森田童子の「蒼き夜は」
最近、森田童子の歌を良く聞く・・。前にも書いたが(ここ)、森田童子という女性歌手は何とも不思議な歌手・・・・。優しい声だが、テーマは何とも暗い・・・
森田童子の代表曲はもちろん「ぼくたちの失敗」だが、こんな歌も自分には響く・・
<森田童子の「蒼き夜は」>
「蒼き夜は」
作詞・作曲:森田童子春は まぼろし
ふたりは 悲しい夢の中
君と いっそこのまま
だめになって しまおうか
もどろうか
もどろうか
それとも もう少し
このまま 君と眠ろうか春は まぼろし
やさしいばかりの今夜の気持
君は ぼくのひざまくら
眠れそうかい
眠れそうかい
眠れそうかい
それとも このまま
君と死んでしまおうか春は まぼろし
淋しいだけの ふたりなら
何にも 云わずに
せめて 君と軽やかに
踊ろうヨ
踊ろうヨ
それとも このまま
君と落ちてしまおうか
君と落ちてしまおうか
めったに表面に出ない彼女の名前だが、先日の朝日新聞「うたの旅人」に取り上げられていた。テレビドラマ「高校教師」(TBS)の主題歌になった代表曲「ぼくたちの失敗」の話が中心だったが、久しぶりに森田童子の実像に触れた。少し長いが、彼女についてこう書かれていた・・・。
「うたの旅人~森田童子「ぼくたちの失敗」
・・・・
「森田童子」は偽名である。
しかし、本名はいまだに明らかにされていない。人前では黒いサングラスを絶対にはずさなかったので、素顔をさらしてこともなかった。
当時、新しいアルバムが発表されるたびに彼女にインタビューしていた音楽ジャーナリストの富沢一誠さん(59)によると、デビューするまでの遍歴が、固有名詞を交えて事細かに語られることはなかった。
「52年、東京に生まれる。学園闘争の渦中にあった高校時代、ラジオの深夜放送でサイモン&ガーファンクルを聴いていた。70年に高校を中退、暇にまかせてふらふらと旅にでる。72年夏、友人の死を知らせるはがきが届いたのをきっかけに、めまぐるしく疾風のように通り過ぎていった青春を振り返って歌い始めた」
これが、公表された実人生のほぼすべてだ。ただ、富沢さんの記憶から離れないのは、「ありのままの青春」を歌ってはいないのだと、次のように打ち明けられたことだった。
「私の歌は『思い込み』なんだよね。友だちとこんな風に別れたなあ、というのではなく、こんなふうに別れられたらなあという願望。その願望を歌って、それを青春として『思い込む』んだよね・・・・」
森田さんが発表したアルバムのプロデュースを手がけた松村慶子さん(現・ライブハウス「RUIDO」会長)は、デビューする約1年前、知人の紹介で自作曲のデモテープを持参してきた彼女は、人前で歌うつもりは、まるきりなかったという。
「本人は髪型をポニーテールにして、どこにでもいる少女のような印象でした。でも作品には、聴いているとイメージの扉を開かれて慰撫されるような唯一無二のフィーリングがあったので、絶対に何かある、これは行ける!と直感しました。ただし、その独特の世界は本人が歌わないと響いてこないので、あんたが歌ったほうがいいと説得したんです」
サングラスは心ならずも、みずから表現者となるための武装だった。「私に対しても、ほとんど私語を発しない。浄化された世界を表現した作品に自分の生活感をにじませないために、余計なことは聞いてもらいたくないと思っていたようです」
ライブハウスの旗手とうたわれるようになったデビュー3年目の77年6月、豊島公会堂(東京都豊島区)での東京初のコンサート「童子像」は、ついに定員約800人の会場から約300人もの観客があふれ出してしまった。地下の歌姫として大学生を中心にカリスマ的な人気を博したが、高橋さんは「童子さんには意地でも地上に這いあがるまいという強固な意志があった」という。
引退を宣言することなく、音楽活動を休止したのは83年末だった。
デビュー当時の所属レコード会社の宣伝プロデューサーだった市川義夫さんは、「80年代になると、もう自分の居場所はないと思ったのか、新曲を作らなくなった。その意味では、溶けていくように消えていなくなったというのでしょう」と心残りをあらわにするのだった。
「ぼくたちの失敗」が、テレビドラマ「高校教師」の主題歌になってヒットしても、再び歌おうとはしなかった。彼女の消息を知る人を介して、その真意を問う対話がしたいと打診してもらった。だが、とても親しかった人との唐突な死別とみずからの病で「手紙すら書けないほど憔悴している」という返答があった。
危ういバランスでつなぎとめられている世界が、まだそこにあった。」(2010/05/22付「朝日新聞」e1ページより)(オリジナルの記事(朝日新聞「うたの旅人」)のPDFは(ここ))
話を歌に戻す。こんな歌を聴いていると、若者が寂しい暗い都会の部屋の中で、うごめい ている姿が目に浮かぶ。他の歌には“クスリ”にふける姿も・・・・
1970年代のこんな時代の、このような世代、このような人たちを我々は何と呼んでいたっけ? “アングラ??”、いや違う・・・・。そんな言葉さえ、忘れてしまった。(写真はクリックで拡大)
でもあの時代、このような人たちは確かにいた。
あれから40年・・・。
シルバー族が、そんな昔の歌を今頃また聴いている・・。今、流行している歌はフィットしないが、昔の歌はなぜか心に沁みる・・・
自分は、こんな生活を懐かしがっているわけでは決してない。でも、こんな歌は懐かしい。
森田童子も1952年生まれというからもう58歳。我々とほぼ同世代。相変わらず、どこかで主婦業をしているらしい。
同じ世代の人間は、何年経っても同じ世代の歌に共感を覚える。これはもはや「文化」の問題。今の若者も、自分たちが今歌っている歌を、数十年後になつかしくまた聴くのだろう。そこに、世代間の文化の交流は少ない。
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コメント
はじめまして、
森田童子さんのことを書いていただき、ありがとうございます。少し(かなり)前にドラマでブレークしたときにも明かされたことが無い、童子さんの一面を知ることができました。
童子さんの歌は、私の青春時代とともにあります。中学のときに知り、高校時代はギターでコピーし、大学時代にはコンサートにも行きました。コンサート後にLPレコードのジャケットにサインと歌詞の一部を書いてもらい、握手してもらいました。良い思い出です..。
今もたまに聞きますが、心にしみわたります..。
別件ですが..
3ヶ月ほど前に、長年探していたマラゲーニャの音源をこちらで知ることができました。ありがとうございました。
【エムズの片割れより】
コメントありがとうございます。自分が森田童子という名前を知ったのは、2003年にラジオを聞いて・・・。だいぶ遅いですが、JIJIOさんは、握手までしていると、それこそ忘れられないでしょうね。
心に響く歌は、必ず残りますね。幾らLPがこの世から消えても・・・
投稿: JIJIO | 2010年5月29日 (土) 17:25