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2011年3月 4日 (金)

「ご馳走さま」の仏教思想(5/6)

雑誌「大法輪」を読んでいたら「日常語に含まれている大切な仏教思想」という記事があり、心に留まった。その全文を6回に亘って読んで行く。今日はその5回目。

日常語に含まれている大切な仏教思想
      大本山護国寺貫首 岡本永司

私たちが日常使っている言葉の中に深い仏教思想が含まれていることが多くあります。その一端をご紹介させていただきます。
・・・
「ご馳走さま
第5番目は「ご馳走さま」という言葉であります。有り難く食事をいただいたあとに「ご馳走さま」と言って箸を置きますが、この文字は馳は馬に乗ってかけまわるということ、走はあちこち走りまわるという意味になります。この言葉にも仏教の人や物に対する深い意味が込められております。
私たちは前述のように自らの生命を保っていくためには、他の生命をいただくほかありませんと申しました。
しかしそうした食材は自然に湧いてくるものではありません。世界中あちこちで生産されている食料をさがしまわり走りまわって見付け集められて私たちの所に届けられるのであり、それらを生産する人や運ぶ人や物、更にはその食材をいろいろ考え料理する人々は数え切れないほど大勢おります。そうした大勢の人々の大変な努力によってはじめて私たちのいのちが保たれているのであります。その大きな働きに謝意を表する意味で食事の終わりに心から「ご馳走さま」と申すことになります。
私たち僧侶が一定期間行をするとき、食事をいただく折「五観の偈」という五ヶ条の句を唱えます。その第一は「初めには功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)るべし」とあります。まずこの食をいただくに当たっては、この食材は天地万物の恵みとここに至るまでの多くの人々の労苦によってなりたっているのであることをしっかりと思いなさいということであり、その第四には「四つには正しく良薬を事とし、形枯(ぎょうこ)を済(すく)わん事をとれ」とあります。これは今いただく食事は唯空腹を満たすためのものではなく、大切な自らのいのちを保つための良い薬をいただくのであるとの思いで食べ、肉体を枯死(こし)から守る程度にしてとどめ、過食を戒めております。「ご馳走さま」にはこのような思想が織り込まれております。」(
雑誌「大法輪」2010年11月号p26より)

日常、何気なく使っている言葉も、調べてみると深い意味があるようだ。我々はそれを知る事もなく、長い間“何となく”使っている・・。でもたまにはその語源を認識するのも、良い事では・・・?

「頂きます」「ご馳走さまでした」・・・
これを言う習慣が身に付くかどうかは、まさに子供の頃の親の躾の問題・・。小さい時からキチンと躾ければ、その言葉の深い意味は分からなくても、“食べられる事への感謝”だということは、幾ら小さい子どもでも分かる。自分はどうだったか・・・。食事の前の「頂きます」は親に躾けられたように記憶している・・・・。たぶん必ず言わされた・・!?

それで、自分の子どもに対してはどうだったか?食事の前後に必ず「頂きます」「ご馳走さまでした」を言うように、躾けたか?? どうも疑問だ・・・。特に子供が思春期の“面倒くさい”時期には、たぶん逃げたと思う。ピリピリした思春期の子供への躾は、どこも大変だ・・・
それもあって、「“頂きます”という意味は・・」という話をしたかどうか・・・。たぶんしなかったな・・・

自分が小学校高学年から中学の頃、夕食の後に必ず兄貴と二人で正座をさせられ、親父から「説教」を“頂いた”。どんな説教話だったかは完全に忘れたが、その正座の場面だけは未だに目に焼き付いている。あまり良い思い出ではない。足がしびれ、長~い「お説教」・・・
思春期に近かった自分の心の中は、ただただ“反感”だけ。「立て膝で食事をしている親父に、そんなエラそうなことを言う資格があるのか?」と・・・。(ぶん殴られるから、口には出さなかったが・・・)
黙って聞いていたが、自分の目は反抗心で燃えていたはず・・・。口をきかずに黙っていた自分に対して、親父から「お前は感謝が足りない」・・・と毎日毎日言われ・・、数えてみたら合計201134回も言われたっけ・・・。(←もちろんウソ)
思春期・反抗期は、言われれば言われるほど「誰が感謝なんかするものか・・」と逆の行動をするもの・・・。そして力んで、力んで親父と対峙してきた。
いつだったか、体からその力が抜けた時、既に親父はこの世にいなかった・・・・
人間、この力が抜けた時に初めてオトナになれる・・・。(自分がホントウのオトナになれたのはいつだったのだろう・・・)

ところで、今も自分は必ず食事の後には「ご馳走さまでした」と言う。カミさんと外食をした時も・・。しかしその意味する所は、料理を作ってくれたカミさんへの“ゴマすり(=明日もヨ・ロ・シ・ク!)”であり、外食では支払いをカミさんにさせるための“念押し”(=オレは払わないぞ!ご馳走・サ・マ!)なのである。何とも小さい、小さい・・・

ふと、子供の頃のちゃぶ台の風景を思い出す「ご馳走さま」ではある。

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コメント

今晩は
たまたま司馬遼太郎の関ヶ原(文庫)を読んでいたら、当時の武将達は徳川方に味方をするときに「徳川殿に馳走する」という表現をしていたらしいです。岡本貫首の言われる意味でも通用しますが、一方小生は今で言うサービスの意味と解釈しました。小生も大学生の時友人の家で食事をご馳走になり、箸を両手の親指と人差し指に挟んで「頂きます」と言ったら美人の妹に笑われて赤面したことがあります。東京ではそういう所作は豪華な食事の時だけで粗食の時はあまりしないと友人に聞いたが今だに真偽の程は分かりません。

【エムズの片割れより】
コメントありがとうございます。
ちゃんとした挨拶も、相手によっては怪訝な顔をされるもの・・。でも形はどうあれ、「感謝の念」というものは相手に通じるものですよね。

投稿: マロン | 2011年3月 5日 (土) 00:30

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