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2011年6月 7日 (火)

昭和45年の出来事(23歳)~菅原洋一の「誰もいない」

自分が生まれてから順に、その年の出来事を辿るシリーズの24回目。自分が22歳から23歳、つまり大学4年生からサラリーマン1年生になった昭和45年(1970年)の出来事を調べてみる。

この年は自分の就職の年。新入社員教育のため、3月末に横浜の新子安の寮に入った。同室の人は、確か四国の人だった。でっかい寮で、風呂も広かった。スーツ姿で、4月1日に川崎の体育館で行われた入社式に臨んだ。あの光景は未だに覚えている。出身地により北から順に並ぶ。その数は1000人も・・・。右隣は北大出のやつ。夕方、自分のような“お上りさん”には珍しかった川崎の街を何となくさまよっていたら、ちょうどその男に会い、一緒に喫茶店でお茶を飲んだ。その男とはそれ以来の付き合い。もう40年以上だ・・・。

この1年間は中身の濃い1年間で、色々なことを覚えている。まずは新入社員教育。10人ずつのグループに分かれて、工場での実習、販売店実習、富士山麓の教育施設での研修など、2ヶ月間の教育だった。そして、配属に向けての、社内の部門の紹介。自分の方向は決まっていた。趣味の音楽と、オーディオの電気を合体すると、それはステレオ・・・。
それが、土壇場になって心変わり。アマチュア用よりプロ用の方が面白いかな?・・・というワケで、プロ用のオーディオシステムの世界を目指して、八王子の方の工場に配属された。第一希望に配属されたのはラッキー。まあ行ってみると、目指していたものとはチョコッと違ったが、幸か不幸か、入社した時の担当機器が、還暦を過ぎても自分の人生に影響を与えるとは思わなかった。これは事後談である。
6月にその工場に同期40人とともに配属され、半数以上が新築の寮に入った。同期の連中がずらっと並んだ寮生活は、なかなか面白かった。でも寮に食堂が無かったので、食事はほとんど会社の食堂・・・。まあそれは味気なかった。

給料4万3円の社会人になって、4月に初めて買ったのが菅原洋一のLPだった。「今日でお別れ」が目当てだったが、ちょっと編曲が違っていた。そのLPに入っていたのが「誰もいない」「芽生えてそして」「知りたくないの」等々。前年の昭和44年の発売だが、今日は「誰もいない」を聞いてみよう。

<菅原洋一の「誰もいない」>


「誰もいない」
  作詞:なかにし礼
  作曲:大六和元

誰もいない 誰もいない
長い長い 孤独の夜よ
寒い心に ひざかけまいて
宛名のない 手紙を書くの

誰もいない 誰もいない
信じられない 手品のようね
レースをあんで あんではほぐし
針の止まった 時計を見るの

誰もいない 誰もいない
遠い遠い 想い出だけね
涙をかくす マスクをつけて
終わりのない 本を読むの
本を読むの

この年の一大イベントは、大阪万博。自分も大阪のユースホステルを使って、入社前の春S45 休みに行った。もちろん最初に行ったのが、自分がこれから入る会社のパビリオンだった。なぜか誇らしかった。前途洋々たる(←これ勘違い!)スタートの年であった。(写真はクリックで拡大)

この年の出来事としては、日航「よど号」事件(3月31日)、日本万国博覧会開催(3月14日~9月13日)、三島事件(11月25日)など・・・。
日本の人口が1億人を越えたのもこの年。
S451 テレビ番組では、「樅の木は残った」「時間ですよ」「あしたのジョー」・・・
そしてこの年の歌謡曲では、「あなたならどうする(いしだあゆみ)」「圭子の夢は夜ひらく(藤圭子)」「希望(岸洋子)」「経験(辺見マリ)」「京都の恋(渚ゆう子)」「男と女のお話(日吉ミミ)」「手紙(由紀さおり)」「走れコウタロー(ソルティー・シュガー)」「秋でもないのに(本田路津子)」「雨がやんだら(朝丘雪路)」「誰もいない海(トワ・エ・モア)」「京都慕情(渚ゆう子)」等々。

とにかく出張も含めて、毎日が忙しく、夢中に過ぎた去ったサラリーマン1年生だった。

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