「菅首相 解散の覚悟はなかった」
昨日の朝日新聞の「記者有論」というコラムに「菅首相 解散の覚悟はなかった」という記事があった。曰く・・・
「菅首相 解散の覚悟はなかった
政治グループ次長 鮫島 浩
歴代首相で一番、評価できないのは誰か。菅直人氏は野党時代、そんな問いを記者たちによくぶつけていた。彼の答えは明確だった。社会党の村山富市氏というのである。
野党に転落した自民党から首相の座を打診され、自社さ政権をつくって自民党を与党に復帰させたのは、やむを得ない。村山氏の失敗は、政権運営に行き詰まった後、首相の大権である衆院解散・総選挙に踏み切らず、自民党の橋本龍太郎氏に首相の座を明け渡してしまったことだ――それが、菅氏の理屈だった。
杜民連という小所帯からさきがけを経て民主党を結成した菅氏がずっと目指してきたのは、まずは自民党に代わって政権を担いうる野党第1党を作り、総選挙で政権交代を果たすことだった。総選挙で過半数を獲得することをあきらめ、国会内で自民党と交渉して主張を採り入れてもらおうとしてきた社会党は、「権力」の使い方を知らないと菅氏の目には映った。村山氏には解散権を行使する意思も覚悟もなかったのだ、とつねづね語っていた。
その菅氏が解散に踏み切ることなく、首相の座を去ろうとしている。内閣不信任案の採決直前に鳩山由紀夫前首相と密室で駆け引きし、退陣表明と引き換えに不信任案可決を回避する道を選んだのだ。
私はその直前、何度か菅氏と電話で話した。官邸からは造反を抑えるため、「首相は不信任案が可決されれば解散する意向を固めた」という情報が意図的に流されていた。だが、電話口の菅氏は、決して「解散」という言葉を口にしなかった。菅氏を10年以上取材してきた私には意外だった。解散の覚悟はなかった。
被災地は選挙どころではない。震災復興を急ぐため政治空白は作れない。支持率が低くて勝てる見込みがない。解散回避の理由はいくらでもある。だが、政争に明け暮れる衆院議員たちは、いまこそ有権者と向き合うべきだ。このまま解散を回避しても、国民不在の対立を続ける政界に、被災した人々のくらしを取り戻す力はない。むしろ、復興のための増税の是非や原発の見直しを含む電力改革を争点に解散・総選挙を行い、衆院議員一人ひとりに有権者への説明を迫るほうが、国民の側に立った政策を実現できる。そう世論を説得することはできなかったのか。
菅政権は次々に押し寄せる問題の対応に追われるばかりで、あまりに平凡に終わろうとしている。本当に残念だ。」(2011/06/11付「朝日新聞」p12より)
原発・電力不足問題も政局も、色々な角度から眺めてみることは大事。つまり、ある方向の論にだけ耳を傾けるのではなく、逆の視点の意見にも耳を傾けることで、全体の事実が分かってくる。
そんな意味で、先の菅首相の解散騒動について“菅首相は言論不一致では・・”と指摘しているこんな意見も面白い。
政治家に限らず、普通のサラリーマンでも、立場によって発言が変わることは良くあること。担当者の時に言っていた(主張していた)事柄が、課長、部長と立場が変わるに従って、見る目や視野が広くなり、過去の自分の間違いに気付き、スタンスが変わって行く。これはむしろ望ましいことかも知れない。
しかし政治家の場合はどうか・・。選挙で候補を、自分の信条に合っているからこそ投票し、自分の代わりに国会で発言して貰う。それが間接民主主義の原理。よって、簡単に信条が変わってしまうのは困る。その意味では、個人の自由、つまり朝令暮改で動いてもらっては困るのが政治家なのかも知れない。
一方、解散総選挙も、“そんなヒマがあるか!”がマスコミの論調だった。でも“政争に明け暮れている国会議員は全員クビ”という手段も面白い。
おっとそれが解散総選挙か・・・・
でも、また同じような候補者からしか選べないとすると、あまり代わり映えがしない・・。
日本の国難は、政治家の貧困そのものなのかもね・・・・
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