森田童子の「地平線」と「狼少年 wolf boy」
最近自分が凝っている森田童子。またまた森田童子で恐縮だが、今日は「地平線」という歌の紹介。
先日、森田童子の最初のアルバムである1975年発売の「GOOD BYE グッドバイ」というLPを手に入れたが、これに入っていたのが「地平線」という歌。先ずは聞いてみよう。
<森田童子の「地平線」>
「地平線」
作詞・作曲:森田童子地平線の向こうには
おかあさんと
おなじやさしさがある
だからぼくはいつも
地平線の向こうで
死にたいと思います地平線の向こうには
ぼくとおなじ
淋しさがある
だから地平線よ
ぼくが目をさまさないうちに
遠くまでつれていって地平線の向こうには
夏の草花が咲きみだれています
だからぼくはいつも
君の胸に抱かれて
眠りたいと思います
(*)
地平線の向こうには
血よりも赤い
夕焼けがある
だから傷ついた戦士のように
故郷を思うのです地平線の向こうには
愛よりも深い
海がある
だからぼくはいつも
地平線の向こうに
沈んでゆきたい地平線の向こうには
おかあさんと
おなじやさしさがある
だからぼくはいつも
地平線の向こうで
死にたいと思います
そして、森田童子最後のアルバムである1983発売の「狼少年 wolf boy」に入っていた「狼少年 wolf boy」という歌が、この「地平線」の替え歌(?)だった。一部、(*)の部分の歌詞が違う・・・
<森田童子の「狼少年 wolf boy」>
「狼少年 wolf boy」
作詞・作曲:森田童子
・・・・
(*)
狼に育てられた
ぼくは涙も笑うことも知りません
だからぼくはいつも
地平線の向こうで死にたいと思います
・・・・
森田童子のディスコグラフィーが(ここ)にある。初アルバムの「地平線」と、8年後のラストアルバムの「狼少年 wolf boy」・・・。この両者にどんな変化があるのか・・・。活動の停止が1983年12月というから、11月に森田童子が「狼少年 wolf boy」というアルバムを出した時には、「これが最後」と認識していたのだろう。
それだけに、この「狼少年 wolf boy」という歌のラストを聞くと、まさに“オシマイ”という感じがする・・・・。
この引き際・・・・。(ここ)にあるように「80年代になると、もう自分の居場所はないと思ったのか、新曲を作らなくなった。その意味では、溶けていくように消えていなくなったというのでしょう」というプロデューサーの言葉を重ね合わせてこの歌を聞くと、森田童子の何かが伝わってくる・・・・。
前に“森田童子の全楽曲をそろえるぞ”と宣言してみたが(ここ)、とりあえず全部手に入れた。しかし数曲は音質に問題がある。でも全曲聴いてみた感じは、どの楽曲も自分にフィットする。このような歌手は自分にとって珍しい。最初に聞いた時は、この歌手は男?女?・・と悩んだのが懐かしい・・・
今でも森田童子のCDはまさにレア。オークションでも、どのCDも非常に高値で取引されている。しかし引退後30年も経って、未だにこれだけ人気を保っているのは、森田童子の何かが、未だに息づいている証拠。
自分は今頃・・・の遅い目覚めたが、高値で森田童子のCDを買っている人は、どのような年代なのだろう・・・・。自分は新米だけど・・・
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コメント
全曲の収集お疲れ様です。驚嘆しております。昨日はTVで広島を再訪しました。ところで、森田童子は十七歳の友が亡くなった、それがきっかけで作曲を始めたとのこと、強烈なことだったのでしょうね。御ブログの読者のなかに詳しい方がおられると思いますが…。阪神淡路大地震の数年後の追悼式に同級生の歌が紹介されたと思い出します。「微笑みかける写真の君は十七歳のまま」微笑かけし、だったかも知れません。エムズ氏の父上が言われた戦争の場合と共通する非条理で奪われた命があります。
寒さ…こんなになってしまいました/私のすがたは/自分で見るのも/恥ずかしいほどです/大切なものは/どんどん失われ/きたないものばかりが心の中に/積もっていくのです/(つづいていく)…昭和39年2月高岡和子さんはこの詩を書いた数日後、茅ヶ崎の海に投身しました。悩んでも青春を生き抜いてほしい。小生の如く老残になっても又然りです。童子の歌は自分を否定する気持ちが悲しく、当時の若者は一緒に泣きたかったのでしょうか。「地平線」のなかで、一行海が歌われています。童子が海を歌っている別の曲も聴きました。海を歌う詩人は多いが現代では中村稔が際立っていると思います。氏が詩作を始めたのは十七歳からだそうです。昭和43年、新聞に初出された作品「海辺にて」を紹介させてください。
日没ー潮がさし潮が岩礁にあふれ
岬の上の空に陽が静止し
みるみるその朱がひろがり 突然陽が沈み
残照が焦がしている雲と波
私はなすこともなく立ちどまり
ふかい藍のなかに空と溶けあう沖を見やり
岬を焦がしている残照をわが焦燥の如く
自分が変身できるかの如く感じ
懐かしい者みなさっていくことを
ついに不毛に終わった私たちの歳月のことを そして
私にだけこの熱い夕暮れが訪れていることを
岩礁にあふれる潮に似た悔いにみたされて
私は佇ちつくす……足許に咲きみだれる
萓草の花あじさいの花ーああ さようなら!
20年後、新しく刊行された詩集をみると、題名は「日没、岩礁のほとりで」と改められ、句読点がついたりしていて、「狼少年」より見直しが多く、もとの方が自分には同感しやすいようです。中村氏の作品には氏の心象にあるのでしょうか,海や波が繰り返しでてきます。失礼ですが二人を比べてみますと、童子は,サングラスに楽器を抱いて彗星の如く現れ好きなだけ歌うと、余韻を残して格好良く消えていった。中村氏は、筆一本(本業は弁護士だが)でいつの間にか巨星としての位置を確かなものにして現代詩の守護神のようになっている。領域は違っていますが、どちらも控えめの姿勢が見えながら、日本の文化、表現芸術世界に強大な足跡を残していますね。中村氏は既にそうですが、後進が氏の後を追いかけていくことです。童子も多くの心酔者たちによって大学院なりで研究されるべきではないでしょうか。事例が重なれば、わが国の大学院の研究がもっと魅力的なものになり、また社会との間に変な垣根のない有用なものになっていくと思われますが。その時は、音源が聴ける御ブログは、資料として貴重なものになると確信されます。御ブログを借りてコメントの枠を超えて、駄文を書かせていただきました。以後反省します。
【エムズの片割れより】
何とも“学術的な(?)”コメントを頂き、コメントが難しいですね・・・。当方、文学的なセンスが無いもので、詩についての考察も出来ていません。
中村稔氏の詩についてもコメントはパス・・。どなたか返信できる方は?
投稿: 植松樹美 | 2010年8月 7日 (土) 11:08
森田童子さんの歌を始めて聞きました。こんな商業主義に毒されていない歌手がいたなんて驚嘆ですね。芸に生きる人々はほとんど商業主義に陥ります。彼女はそれを生涯、潔しとしなかったようですね。本当の表現者なのでしょうね。商業主義とは自分の作品の価値を金銭で測ること(ただし、ここではですよ)を言います。だいたい自分の生涯をかけた作品をお金で値踏みする事は、彼女には耐えられなかったのでしょうね。そんな表現者がいてくれたのはまだまだ日本は見捨てたものではないですね。人の一生はお金では測れません。同じように一生をかけた作品をお金で評価するのは、商売人のすることで、表現者のすることではないと、私も思っているひとりです。
【エムズの片割れより】
森田童子は、自分の住む世界が無くなった・・と、静かに去って行ったようです。
確かに、普通の儲け主義、つまり大衆に受ける歌作りとは一線を画していた歌手・・・。
自分も、こんなトシになって森田童子の色々な歌を聞き込んでいます。
投稿: 普賢 | 2011年8月13日 (土) 17:23