静岡に伯母の納骨に行く
今日は、3月9日に亡くなった伯母の納骨のため、静岡まで行ってきた。
久しぶりの新幹線である。思えば、新幹線には無数に乗ったが、個人的に乗ったのは数えるほど・・・。今までの殆どがビジネスだった。しかし新幹線は速い・・・。
今日は、何とか天気が持ったので、富士山が見えるかと期待していたが、曇っていて見えなかった。残念・・。
静岡駅で新幹線から在来線に乗り換え、東海道線のある駅で、お骨を持って車で先に行っていた弟夫婦と待ち合わせ。昼食後、お寺に・・・。昔故人と縁のあった人が数人来てくれて参列してくれたので、有り難かった。
伯母は、若い時に夫に先立たれ、養子の息子も、音信不通だったが4年ほど前に亡くなった。よって身よりは、妹であるウチのお袋と、我々甥っこしかいない。それで甥の我々がお骨をお寺に納めに来たというわけ・・・。
特養で亡くなったあと、直葬にして、納骨の今日、住職さんのお計らいで、葬儀と四十九日の法要をして頂いた。そして納骨。
ここお寺は、浄土宗。仏説観無量寿経を唱えていた。お経の声の素晴らしいこと・・・。
でも正坐には参った。慣れているはずの正坐。しかし今日は直ぐにしびれてきて・・・。すると、後の座っていた地元の人が、小さな椅子を持って来てくれた。それで何とかしのげた。いやはや葬儀の場での阿弥陀さまの出現であった。
伯母は結婚してからこの静岡の地に住み出した。姉や兄が早世しため、実質的な長女的な存在だったので、婿養子をもらって本家を継ぎ、夫が亡くなったときに、長崎から代々のお墓をこの静岡に移したという。しかしその本家のお墓も、もう後を継ぐ人は居ない。これで終わる・・・。当面は、その妹であるウチのお袋が面倒を見ることにして、時間稼ぎをすることにしたが、いずれこの墓は無縁化する。
しかし95歳は大往生。でも伯母の人生は、家族的には寂しかった。伯母は、息子が成人して家を出た後、妹を頼っ茨城のウチのお袋の近くに引っ越してきた。そして寮の賄い婦やスーパーの総菜作りなど、色々な仕事を長くやって一人で暮らしていた。しかし、十数年前にウチの親父が亡くなったのを機に、お袋と一緒に住み始めた。我々息子どもにとっては、姉妹二人で暮らしてくれることは、何よりも心強かった。
その伯母も、4年前、90歳の時に玄関先で転んだことをキッカケに、1週間の入院ですっかりおかしくなってしまった。つまり痴呆が始まってしまった。老人にとって、一人での入院は絶対にダメ。でも何とかその後特養に入れて、大往生が出来た。
葬儀で住職が言っていた。人間には2つの死がある。一つは肉体が滅んだ時の死。もう一つは、自分の記憶が全ての人の頭からか消え去ったとき・・・。今は、第一の死。
葬儀が始まる前、参列してくれた地元の人に「この街には子どもの時や学生の時に良く立ち寄った」という話をした。「この伯母ちゃんには、子どもの時にいつも小遣いを貰った。学生の時に、旅行に行っても、必ず帰りに立ち寄った。そしていつも小遣いを貰った。お金のない子供の時に、その小遣いがどれほど有り難かったか・・・。だから、大人になってもその恩は決して忘れない・・・」。
すると、地元の方が「うちも小遣いをあげておかなくては・・」と笑っていた。
よって、伯母の葬儀などで色々動くことについては、まったく違和感がない。昔の恩が今も我々の心に生きている。つまり昔の恩返しなのかも知れない。
子どもの時の付き合いの形。それは一生付いて回る。伯母が子どもの時に、色々と可愛がってくれた恩は、晩年になって、皆で特養に入れるように活動したり、お墓にきちんと埋葬したり、それらはみんな伯母の徳・・・・。結局、昔自分のしたことが自分に戻ってくる・・・
話は飛ぶが、この街の寂しいこと・・。“村人発見”が出来ないのである。14万人の立派な市。確かに市街はいちおう立派。でも店が無い。あっても開いていない。だから「駅前でお茶でも飲もうか・・」と言っても、店が見つからない・・・。
結局、お茶も飲まずに駅前で弟夫婦と別れた。地方都市はそんなものか・・・
ともあれ、震災直前に亡くなった伯母の葬儀も何とか終わった。まさに数少ない身寄りによって・・である。しかし、老人になると頼れるのは血縁だけ。よって、家族は大切なのである。それなのに、家庭を持たない若者が増えるとは何事か!!
・・・おっと、またその話か・・・・・。そろそろオシマイ・・・。
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コメント
いつも拝読しては感嘆したりしています。弔詞にならぬつぶやきなど書かせてください。
いつか、花巻・釜石間を鉄道に乗ったとき、合歓の木の花がいっぱい咲いて、むべ可憐で 宮沢賢治の「星めぐりの歌」が流れていたことを想い出します。あの季節、沿線の天地は明るく海も輝いていました。平和によみがえる松林に波の言葉が優しい近未来を願います。
さて、芥川龍之介は、痛々しい「或阿呆の一生」の冒頭に、二十歳のとき、本屋の二階の梯子に佇んで「人生は一行のボオドレエルにもしかない」と思った、と述懐しているようですが、小生六十半ばになろうとして、人生は森田童子の歌の一節にもしかないのでは、と感じることがあります。「たとえばぼくが死んだら そっと忘れてほしい 淋しい時は ぼくの好きな 菜の花畑で泣いてくれ」。童子が歌うその声は、言葉を残すことなく亡くなっていった友へのレクイエムとも、過ぎ去っていこうとする自らの青春の挽歌とも、あるいは時代に挫いた若気を傷む歌とも 聞こえてくるようです。
戦後の混沌の時代(小生ども小さかったころ)に、十七歳で逝った長澤延子氏が前の歳に書いた「別離」のメッセージも哀切です。「…友よ/私が死んだからとて墓参りなんかに来ないでくれ/花を供えたり涙を流したり/私の深い眠りを動揺させないでくれ……友よ/私が死んだからとて/悲しんだり哀れんだりするのは無用なのだ/私にひとかけらの友情らしいものでも/抱いてくれるのなら/それはただ私を忘れて立ち去ることだ……友よ/別離の時とはまことにある/朝が来たら━/君らは私の名を忘れて立ち去るだろう」。背伸びしない青春はない、と言われます。人生航路それぞれあって、航跡は消えていきますが、思い出のために生きる、と言う人もいるのではないでしょうか。いつの間にか老いが懐っこく背景を彩るようになってきても、希望は必ずあると思います。見つかるように少し努力するのかも知れません。
ふるさとは、空き家が目立つそうです。今日あたり盆に合わせて集まる人たちが、年月がたちいつか帰れなくなると、先祖の墓はどうなるのでしょう。中学のとき、ろうそくを点しに樹々が鬱蒼と茂る夕暮れの墓地に通ったことを憶い出します。よし展墓に行く人がきれても、たとえ墓がなくなっても、つながっているものがあると信じます。先人が伝えてきた辞世かなと記憶に残っていた歌は、ネットで探索してみると、岡倉天心が心交あったインドの婦人に遺した英詩が元にあるようです。昔を偲びつ 紹介させてください。亡くなられた方を若返りしながら思い出すのは生者の慰めになることですね。近しい人ならなおさらと思います。ご冥福をお祈りします。
我死なば 花な手向けそ
浜千鳥 鳴きかう声をしるしにて
落ち葉の下に 埋めてよ
十二万年 明月の夜
訪ひ来ん人を まつのかげ
【エムズの片割れより】
一月前の義姉の死から、何だか死ということが身近に感じられるようになりました。
森田童子の歌は、まさに20代のときの歌。死を感じるには少し早い気がしますが・・・
明日(8/15)は、親父の命日。段々と、何年目か分からなくなってきました。
お盆ですね。夜、散歩に行っても電気の消えた家の多いこと・・・。郷里がある人は、少なくても一人ぼっちではない・・・。それを無性に意識するこの頃です。
投稿: 植松樹美 | 2011年8月13日 (土) 09:45