る」のは、私たちにとって実につらいことなのですが、それを見据えながら、精一杯生きて行くほかはないのです。」(雑誌「大法輪」2011年5月号p49より)
何とも厳しい指摘である。我々凡夫は、その時に際し、確かに「死は突然やって来た」とショックを受ける。しかし、生きとし生けるもの、老死は誰にとっても“前に”横たわっているものである。それが人によって違うのは、それが“何時か”であって、“有無”ではない。有に決まっている。でもやはり「死は突然やって来た」を感じるのは、前回も書いたように“自分だけは無関係”といった(特に自分のような)スタンスに起因する。まさに“臭い物には蓋”という考え方。それは虚構であって、真理ではない。よってあっと言う間に綻ぶ・・・。頭では分かっているものの・・・・
同じく「大法輪」の今月号にこんな記事があった。
「神々といえども死んでしまう
天上界の神々とはいってもそれぞれに寿命があり、その寿命が尽きれば死んでしまいます。「人間(じんかん)五十年、下天(げてん)の内を比ぶれば、夢幻の如くなり」と謡われるように、最下位の下天=四天王でさえ、その一日は人間の五十年に相当します。人間
に比べるとほとんど永遠といってもよい寿命ですが、寿命があるかぎりは死ななければなりません。
神々の死期が近づくと、五つの死の兆候が現われるといわれます。これを天人の五衰と呼びます。1)衣装が塵で汚れてくる。2)頭上の花飾りがしおれてしまう。3)脇の下から汗が流れだす。4)身体が臭くなる。5)みずからの座席にいることが楽しくなくなる。神々といえども例外なく死んで、六道に輪廻すると考えられています。六道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道を指します。阿修羅を除いて、五趣と呼ばれることもあります。趣とは、行き先という意味です。」(雑誌「大法輪」2011年8月号p79より)
ちょっと横道にそれるが、信長で有名な「人間五十年・・・・」を調べてみた。それはこんな意味らしい。
「思へばこの世は常の住み家にあらず
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし
金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる
南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」
↓
「・・・・
人間の寿命は五十年
「化天」(「下天」)に比べ、夢や幻のように儚いものである
(人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない)
この世に生まれて滅びぬ者などいるはずがない
これは仏の意思だとすると、私は悔しい」
それにしても、神にも寿命があるとは知らなかった・・・。だとすると、人間など儚いもの・・・。それは分かる・・・。頭では・・・。
ところで、“天人の五衰”を“現在の自分”にあてはめてみるとどうなるのだろう・・・
1)衣装が塵で汚れてくる。⇒家にいる時は一日中パジャマ姿のまま。
2)頭上の花飾りがしおれてしまう。⇒頭から毛が無くなる。(ハゲ)
3)脇の下から汗が流れだす。⇒うっかり失禁をする。
4)身体が臭くなる。⇒加齢臭(老臭)がする。
5)みずからの座席にいることが楽しくなくなる。⇒毎日が楽しくなくなる。
自分にあてはめると、1)と2)は該当(×)。他は非該当(だと思う)(○)。つまり3勝2敗でセーフ・・。もう少し生きられそうだ・・・。
よって残された時間を“死を「前に見る」”ことが出来るように修行を積まねば・・・!?
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コメント
天人五衰について、六道と四聖との関係から仏教の死生観を現代に当てはめる時、幾つかの予備知識が必要です。六道とはご存知の通り、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の6つの状態。天人五衰の天人とは六道の中の、人と天の二つの状態を言います。六道とは、生あるものの状態を六つの状態に分類したので、その内容は、地獄は不断の苦悩状態。餓鬼は本能の欲望に執着している状態。
畜生は物事の見通しを立てられない状態。
修羅は怒りに支配されている状態。
人は他人との情報交換ができる状態。
天は欲求が満足された状態。我々の生活はこの六道の範囲内でほとんどが収まると仏教では説きます。天人5衰とは、人・天の状態の人々でも五衰を経て滅びてしまう、ということ。四聖とは声聞・縁覚・菩薩・仏という4つの状態。
声聞とは、天の声を聞くと言う意味。仏法を聞くことができる状態。縁覚は一部の法によって悟る状態。菩薩は最上の法を求める状態。仏とは、不滅の法を感得する状態。
六道と四聖を合わせて十界と称します。
我々の生活を十界の範疇で考えるとき、四聖の状態にしていく努力を仏道修行といいます。ただし、大乗教の修行は、菩薩の行ということになります。
【エムズの片割れより】
勉強になります。なるほど・・・。しかし仏教はまさに哲学の世界。自分のものにするには、相当な勉強が必要ですね。
投稿: 金子次郎 | 2011年7月22日 (金) 09:41