中村元の「般若心経」(5/7)
中村元先生の「般若心経の講義」を、7回に分けて聴いてみる。
この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連続講義「こころをよむ/仏典」 (CDはこれ)の「第12回 空の思想-般若心経・金剛般若経」の部分を、『中村先生の声』と『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」(これ)を元に味わっていく。
ぼーだいさっ たー
菩提薩捶
えーはんにゃーはーらーみーたーこーしんむーけーげー むーけーげーこー
依般若波羅蜜多故心無罫礙無罫礙故
むー うー くー ふーおんりー いっ さい てん どーむーそー
無有恐怖遠離一切顛倒夢想
くーぎょーねーはんさんぜーしょーぶつえーはんにゃーはーらーみーたー
究竟涅槃三世諸仏依般若波羅蜜多
こー とく あー のく たーらーさん みゃくさんぼーだい
故得阿耨多羅三貌三菩提
<こころをよむ/仏典「般若心経」~その4>
菩提薩捶は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に罫礙(けいげ)なし。罫礙なきが故に、恐怖あることなく、[一切の] 顛倒夢想を遠離して涅槃を究竟す。
三世諸仏も般若波羅蜜多に依るが故に、阿耨多羅三貌三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を得たまえり。
「「菩提薩捶」の「菩提」は「さとり」、「薩捶」は「生きもの」「人」という意味ですから、「真実の求道者」「道を求める人」という意味になります。略して「菩薩」です。この真実を求める人は、般若波羅蜜多=完全な智慧によるがゆえに、心にさわりがない。さわりがないから、何かを恐れるということもない。そこで、一切の顛倒した、まちがった妄想を離れて、涅槃(ニルヴァーナ)=究極の境地を体得することになる。
「三世諸仏」とは、過去・現在・未来の三つの時期のもろもろの仏さまのことです。仏教では、仏さまは一人じゃないわけで、無数にまします。その仏さまがたもみな、般若波羅蜜多によるがゆえに、「阿耨多羅三貌三菩提」、つまり無上の正しいさとりを得られたというのですね。「阿耨多羅三貌三菩提」とは、アヌッターラー・サムヤックサンボーディというもとのことばを。音で写したのです。アヌッタラーとは「無上の」という意味で、サムヤックサンボーディは「正しいさとり」ということばです。特別の意味がありますから、漢字にはなかなか訳しにくいというので、もとの音をそのまま写したわけです。」(前田専学監修「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」より)
何十回聞いても「般若波羅蜜多」と「阿耨多羅三貌三菩提」が心に入らない。もちろん音写語なので漢字に意味は無いのだが、言葉そのものはつい口から出るものの、頭の中で真の意味になかなかつながらない。「完全な智慧」とは・・・。そして「無上の正しいさとり」とは何だ・・・。
そして「罫礙」は「さわり」。「罫」という字は、罫線の罫だ。枠・・。「礙」は「碍」だ。「障害者」は正しくなく、「障碍者」が正しいとする議論があるが、その「碍」で「さわり」の意味。“さわりが無いと、恐れがなくなる”という。これは重要だ。さわりとは何か?
とにかく般若心経は難解だ。これほど一つひとつの語に、それぞれの世界がある言葉はない。
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