唱歌「蛍の光」
1年前の3月1日に、「仰げば尊し」を挙げた(ここ)が、今年は「蛍の光」である。自分の頭の中は、3月1日はどうも「卒業式」なのである・・・。高校の卒業式の記憶で・・
上の1年前の記事に、卒業式の人気曲ベスト10が記してある。それによると「仰げば尊し」はあるが「蛍の光」は無い。どうも最近この曲は人気がないようだ。
自分が持っている「蛍の光」の色々な音源を聞き比べてみたが、この演奏が落ち着いていて一番好きだ。
<コロムビア合唱団の「蛍の光」>
「蛍の光」
作詞:稲垣千穎
スコットランド民謡蛍の光 窓の雪
書よむ月日 重ねつつ
いつしか年も すぎの戸を
明けてぞ今朝は 別れゆくとまるも行くも 限りとて
かたみに思う ちよろずの
心のはしを ひとことに
さきくとばかり 歌うなり
「蛍の光」は明治14年11月「小学唱歌集(初)」に「螢」として掲載。原題「Auld Lang Syne(久しき昔)」は、親しい友人との再会の歌で1788年、バーンズ作詞。賛美歌370番「めざめよ我が霊」。(西東社「童謡・唱歌・こころの歌」より)
蛍の光、窓の雪とは晋の車胤(蛍の光)と孫康(窓の雪)の故事から出た言葉です。(野ばら社「唱歌」より)
この歌詞を聞くと旺文社の「蛍雪時代」を思い出す。付録に付いてくる色々な参考書が“重かった”。つまりこなせないで、自分の場合はもっぱら“積ん読”だったので・・・。
そう言えば、今日の朝日新聞の朝刊に小学館の「小学1年生」の全面広告が載っていた。このシリーズは、子供のときに良く読んだ雑誌だ。最初は小学館の「小学1年生」から高校の「蛍雪時代」まで良く読んだ。小学校に上がった当時、静岡に住んでいた伯母と伯父が、毎月「小学1年生」を郵送してくれた。それが楽しみで、その頃になると、いつも郵便屋さんを待った。その後、伯父が亡くなったのを機に郵送はストップし、代わりに親父が会社に来る本屋から買って、土産として持ち帰るようになった。発売日になると待ちきれずに、親父が風呂に入っている時に、そうっとカバンを開けてシメシメと見て、風呂から出た親父から声が掛かると、知らぬ振りをして貰ったもの・・・。癇癪持ちでキライだった親父だが、100%悪い人間ではなかったのかな・・・?
その小学館の「小学5年生」と「小学6年生」が、2009年度末で休刊となったという。1922年10月の創刊で、87年の歴史を終えた・・。今日の広告でも、5年生と6年生は無かった。
同じような雑誌に、学習研究社の「*年生の学習」(2010年1月で廃刊)という雑誌があって、学校で斡旋していた。中学・高校になると旺文社の「中一時代」~「高二時代」があったが、これも1991年廃刊したという。それと双璧をなした学習研究社の「中一コース」も1999年に廃刊。どれも現代のNet時代にはマッチしていないのだろうか・・・。
それと、昔聞いた文化放送の「大学受験ラジオ講座」が現在どうなっているかと調べてみたら、1995年3月で終了していた。これもNet時代では古いのかな?
おっと卒業式の話が、昔の雑誌の話になってしまったが、3月は卒業のシーズン。まあ我が家はとうに縁が無くなってしまった行事だが、まあこんな歌でも聞きながら、子どもの頃を懐かしむことにしよう・・・
(追:2010/3/16)
作詞の稲垣千穎(ちかい)について
今朝の日経新聞に「蛍の光」の作詞者・稲垣千穎について記事があった。それによると、
「1881年に皇后が師範学校を行啓した際に東京師範学校校長・井沢修二が記した「唱歌略説」に「此(この)歌は稲垣千穎の作にして学生等が数年間勤学し蛍雪の功をつみ業成り事遂げて学校を去るに当たり別れを同窓の友につげ(略)卒業の時に歌うべき歌なり」と書かれてあった。・・・」
「稲垣千穎は本名・真次郎。奥州棚倉に生まれ、藩主転封で川越に移った後、藩校で教員となる。・・その後東京に移り・・・1874年に東京師範学校雇いとして公職に就いた千穎は、古典文学を教える一方、国文・国史教科書を出版。和歌の才能にも優れていたことから音楽取調掛に任命され、やがて「蛍の光」を手掛けることになる。1913年2月9日没。・・
・・・当時の師範学校は日本中の優秀な人材を集め、さらに研鑽を積んだ者を世に送り出していた。卒業式は、皇族も出席してその功をねぎらうために行われたものだ。その儀式が全国に広がったのは、そこから巣立った者たちが各地で教師となって広めたからだろう。・・・」(2010年3月16日付「日経新聞」p40 河合塾講師・中西光雄「仰げば尊し『蛍の光』作詞者」より)(原本PDFはここ)
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