「無明」~般若心経に学ぶ発想の転換(2/4)
「雑誌「大法輪」に「般若心経に学ぶ発想の転換」という記事があった。この記事の一部を、4回に亘って読んで行こう。今日はその第2回。
「般若心経に学ぶ発想の転換
篠原鋭一(成田市・曹洞宗 長寿院住職)
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生きている内の「般若心経」
私は名刺の裏に次のように書いています。
「お寺には生きている間においで下さい。死んでからでは遅いのです。“仏教”はより良く生きるための“生き方”を説いています。生きている間に学び実行して下さい。死んでからでは遅いのです。」
般若心経の教えも生きている内に人生に活かさねば全く意味がありません。
そこで、紙面の都合もあり、論理的にお伝えすることのできない私の力不足もありますから、各段の文言を、感性で語らせて頂きます。
各段と言いましたが、このお経は大体次の四段落に分かれていると受けとめて下さい。
第一段は「観自在菩薩」から「亦復如是」まで・・。
第二段は「舎利子是諸法空相」から「以無所得故」まで・・。
第三段は「菩提薩捶」から「得阿耨多羅三貌三菩提」まで・・。
第四段は「故知般若波羅蜜多」から終りの「般若心経」まで・・。
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第二段
舎利子是諸法空相 不生不滅不垢不浄不増不減 是故空中無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得以無所得故
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「無明」は尽きることはないけれど・・・。
「無明」とは光がなくて足元が暗く、暗やみをさまよい、不安と恐怖においこまれることです。真の生き方を知らない「無知」からくる絶望と言ってもいいでしょう。これが次から次へとやってくるのです。
この断ち難く尽きることのない「無明」の鎖を断ち切るためにはどうすればいいのでしょうか。
実は「無明」は尽きることのない欲望から出ているということに気づくことです。
そしてこの欲望にブレーキをかけることにより「無明」の鎖から解きはなたれることを自覚することです。そして誓うのです。誓ったならば実行して下さい。
「仏教の戒め」
生きものを殺さないとみずから誓います
与えられないものをむさぼり取らないとみずから誓います
欲するままにみだらなおこないをしないとみずから誓います
嘘をつかないとみずから誓います
無明なる酒を飲まないとみずから誓います
こんな質問を頂きました。
「生きていると苦しいことが多過ぎて、ときどき『死にたい』『消えたい』という気持ちが湧いてきます。」
生きていくことは、
思うようにならないことの連続です。
誰もが苦しみを抱えて生きています。
けれども人生は、
苦しみばかりではありません。
畑にまいた種に辛抱強く水をやっていれば、
いつか必ず芽が出て花が咲き、
実をつけるときがやってきます。
けれど「どうせ芽なんか出ない」と決めつけて
畑に水をまかなければ、
いつまで経っても芽は出ません。
人生も同じこと。
未来を信じて、
今日をせいいっぱい生きてください。
するときっと未来が変わっていきます。
苦しみの数以上に、
幸せを得ることができます。
(雑誌「大法輪」2011年5月号p55~59より)
「無明」とは無知のこと・・・。狭い意味での無知について思う・・。
図書館や書店に行くと、良く分かる。世の中の知識の膨大さを・・。
そして、そんな世の中の知識のうち、自分が体験し、自分のものになっている知識が、どれだけちっぽけなものか・・・。
それが分かっていながら、なかなか知識は増えない。これらは勉強という言葉とは違う。最近、それは「興味」という事ではないかと思うようになってきた。
カミさんが最近心配して言う。「アナタみたいに家に閉じこもっていることが好きな人は、会社という“行く場所”が無くなったとたんに、精神的におかしくなるのでは・・? 何よりも、あらゆる事に興味を示さねばダメ!」
ナルホド・・・・
でも興味は、意志の力でどうにかなるものではない。自分の心から湧き上がってくるもの。
でもそう言っていては“開き直り”であり、前進しないけど・・・
上の記事では、“「無明」は尽きることのない欲望から出ている”と説く。
(まあ、興味も“知識の欲望”だけど・・・)
“真の生き方を知らない「無知」からくる絶望”か・・・・・
真の生き方とは??? さてさてこれからの人生、どう生きようか・・??
(毎回、このテーマは難しいので明日に回している。今回も明日に・・・・。ヘヘヘ・・・)
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