作詞家・星野哲郎が亡くなった~都はるみの「夫婦坂」
昨夜のNHKニュースで、作詞家・星野哲郎氏が15日に亡くなったと報じていた。85歳。テレビでは船村徹が絶句していた・・・。
だんだんと演歌の大御所が亡くなっていく・・・。ふと、星野哲郎作詞の歌はどんなものがあるだろうと、Netでみてみた。すると、渥美清「男はつらいよ」(1970年)、北島三郎「なみだ船」(1962年)「風雪ながれ旅」(1980年)、小林旭「昔の名前で出ています」(1975年)、水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」(1968年)、スリー・キャッツ「黄色いサクランボ」(1959年)、鳥羽一郎「兄弟船」(1982年)、美川憲一「お金をちょうだい」(1971年)(2010年)、美空ひばり「みだれ髪」(1987年)「塩屋崎」(1987年)、都はるみ「アンコ椿は恋の花」(1964年)「夫婦坂」(1984年)などなど・・・。(←これは皆、自分の聞いている歌から・・・)
今日はそのうち、都はるみの「夫婦坂」を聞いてみよう。
<都はるみの「夫婦坂」>
「夫婦坂」
作詞:星野哲郎
作曲:市川昭介この坂を 越えたなら
しあわせが 待っている
そんなことばを 信じて
越えた七坂 四十路坂
いいの いいのよ あなたとふたり
冬の木枯し 笑顔で耐えりゃ
春の陽も射す 夫婦坂女なら 花ならば
咲くときも 散るときも
見てて欲しいの あなたに
宿命(さだめ)あずけて 暮らしたい
いいの いいのよ 一間の部屋で
あなた待ってる 雪割草も
いつか芽をふく 夫婦坂流れゆく 人の世の
哀しみに 泣いたなら
杖になってね 抱いてね
肩を貸してね 背負ってね
いいの いいのよ ふり向かないわ
曲がりくねった 坂道だけど
ついてゆきます 夫婦坂
今日、会社の帰りにNHKラジオ深夜便「明日へのことば~妻・南田洋子とわたし 俳優 長門裕之」(2010/11/11~12放送)を聞いた。前にテレビでもこのドキュメントを放送していが、認知症を患った妻・南田洋子さんの自宅での介護について、長門さんが色々と話をされていた。その話の中で、南田洋子さんが舅の介護をされたそうで、それを見ていた長門さんは、その介護のやり方をまねて洋子さんの介護をしたとか・・・。もちろん洋子さんを病院に入れる事も出来たが、それをせずに自宅で介護して本当に良かった、と・・・。そして昨年(2009年)10月に洋子さんが亡くなり、ちょうど1年になるが、まだまだその悲しみから抜け出せていない・・・。
この「夫婦坂」ではないが、真の夫婦とは何か?と考えさせられてしまった。マスコミに「おしどり夫婦」とイメージされた長門さん夫婦と違って、我々はある意味何ものにも束縛されない一般の夫婦。その夫婦の関係が、真に表れるのは、まさにどちらかに介護が必要になった時かも知れない。
良く、認知症になった妻を介護するために早期退職をした、とかいう話も聞く。ガンなどと違って、認知症は長期戦。そして老老介護は体力的にも大変だ。
これら二つの話題から、“夫婦の行く末”というものをツイ考えてしまった。
何?ウチ?・・・当然何の心配もないさ!(・・よね?)
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コメント
はじめまして。時々読んでいます。
都はるみ、何年ぶりかに聞けて 丁寧な歌い振りにほんわりさせられました。有難うございます。アメリカに住んでいて 深夜便から流れる歌のようでした。良く眠れそうです。
【エムズの片割れより】
アメリカですか・・・。そちらで都はるみとは・・・。フィットしますか?
投稿: むべ そよ風 | 2010年11月17日 (水) 12:57
たくさんの名曲 わたしの思い出 懐かしいです。私は 10代後半ぐらいの頃 詩が好きで 詩から人生 詩から生きかた 他 を 学ぼうとしていた。
星野哲郎さん ご冥福を お祈りします。
投稿: 村石太マン45歳 | 2010年11月18日 (木) 09:46
こんばんは。都はるみ、がというより 日本の歌は 自然と普段忘れていました。でも日本人であるDNAを歌を聴くと実感しました。昨晩は 山崎ハコの望郷、白い花を聴いていて 突然 青春の頃の日々を思い出して胸にせまるものがありました。大学と就職してからも 東京の目白、落合、雑司が谷付近にずっと住んでいたのですが、もし 帰国できたら 時間を作って あの町の道を歩いてみたいと思いました。 日本の歌をこうやって聴くことができて 夢のようです。 私は60代半ば過ぎ、ハコさんの時代より前の人間ですが とても懐かしいものを感じました。そしてギターの伴奏がとてもよいのですね。
【エムズの片割れより】
パソコンのスピーカーではダメですが、イヤホンで聴くと結構良い音で聞けますよ。アメリカで山崎ハコとは・・・。面白いですね・・・。
投稿: むべ そよ風 | 2010年11月18日 (木) 12:53