小鳩くるみの「真白き富士の根(嶺)」
「住んでみたい街」(ここ)で人気があるのが鎌倉。“落ち着いた街”のイメージでこのランキングをみると、鎌倉が一番では? 鎌倉は、自分も若い頃に良く行ったところ。
初めて行ったのは、中学2年の修学旅行。江ノ島・鎌倉だった。その時に教わって歌った歌が、「真白き富士の根」だった。
色々な音源があるが、今日は小鳩くるみの澄んだ声で聞いてみよう。
<小鳩くるみの「真白き富士の根」>
「真白き富士の根」
作詞:三角錫子
作曲:ジェレミー・インガルス
真白き富士の根 緑の江の島 仰ぎ見るも今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみ霊に 捧げ奉る胸と心
ボートは沈みぬ 千尋の海原 風も浪も小さき腕に
力も尽き果て 呼ぶ名は父母 恨は深し七里ヶ浜辺
み雪は咽びぬ 風さえ騒ぎて 月も星も影をひそめ
みたまよ何処に 迷いておわすか 帰れ早く母の胸に
み空にかがやく 朝日のみ光り 暗にしずむ親の心
黄金も宝も 何しに集めん 神に早く我も召せよ
雲間に昇りし 昨日の月影 今は見えぬ人の姿
悲しさ余りて 寝られぬ枕に 響く波のおとも高し
帰らぬ浪路に 友よぶ千鳥の 我も恋し失せし人よ
尽きせぬ恨に 泣くねは共々 今日もあすも斯くて永久に
この歌はあまりにも有名な歌だが、少し復習をしてみよう。文献として一番信用できるのが、本家の逗子開成中学のHPだろう。(ここ)に、この歌にまつわる詳細な物語が書かれている。それによると・・・
まずタイトルだが、このHPによると「真白き富士の根」が正しいらしい。
「1910(明治43)年1月23日午後、校則を破って「ドウショウ(海鴨)」撃ちに行こうと漕ぎ出した7人乗りの船には、逗子開成中学校の生徒11名と逗子小学校生徒1名(21歳~10歳)の12名が乗っていた。七里ヶ浜の行合川沖付近で突風に煽られてボートは転覆。午後1時半頃のことだった。
次の日、新聞で事件の顛末を知った、後の大正天皇である嘉仁東宮殿下も葉山御用邸から乗馬で逗子海岸に来られたという。
1月25日、七里ヶ浜行合橋沖約1kmのところで2体の遺体が発見されたが、一人が両腕に弟をしっかりと抱いていた。徳田勝治・武三の兄弟だった。そして1月27日までの4日間で12名全員の遺体が収容された
2月6日に校庭で開かれた追悼大法会には、浄土宗僧侶90人、各宗の僧侶50人、そして式場に500人、式場外で4,000人の人々が参列した。
その場で、兄妹校鎌倉女学校の最上級生が揃いの黒紋付き袴姿で、同校の数学の教 師・三角錫子の弾くオルガンに合わせて歌ったのが「真白き富士の根 緑の江の島 仰ぎ見るも今はなみだ・・・」。
この、一般には「真白き富士の根」として知られている「七里ヶ浜の哀歌」は、アメリカの作曲家ジェレミー・インガルス Jeremiah Ingalls(1764~1828)が作曲した When We Arrive at Home という歌の旋律に三角錫子先生が歌詞をつけたもの。」(三角錫子は、その後、常磐松女学校(今のトキワ松学園)を創設)(以上出典:逗子開成中学のHP(ここ)より)
鎌倉は言うまでもなくお寺の町。北鎌倉から鎌倉まで歩いただけでも、数々の名刹がある。そして鎌倉駅の近くにあるのが「妙本寺」。実は、我が家はこのお寺には縁がある。我が家の原点なのである。詳しくは書か
ないが、また行ってみたいものである。町並みは変わっても、お寺の境内は変わらない。だからお寺は“時間が止まっている所”なのだ・・・。
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コメント
up感謝です。感激しました(T_T)
実は、この曲は30年近く前に布施明さんがTVで歌ったのを聴いて始めて知り、心に沁みる曲だと思って早速レコード屋へ行ったのです。そして見つけたLPがたまたま小鳩くるみさんのでした。
なので、私には日本歌曲の歌い手としての小鳩くるみさんを知った記念すべき曲なのです。
嶺ではなく、根が正しいのですね。私も今、金田一春彦、安西愛子編「日本の唱歌(上)」講談社文庫(初版第五刷1983年)で確認しました。ネットで検索した小鳩くるみさんの10枚組CDの曲名表には「嶺」になっていますから、きっとLPもそうだったのでしょうか。人間は、昔のことはよく覚えていると言いますから(笑)
投稿: 信之 | 2010年3月20日 (土) 18:16
子どもの頃 母がこの歌をよく口ずさんでおりました
現在 私は埼玉に住んでおりますが ふる里鎌倉は 酷く変わりました
八幡さまの大銀杏は倒れてしまい もうあまり鎌倉へは行きたくありません
この歌の記念碑が 江ノ島を望む稲村ガ崎にあります 兄弟二人像です
ここから見る富士山は日本一と確信しております
懐かしい歌を聞かせて下さいまして 有り難うございました
投稿: 森生 | 2010年3月20日 (土) 21:46
信之さん:森生さん
小鳩くるみさんは、子供の頃は小さくて可愛くて・・。でも自分と同じ年でした・・・
そうですか、鎌倉は変わりましたか・・。でも市街は変わっても、お寺の境内はあまり変わらないと思っていますが・・。でもご神木のイチョウの木が倒れましたね・・・・
でも自分が好きな町です。それと、小津安二郎の映画にも良く出てきますよね。
投稿: エムズの片割れ | 2010年3月20日 (土) 22:44
中学の修学旅行は鎌倉・伊豆半島の、当時としては珍しい1泊2日旅行で、江の島をバックに七里ガ浜で撮った集合写真が残っているということは「鎌倉」のところで書いたのですが、この修学旅行で思い出すのは、1つは修学旅行のバスの中からバスガイドさんが「あちらに見える豪邸は映画俳優の堺駿二さんのお宅です」といったことと、5年ほど前に亡くなり、いまは亡き同級生(男)がこのバスの中で「真白き富士の嶺」を美しく歌ったことです。この歌を聴くと、このときの情景が思い出されます。先日(昨年の11月)あった中学の同窓会では彼の話がひとしきり出ました。
【エムズの片割れより】
自分が鎌倉に行ったのは5年生の旅行。当時の担任の男の先生が、写真が趣味で、その時の色々な写真が残っています。
きかない男子生徒に、ピンタをしていた先生でしたが・・・
投稿: KeiichiKoda | 2013年2月15日 (金) 13:50