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2010年5月29日 (土)

30年前の城山三郎の講演会から~「父親の役割」

先日のNHKラジオ深夜便「深夜便アーカイブス「“文化講演会”から“生き残りの条件”」作家…城山三郎(昭和56年10月11日放送)を聞いた。(2010年5月9日再放送)
その中で、“生き残れない子供”を育ててしまう親や、父親と子供の関係についてこんな事を言っていた・・・。

<城山三郎の「文化講演会」(昭和56年9月17日)より>

「かもめのジョナサン」を書いたリチャード・バックが、「子どもはいますか?」と聞かれて、「イエス、アンド、ノー」と答えたという。別れた妻との間に小さい子どもがいるのでYES。しかし小さくて、親であるリチャード・バックがどのような生き方をしているのか、どこに人生の意義を見出して生きているのか、まで理解出来ない。自分も、息子が大きくなって、どこに人生の意義を見出して行くかは分からない。そういう時には、二人とも他人だ。親子ではない。息子が大きくなって、親父は自分とは違って、作家としてああいう気ままな生活をしているが、あそこに人生の意義を見出して生きているのだ。リチャード・バックの方は、息子も例えばサラリーマンになって、彼は人生の価値をあそこに見出して生きている。そのようなことをお互いに分かり合えるようになったとき、初めて親子になれる。「イエス、アンド、イエス」になれる。つまり親子は初めからNOの関係にある。違う世界にある。違う世界があるということを理解し合って初めて本当の親子になれる。・・・・
「キタキツネ物語」は色々教えている・・・。親の世界と子供の世界は違う。・・・子供はあるところまで行ったら、親と別れなくてはいけない。・・人生はそういうもの・・・。
・・・親なるが故に見えない死角がたくさんある。母親は近すぎて見えないことがたくさんある。それに気が付かない・・。それを父親が支える・・・

父親の役割。父親とは、母親とは違う役割があるはず。・・父親はごく普通に父親であればよい。母親の代わりをしたり、母親から言われた通りのことをするのでなく、自然に生きればよい。
作家・村上龍の父親は、九州で校長までやった教育者。しかし村上は学生時代、事件ばかり起こして、親の顔に泥を塗って東京に逃げた。父親はその息子に、毎週ハガキを出し続けた。内容は他愛もない近況を書いたもの。村上は一度も返事を書かなかった。でも父親は毎週ハガキを出し続けた。7年間で2000通。これが父親・・・。これが母親の場合は、3通書いても5通書いても返事が来ないと「何しているの」と電話をしたり・・・。そんな事を期待しないで、オレはとにかく書くんだ・・・。それが父親だと思う。・・・そのお父さんも、“父親は精神的に(違う世界に住んでいるということを)理解し合えない。その間は親子ではない”、と書いている。・・・
父親は、父親を自然に生きればよい。(母親のように子供一辺倒でない)虫眼鏡を掛けない人間として・・。それを、父親を母親の代理人というか、第二の母親にしてしまった事に間違いがある。だからこのような環境で育った子どもは生きられない。人間に対する耐性がない。・・・
就職するということは、人間関係を選べないという事。そのような選べない人間関係に耐える人間を作らないといけない。・・・それを忘れてただ教育・教育とやってもしょうがない。」(昭和56年10月11日放送、城山三郎の文化講演会より)

この講演会は30年前である。しかしこの話を今聞いても違和感がない。それほど、この問題は根源的なのかも・・

しかしこの話で、一刀両断に「父親と子供とは他人」と言われてみると、むしろスッキリする。自分と、とうに亡くなった親父との関係を考えると、実に腑に落ちる。自分の場合は、男3人の真ん中。長男は家の頭領として尊重され、末っ子は問答無用に可愛がられる。そして真ん中だけが取り残される・・・。まあ良くある話・・・。だから、というワケでもあるまいが、自分の場合も親父との距離は相当なもの・・・。
親父の死の床で、初めて親父の手に触れた・・・。それが親父に触れた初体験・・・・

結局、親父と自分の場合、城山三郎がいう「理解し合えた」かどうかは分からない。しかし、お互いサラリーマンだったので、会話は皆無だったものの、息子のサラリーマン生活について、何某かは理解したと思う。

それと母親と父親の役割について、母親の近視眼的なところをカバーするのが父親の役割・・・というような事を言っていた。ウチでも良くある。何か問題が起きてカミさんと話をする時、「あなたはいつも評論家のようなことばかり言う。いったいどっちの味方なの?!」。この城山三郎の話を聞いて、自分が正しかった事が分かった!?(←カミさんには言わないけど・・・)

そう言えば、さっきあるTV番組の事でカミさんが言っていた。親と子ども・・・。憎んでいるのはまだ良い。お互いに相手の存在があるから・・。一番の悲劇は、無視すること・・・・。

自分の場合、“この世”では、親父と話すことはなかった。だからあの世に行った時、対等な人間として何か話が出来れば面白いかも・・・。でも緊張するな・・・。今から・・???
(何?自分と息子との関係??←お互い、まだ“この世の現役”。今のところ、まだまだ他人だな・・・。まあ同じように“あの世で”・・・??)

(関連記事)
城山三郎の「そうか、もう君はいないのか」を読んで

●メモ:カウント~100万(スタートしてちょうど4年目で大台達成・・)

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コメント

100万カウントおめでとうございます。小生は、5月29日19時35分時点で1001001カウント目でした。小生がエムズさんのブログにアクセスする時は、大抵が2~5名の方が同時に閲覧されております。昨年初夏頃に本ブログに出会った頃は、1日のカウンターが1000件~1200件前後~だったと記憶しております。今では、毎日2000件近くのアクセスです。
沢山の方が、還暦過ぎのおじさんの日々の出来事、を楽しみにされているのだなーと、感慨も一入です。昭和39年は12歳、日立市の小学六年生でした。時々、茨城在住の話題が掲載され懐かしく拝読させていただいております。これからも楽しみにさせていただきます。ちょっと長くなりました。他愛も無いコメントを、ごめんなさい。

【エムズの片割れより】
コメントありがとうございます。
いつの間にか100万・・・。別にカウントは気にしていませんが(←これウソ)、でも大台に乗って一段落??
カミさんの弟のお墓があるので、良く日立には行きますが、銀座通りなど、昔(昭和40年台)の賑やかさが無くなりましたね。日製も元気なく・・・。これからたまに当サイトを覗いてみて下さい。

投稿: jijirope | 2010年5月29日 (土) 20:20

 100万カウント凄いですね、おめでとうございます。jijiropeさんが仰るとおりですね、1日2000件以上のアクセスの日が多くなりました。
 私も、いつも楽しみに拝見拝聴させていただいております。

 今日の城山三郎氏の講演のお話も載せていただいたから、こうして聴くことができます。ありがとうございます。

 浜口雄幸の話を聴いて、鳩山現首相にも是非とも“聴いて感じて”もらいたいお話だと思いました。

投稿: ジャン | 2010年5月29日 (土) 23:55

はじめまして前田優光と申します。

先程NHKラジオ第2にチャンネルをあわせたところ、城山三郎さんをとりあげておりました。内容は「生き残りの条件、父親の役割」にまつわるお話でした。
とても興味あるお話でしたが途中から聞いたもので、残念に思っていた所、貴方が2010年5月のグログにそれを取り上げておりとても感動いたしました。とても参考になりましたので、一言御礼を申し上げたくこの欄に記させていただきました。ありがとうございました。
ついでに申し訳ございませんが、城山さんのお話の内容が書かれている著書をご存知でしたら、著書名をお教え願えれば幸いです。

【エムズの片割れより】
それはそれは・・・。自分でも改めて読んで、思い出しました。ところで、この講演会の40分はお聞きになりましたか?もしまだでしたら、当記事の最後の行にリンクしてありますので、オリジナルを聞いてみて下さい。
なお、著書につては、同じような題の本はあるらしいですが、良く分かりません。

投稿: 前田優光 | 2012年8月21日 (火) 14:43

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