国立に桜を見に行った
やっと少し心に平穏が戻ってきたので(震災とは関係ないが)、カミさんに誘われるまま、今日は国立に桜見物に行ってきた。(国立は「こくりつ」ではない。国分寺と立川の間にある「くにたち」である)
駅はまだ工事中。駅を降りると、桜の木が一杯・・・。それにチューリップなどの花も咲いている。駅前の通りが、実に良く手入れされた花壇なのだ・・・(写真はクリックで拡大)
駅前の通りが、ずっと先まで桜の木・・・。何本あるかは知らないが、まさに整備された桜並木だ。少し歩いて行って、横断歩道から先の方と、振り返って駅の方を撮ってみた。道に沿って歩いていると、チリンチリン・・・。自転車だ。ふと気が付くと、自分たちが歩いていたのは、どうも自転車専用の通路らしい。「逆送禁止」という看板。それに駅に近い道の側に、かなり広い自転車置き場。市が市民に開放しているらしい。留めている自転車の数は、数え切れないほど多い。どうもこの街は、自転車天国のようだ。
その自転車置き場の先に大きな門。そうか、これが天下の一橋大学か・・・。おっと、左手にも門がある。そっちに行ってみると、“入る人は一声掛けて”という看板。どうも中に入れるようだ。・・・と中年のおばさんがしゃべりながら堂々と入って行く。つられて我々も構内に・・・。立派な庭。立派な堂々とした建物。奥にはテニスコートがあった。
でも人影は少ない。まだ学校が始まっていないのか?それともこちらの敷地は教室が無いのかな・・・。でも自転車で走っている若者が多い。みんな一橋の学生??
帰りみち、モズバーガーによる。さすがに規模が大きい。外はまさに“桜吹雪”・・・
隣の席には、大学の先生とおぼしき男性が女子学生二人と何やらしゃべっている。若い女性は、頭が良い上に、キレイ・・・。
ひょんな事からの桜見物。でも今日は、少し葉桜になりかけていた。もう1週間早ければ、一番キレイだったかもね・・・・。
しかしこの桜並木の整備は、サクラの開花のたった1~2週間のために行われているわけで、たぶん裏には大変な苦労があるのだろう。
時計をまったく気にしないサクラ見物・・・。実に“幸せな状態”ではある。
平日だったので、それほど混んでいない駅前通り。もちろん元気な“おばさん連れ”や、初老のご夫婦の姿もチラホラ・・・。それらの人は、みんな幸せなのであろうと思った。つまり、桜見物に行こうと思える人は、みな幸せなのだ。心配事がある人は、到底心にそんな余裕はない。
“何も無い”ことの幸せを、改めて実感したサクラ見物ではあった。
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コメント
四月一〇日の日曜、盛り上がらない都知事選挙の投票に行った足で国立大學通りの桜を小生どもも見に行きました。大學の正門が開いていましたので兼松講堂の前の芝生の中のベンチに座り弁当にしました。学内の桜は少し遅咲きのようでした。正門近くのしだれ桜を背景に写真を撮りました。お写真3列目左の桜のようです。家内は写真の映りが悪いと撮り直しを命じるのですが、このときはNGがありませんでした。桜に気持ちを寄せる日本人は多いと思います。中国は桃の花なのでしょうか。九世紀の唐の詩人干武陵の勧酒を井伏鱒二が意訳したのが有名ですね。コノサカズキヲ受ケテクレ ドウゾナミナミツガシテオクレ ハナニアラシノタトヘモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ これに対して千年以上後の寺山修司は、さよならだけが人生ならばまた来る春は何だろう/……/さよならだけが人生ならば人生なんていりません と諧謔をもって人生を肯定しているようです。二十二歳のとき、カルメン・マキの「時には母のない子のように」の歌を初めて聞いたとき、思わず目のやり場に困ったことを思い出します。東京プリンスであった国際会議の応援に行っていた秋の日、流れてきたその歌詞に頭を殴られたようでした。小生の母は四五歳で病気に倒れ五三歳で亡くなりました。無縁坂やおふくろさん等の歌は嫌いです。それから、大學通りを歩いてやがて道を桜通りに折れて、桜のトンネルを抜けて行きましたが、人々は静かで表情がないようでしたね。今まで会った花で印象に残っているのはと尋ねられたら、西行ゆかりの弘川寺の奥山に散っていた山桜を想い出します。年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず(劉廷芝 初唐の詩人)この原詩から違訳すると、紅顔の美少年よ聞きなさい 若い時はあっという間に過ぎるぞ 自分はもてるとうつつを抜かす閑があったら 身をつましくして老いた時に慰めになるように 今のうちに真理を究めておきなさい としたいのですが…。素直になると一休和尚が言われたように、先ず年寄りが死んで、次に子供がなくなって、大きくなった孫が「おじいちゃんは偉そうなことを言っていたなあ」と思い出しつつ、未来に向かって生きようとしているのが人の世の幸の典型かもと思われます。私ごとを重ねますが、次兄は四国の高速を走行中事故に遭い、意識は多少回復したものの植物人間状態となったままです。船乗りだった次兄は独り身で、病院の世話は長兄夫婦がせざるを得ません。二人は八十近く、足腰が立たなくなってきたと電話で嘆いています。昨年末次兄は肺炎になり危篤状態でしたが、回復し今はもとの長期療養型病院に戻ることができました。現実を気分が落ち込まないようにどう受け入れていくか。御ブログが向きあっている老・病・死の問題は重たいと思います。
震災以降「ほんの二つで死んでゆく」をよく聞かせていただきます。仙台には恩師、知人が、南相馬市にもお世話になった人がおられます。が、お見舞いさえ書いていません。津波の衝撃は、鎮魂の言葉も見付からないうちに、少しずつ過ぎて行くようです。
【エムズの片割れより】
カミさんが、「本文よりも頂いたコメントの方がよっぽど良い」と・・・。トホホ・・
次兄さんのお話は、身につまされます。人生、エンディングがなかなか難しいですね。
投稿: 植松樹美 | 2011年4月15日 (金) 19:24