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2011年6月16日 (木)

「内観療法のうつ病への効用」

雑誌「大法輪」の2011年7月号に「内観療法のうつ病への効用」という記事があった。そこに“内観療法”の解説がある。曰く・・・

「内観療法のうつ病への効用
   浄土真宗本願寺派僧侶・医学博士
   大阪学院大学国際センター非常勤講師  千石真理
・・・・・
『見方が変わる内観法』
 内観法は、1953年、浄土真宗の僧侶、吉本伊信師によって確立されました。内観は、文字通り、自分の内面を心の目で観ることです。うつ病、アルコール・ギャンブル依存症、摂食障害、不安神経症、適応障害等の精神障害をわずらう患者には内観心理療法として、精神的に健康な人には、自己発見・自己改善の方法として、適応されます。
 内観法・内観療法は次の三つのテーマ、①してもらったこと。②して返したこと。③ご迷惑をかけたこと、に沿って、生まれてから現在まで、内観者と内観者の人生に大切な人との関係を調べていきます。
 特別な事情がある場合以外、通常は、母親から始め、父親、祖父母、兄弟姉妹、配偶者、子供……と相手を変えて、年代順、(例えば、0歳から7歳、8歳から15歳、16歳から23歳)、というように区切って、その人と出会ってから現在まで、あるいは、その人が亡くなるまで、時代をさかのぼって調べていきます。
 1時間か2時間に一度、面接者が内観をしている人のところに来て、今までの時間は、いつの誰に対して、どのようなことを調べていたのかを尋ねます。内観者の報告後、面接者は、次は誰に対するいつ頃の自分について調べるようにと、テーマを与えて、去っていきます。内観療法は、大きく分けると、内観療法が受けられる研修所や病院などの施設に入って、1日約15時間、一週間、外部からの刺激を一切遮断した状態で、この内観のテーマに取り組む集中内観と、日常生活を営みながら、自分で時間を見つけて、内観を継続していく日常内観(分散内観ともいう)に分類されます。
 内観で大切なことは、過去に起こった現在までの出来事を具体的に思い出すということと、相手の立場になって、自分自身のあり方を振り返る、ということです。すると、どのような気づきがあるのでしょうか? 内観の三つのテーマに沿って、自分を振り返ると、こんなことがわかります。「人にしてあげたことは、恩着せがましく、良く覚えている。けれど、人にしてもらったことは、当たり前になっていて、感謝の気持ちすら起こらなかった」「人に迷惑をかけられたことは、調べなくても良く覚えているのに、自分が他人にかけた迷惑は、都合よく忘れ去っていた」「こんなにも家族や周りの人から多くのことをしていただいていたのに、お返ししたことの、なんと少なかったことか」。
 私たちは、普通、自分の都合で物事を見ます。自分に親切な人は良い人だが、そうでない人は、嫌いな人。遠足に行く日に雨が降るのは困るが、晴天が続いて、水不足になるのは困る……。等、自己中心的な判断をしがちです。そして、この自己中心性や、否定的なものの見方が原因で、心の病を発症することがあります。「私かこんなに苦しいのに、人は私を助けてくれない」「お母さんは、私のために何もしてくれなかった」「私がこんなに頑張っているのに、人は認めてくれない」「私は人からうっとうしがられているのではないか」など、と。
 しかし、内観が深まると、この「私が、私が」という気持ちが大きく変わっていきます。ここに、内観ならではの、認知の大転換がおきます。人は普通、「楽しかった、嬉しかった、悲しかった、悔しかった」等の、自分の感情で物事を評価します。しかし、内観は具体的に起こった事実を思い出して、調べていきますので、感情に翻弄されずに、自分の自己中心性や、歪んだものの見方に気づきやすいのです。
 怒り狂っていたような出来事や、辛い思い出さえも相手の立場になって、客観的に自分を調べると、ものの捉え方が広く、洞察が深くなり、それまでと違った角度で、物事が見えるようになります。過去は変えられなくても、過去の見方は変わる。すると、その後の行動や生き方が変わってきます。・・・・」(雑誌「大法輪」2011年7月号P66より)

この方法はなかなか面白い。よく若い人がキレることがあるが、そんな人にもこの方法を勧めたいな・・・。
しかしこの記事からも、自分を客観的に見ることが、いかに難しいかを認識させられる。人間は原理的に自己中心的な存在なのかも知れない。つまり、原理的に“「私が、私が」という気持ち”なのだろう。

ところで自分は???
前にも何度か書いたが、子どもの頃、一番“憎い”のは親父だった。つまり、当時の自分は「人類のテキは“親父”だ~!」が合い言葉であり、生き甲斐(?)だった。それに対するテキの言葉は、「**(=自分の名)は感謝がない」・・
それから幾多の年を経て・・・、今の感想は??
結論⇒「親父の指摘は正しかった」・・・・

ウーン。これは認めざるを得ない・・・。
上の記事の「人にしてあげたことは、恩着せがましく、良く覚えている。けれど、人にしてもらったことは、当たり前になっていて、感謝の気持ちすら起こらなかった」「人に迷惑をかけられたことは、調べなくても良く覚えているのに、自分が他人にかけた迷惑は、都合よく忘れ去っていた」「こんなにも家族や周りの人から多くのことをしていただいていたのに、お返ししたことの、なんと少なかったことか」という言葉が、自分には何とも重たい・・。
ではどうする・・・・?
親父がまだ生きていれば、何とでもなるが、10年以上も前に死んでしまった。
あとは、あの世で、もし会えたら、「負けた」とでも言おうか・・・(この素直でない態度・・・!悟りの境地にはほど遠い自分ではある。⇒やはり「負けた!」)

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