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2011年4月17日 (日)

計画停電~「独占」の弊害をなくす契機に

今日のニュースでは、東電が原発事故収束に向けて工程表を出したという。福島第1原発を安全な状態にするまでに6~9ヶ月・・・。「正月になってしまう・・」という住民の声や、「そんな事では済まないのでは?」という声・・・。
一方、何とも不平等だった“計画停電”という言葉が段々と遠くなって、何よりだ。やっと平静を取り戻した。そう言えば、この計画停電について、見事に喝破した論が先日の朝日新聞にあった。少し振り返ってみよう・・・

「“独占”の弊害をなくす契機に
    経済学者 八田達夫さん
 東京電力の計画停電は、とんでもない「無差別停電」だった。原則廃止を決めたのは当然だ。
 そもそも電力会社は、大口需要家の企業と需給調整契約を結んでいる。電力を安く販売するかわりに供給能力が不足したら節電を求めるものだ。これを徹底して行使せず、一般家庭の電力を一方的に切り、信号機や電車、病院など社会インフラの電力を切った。町工場や商店も大混乱した。いくら緊急事態でもこれは許されない。
 もし需給調整契約で不十分だとわかったら、経済産業省は震災直後から電気事業法第27条を発動し、東電の大口需要家に電力の使用制限を命令すべきだった。違反すれば賦課金もかけられるので、計画停電は避けられた。経産省はいったい何をしてたんだろう。
 近年、商社やメーカーが電気を供給する企業を設立し、電力市場に参入している。ところが、計画停電で東電はこうした企業の顧客への電力も切った。送電線には何の問題も起きていない。顧客に電力を送る託送の中立を義務付けている電事法に従えば、他の発電事
業者の顧客に迷惑をかけるべきではなかった。日本卸電力取引所での東電管内取引が震災後、停止しているのも奇妙なことだ。
・・・・・・(略)・・・
 需給に応じて自動的に電力節約を促すためには、多くの発電会社による競争によって、時間ごとに細かく形成される電力価格が、安定供給に中心的な役割を果たす制度にする必要がある。そのためには発送電の分離と、発電会社の分割が不可欠だ。
それができていないのは、電力会社の独占力のためだ。私は経産省総合資源エネルギー調査会の委員を長年つとめた。そこで感じたのは、さまざまな癒着ともたれ合いの構造だ。
 電力業界は会社と労働組合の集票力によって政治に影響を及ぼし、役人を天下りで受け入れ、官僚と癒着した。世論形成に影響のあるテレビ番組のスポンサーにもなっている。電力の発送電一貫体制を分割することは、この地域独占を破壊することになる。
 欧米並みの制度をまず東電の区域に導入すべきだ。原発被害への賠償に対する国の補助と引き換えに、東電をいったん国有化する。その後、発送電を分離し、発電会社は複数に分割する。いったん国有化することは、発送電分離を可能にする上で重要だ。
 欧米では、政府が電力会社から料金を取って原発の使用済み燃料を最終処分する仕組みだが、日本ではそうなっていない。これでは費用がわからず、原発を推進すべきか否か経営判断できない。
 こんな制度では、国と電力会社が責任を押しつけ合って、問題を先送りするだけだ。東電から原発を切り難し、政府の管理下に置くべきだ。責任を誰が取るのか、あいまいなのが一番いけない。」
(2011/04/12付「朝日新聞」p15より)

しかし今回の停電には参った。昔はカミナリが落ちるたびに停電になったもの。それが東電では、電柱の上にある“お釜(開閉器制御器)”のお陰で、もし電線の切断などで電源が切れても、逆方向からの送電で停電は瞬時に回避される仕組みが定着し、停電はほぼ皆無になっていた。それだけに参った・・・

それに、今回の計画停電で死者が出たのは痛ましい。
「信号が消えた交差点で、出会い頭に車両同士が衝突する事故が16~22日に計6件発生し、神奈川と群馬で2人が死亡、4人が重傷を負った。」(2011/04/18付「日経」p30より)
それ以外でも、酸素吸入器が止まって、停電後に死亡したり、ローソクが倒れて火事になって死亡したりで、何人もの死者が出ている。
東電・政府は、死者が出る事態まで“想定”して、計画停電を始めたのだろうか・・・
一方、福島第1原発の事故では、“死亡者ゼロ”と政府・東電は声高らかに謳う。何かヘンだ・・・

長くなって恐縮だが、同じく朝日新聞の天声人語にはこんな記事が・・
「震災のずっと前だが、新橋の立ち食いそば屋で照明が突然消えた。電気を使いすぎたのか、ライスジャーを二つとも切れと店長が叫んでいる。なるほど、ご飯の保温より電灯や券売機が大切だ。納得してそばをすするうち、明かりと客足が戻った。
電気の使い道には優先順位があり、不要不急が多いほど節電の余地も大きい。そういえば、照明を落とした地下鉄の駅こそパリの明るさだと、仏語教師が懐かしがっていた。あちらが暗いのではなく、震災前の東京が明るすぎたのだ。
「ここ10年、けばけばしく外壁を照らす店舗が増えました。オフィスの照度も千ルクスと過剰。就寝時の闇との落差が大きすぎて、安眠できない人がいるほどです」。照明デザイナー、石井幹子さんの指摘だ。
石井さんは岐阜の世界遺産、白川郷を照らすにあたり、10ルクスを確保できる光源を用意した。それも万一の消火活動に備えた明るさで、通常は雪明かりの趣を損ねない1ルクス。都会とは桁がいくつか違う。夜道も3ルクスあれば、近づく人の悪意を10メートル手前で読み取れるという。
夏の大停電は、大節電で防ぐほかない。政府は、大きな工場やビルには25%、家庭にも20%の節減を求めるらしい。需給の見通しを日々伝える「電気予報」も検討されている。
町工場や病院を泣かせる計画停電ながら、あえて功を探せば節電意識の高まりだろう。節電とは皆が「そば屋の店長」になること。照明も空調もほどほどでいい。「輝ける都市生活」を、薄明の下で省みたい。」(
2011年4月8日付「朝日新聞~天声人語」より)

我々の家庭で、電気を無駄遣いしていないかと聞かれると、“していない”とは到底答えられない。
従って、どの家庭でも「半分にしろ」と言われると不要不急の電源を切って、必要最小限にする事は出来る。でも今回のように、一方的に電源を切られると、東電に対する反感だけが残って、節電の努力をする気そのものが失せてしまう。
TVで、どこかの家で、電源が切れた瞬間、「アッ」という声だけが残った黒い画面を放送していたという。
それでいて、電力使用実績のグラフを見ると80%台。これが95%以上であれば、仕方がないと諦めも付く。よって、それこそ“計画”的に、機械的にバシバシ切るのではなく、ギリギリまで使用電力の状況を見ながら、95%を過ぎた時に、必要最小限のエリアに絞って実施する事が出来なかったのか・・・。素人的には、そう思える。
東電も拙速で、“歴史に残る”愚行を重ねたものだ。
先ずは試練のこの夏。社会全体で智慧を絞り、何とか停電だけは避けたいもの。

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