「一反の絹」~“ビルマの竪琴”秘話
雑誌「大法輪」(2010年3月号)に「随筆説法~心があったまる仏教」という記事があり、「ビルマの竪琴」の秘話が面白かった。
「随筆説法~心があったまる仏教 “一反の絹”
群馬・曹洞宗長徳寺住職 酒井大岳
「ビルマの竪琴」(竹山道雄著)という小説があります。映画にもなりました。主人公・水島上等兵のモデルといわれた武者一雄さん(本名は中村一雄・群馬県雲昌寺先代住職)は、平成20年12月、92歳で遷化されました。武者さんは福井県の永平寺で修行中の1938年に徴兵され、フィリピンなど東南アジアを転戦後、多くの死者が出たインパール作戦に参加し、ビルマ(いまのミャンマー)で終戦を迎えました。25年前の「上毛新聞」(昭和60年8月6日)には、こう書かれています。 ――この戦いはおびただしい戦死者を出し、武者さんの部隊も6000人がわずか200人になってしまった。インパールからの帰路、その道筋には日本軍将兵の遺骨が散乱、白骨街道と呼ばれたが、武者さんはその行軍中、軍服の上にけさを羽織り、手に数珠を持って一つでも多くの遺骨を・・・とお骨を集めては埋葬し供養し続けた。――
武者さんは英軍の捕虜となりながらも収容所で合唱隊を編成します。そこで「荒城の月」や「さくらさくら」などの指揮をして兵士たちの心を慰めました。この話をドイツ文学者の竹山道雄さんが、武者さんと同じ部隊にいた教え子から聞いて、小説「ビルマの竪琴」を書き上げました。
私事ですが、武者さんの前の住職さんはわたしの叔父(父の弟)でした。そのご縁から武者さんには特に親しくしていただいて、わたしの寺にも、勤め先の高校にも講演に来ていただきました。・・・・・・・
武者さんから直接お聞きし、わたしがとくに感動した話をここに一つを紹介しましょう。
“一反の絹と仏の智慧”
インパール作戦に参加中、武者さんたち一行(20人の小部隊)はビルマの山の中にパゴダ(仏塔)を発見し、一週間雨宿りをしたことがあるそうです。食糧が尽き、ムドンの町へ向かっていざ出発というとき、一人の隊員がパゴダの地下の暗がりに絹の反物が山と積まれているのを発見しました。隊長は言いました。
「このまま放置すれば紙くずも同然。これをムドンの町へ持って行けば食糧に替えられる。みんな持てるだけ持て!」 隊員たちは争うように地下から絹の反物を担ぎ出し、五反十反と自分の背のうにくくり付けたそうです。しかし、武者さんはたった一反しか乗せませんでした。
「先に死にたいと言うのか!この意気地なし!」隊長の罵声を浴びながらも武者さんはぐっとこらえました。自分の体力からこれ以上積み上げることは危険だと思ったからです。
ムドンへ向かって2百キロも歩く山のなかで、一人死に、二人死に、絹を多く背負った者から疲労で死んでいきました。武者さんは一反しか持たなかったために生き残りました。途中で一行から遅れ、原始林の中に迷い込んだときも、「急いではいけない。無理をしてはいけない」と思いつづけたそうです。・・・
武者さんはそのときのことを思い出されながらこう話されました。
「絹の反物が食糧に替えられるとなれば、みんな欲が出てきます。多く持った者ほど生き延びられる、だれでもそう思いますよ。でも私は体も小さいし、無理をするとばてやしないかなと、とっさに思ったんです。なぜ、自分の体力と反物の量とのことを考えたのでしょうね。あのときはそういうこと考える余裕なんてないんですから。
私はあれからずうっと思っているんですが、あれは土たん場で、仏さまからさずかった智慧ではなかったかとね。すべてに当てはまるわけでもないでしょうが、人間、ぎりぎりのところでは、欲の少ない人のほうが生き延びるのではないかと、そんな気もしているんですよ――」
武者さんは永平寺で修行中、寝る間も惜しんで仏教書を読みふけったそうです。「こんなときどうすればいいのか、と追い詰められたとき、仏教の教えのなかからすっと解答が降りてきてくれたような、そんな気もするんですね」と、そうも語っておらました。
・・・・・・
“小欲知足と心の豊かさ”
それから「欲の少ない人のほうが生き延びるのではないか」、ともおっしゃっていますが、これはおそらく、お釈迦さまの遺言と言われる「仏遺教経(ぶつゆいきょうぎょう)」のなかの「小欲知足(しょうよくちそく)」を指しているものと思われます。
「多欲の人は利を求むること多きが故に苦悩も亦(ま)た多し。小欲の人は無求(むぐ)無欲なれば則(すなわ)ち此の患いなし。」
<多欲の人は利益を求める気持ちが大きいので、悩み苦しみもまた多い。しかし、小欲の人は、求め欲することがないので、そのような患いがない>
・・・・・・」(「大法輪」2010年3月号p28~32より)
映画「ビルマの竪琴」は1956年(昭和31年)1月21日公開。隊長の三國連太郎は重厚で、 自分の子供心にも、強く印象に残っている。
そのモデルは、実在されていた・・・。中村さんは永平寺の修行僧だった22歳の時に徴兵されたが、心は既に真の僧侶だったのだろう。仏の教えが心にあった・・・。
「小欲知足」という言葉を聞いて「知足石(ちそくせき)」を思い出した。
これについては、前に「吾唯(われただ)足るを知る」という記事を書いた(ここ)。
足ることを知っている人は、“隣の芝生は青い”と思わないし、誰をも羨やましがらない。よって悩みは少ない・・・。
それは理屈では分かる。しかし、現実はどうだろう・・・
我が家の場合は、誰の息子がどの大学卒だとか、どの会社に入っているかとか、みんな既に過去形で気にならない。しかも、誰が携帯電話で“孫の写真”を見せようが、携帯電話を投げ捨てるようなことも無くなった・・・。
まあそれだけ、我が家も段々と“仏の境地”に近付いているという事だろう。(←これホントかな~??自信ない・・・!)
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「吾唯(われただ)足るを知る」
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コメント
エムズの片割れさんのこのブログでは、グッドタイミングな記事がよく載り驚いています。
今日は、「ビルマの竪琴」が出てきたのにビックリしました。
丁度、竹山道雄さんの話をしていたからです。
先の記事「手仕事屋きち兵衛の『光る風』」の所にコメントさせていただいた今回コンサートをする会場に少なからず関係があるのです。そこの一族だからです。
会場が「大日本報徳社」というので、大日本という所から右翼団体かと思ったという方もありましたが、そうではありません。
私たちより年上の方は良くご存知だと思いますが、江戸末期から明治・大正・昭和の戦前まで、二宮尊徳の教えが民衆の中に広まった大きな教えでした。どこの学校にも薪を背負った二宮金次郎の像があったことを思い出します。
私は詳しいことは分かりませんが、二宮尊徳の教えが報徳の教えなのだそうです。
渋沢栄一も豊田佐吉も松下幸之助も土光敏夫もそして多くの事業家たちなども、この思想に大きな影響を受けています。
明治以後、その教えの全国的な元となった所が「大日本報徳社」だそうです。
その掛川の報徳社を興した人は、大庄屋の岡田佐平治。その息子・孫がそれぞれその時代(報徳社ですから)社長を勤めてきたのですが、それぞれ大変な学者であり政治家で、京都大学総長・文部大臣・宮内大臣・内務大臣・枢密院議長など歴任された方々を輩出しています。そのほかにも東大教授も幾人も出ています。
「ビルマの竪琴」の竹山道雄氏は東大の教授をされていた方、道雄氏の父親はこの岡田家の人間で、その母の実家浜松の竹山家の養子になったのです。
私は報徳の真の教えについては無知ですが、私が常々思っているのは、「ビルマの竪琴」は報徳思想が強く含まれているのではないかということです。(若い頃は、そんな論文が書けたら???などと思ったこともありました。笑)
〔話は別ですが、竹山道雄氏の弟の竹山謙三郎先生(日本の建築学会の重鎮)は私の恩師で「都市防災学」などを学びました。人間的に素晴らしい恩師でした。〕
今回、普通ではお借りすることの出来ない「国の重要文化財の建物」でコンサートを開催する運びとなり、お力を貸してくださった皆様に感謝しています。
「ビルマの竪琴」の武者氏の良い話から飛んでしまってすみません。
何しろ時の偶然に驚いています。
投稿: ジャン | 2010年2月14日 (日) 00:59
本当に人間というものは、全くの他人と思っている人にも、たどっていくとどこかで繋がっているものなのですね。
今から56年前、私は道雄氏の兄上に学校で英語を教えて頂いておりました。若いころケンブリッジ大学に留学された方でダンディでとても優しいお爺ちゃん先生でした。紳士というものはこういう人を言うのだと子供心に思ったものです。竹山家の当主で、疎開で実家に戻られていた時、農地解放のため莫大な農地と広大な屋敷を失われてしまったようです。
「異国の丘」を歌われた竹山逸郎さんも多分何らかの繋がりがある方だと聞いております。
本筋と離れてしまって申し訳ありませんが、今年のお正月に竹山家の本を読んだばかりでしたので、人間の縁の不思議さをつくづくと感じた次第です。
投稿: ハコベの花 | 2010年2月14日 (日) 11:15
ジャンさん、ハコベの花さん
いやはや、不思議な縁というのはあるようで・・・。
さっき、TVで居酒屋の風景を写していました。何の関係も無い、家族や仲間がそれぞれ店の一角を占めてワイワイ・・・
これらも何かを辿れば、どこかで繋がっている??想像するだけで楽しいですよね。特に都会の雑踏を見慣れていると・・・
投稿: エムズの片割れ | 2010年2月18日 (木) 20:05
武者一雄 著 あさを社刊 『わたしの場合 (恥書きあれこれ始末録 ; 第1部)』 を拝読し、著者の人柄に触れ感動いたしました。著者を父親に持てたらとても素晴らしい、と思いました。私は徹底的に理系教育を受けましたので、宗教を信ずることは駱駝が針の穴を通るほど難しいのですが、禅僧の公的生活態度に共感します。
六十年以上前永平寺を訪れ、「道元禅師は水を大切にされた」と言う法話を非常な感動を持って拝聴致しました。40年以上前船医になりまして、水道の水がそのまま飲める国は極めてまれである事を知りました。家内と二人だけで住むようになり、大小便をそのまま飲むことが出来る水道水で流すことが出来なくなりました。
洗濯廃水をタンクにため家内は濯ぎ水、私は洗濯水で大小便を流しています。自動で流し水の出る便器を使いますと心が痛みます。
魚の干物や蝦を食べますと頭や骨、殻を瓦斯焜炉の炎の下に置き、焼焦がして食べます。生き物の命を奪うのですから徹底的に食べ尽くすことが供養罪滅ぼしになろうかと考えています。著者の謦咳に接して、こんなことを色々話し合えたら楽しかったと思うこと頻りです。
『恥書きあれこれ始末録 ; 第1,Ⅱ,Ⅲ部』は殆ど読まれて形跡の無い本です。もっと多くの人が読まれるべき本です。酒井先生はよいお話を御紹介下さいました。
【エムズの片割れより】
武者一雄氏は色々と本をお書きになっているのですね。ただし、やはり皆絶版で、図書館で借りるしかないようです。
この記事も7年前のものですが、自分なりに改めて読んでみて、色々と当時を思い出しました。
自分も最近は、仏教の世界とも少し疎遠になりました。
投稿: 今井 龍弥 イマイ タツヤ | 2017年8月 7日 (月) 19:43
『恥書きあれこれ始末録 ; 第1部』の35頁に戦場で戦死者を弔う武者軍曹の写真があります。それまでの作品で著者の人柄が分っていましたので、単なる任務ではなく心が籠もっていることが分り、とても感動致しました。「上毛新聞」(昭和60年8月6日)にはこの写真が掲載されたのではないかと思われます。
『恥書きあれこれ始末録 ; 第Ⅱ,Ⅲ部』を借りて読みたく思います。
第1部の中に代表作『ビルマの耳飾り : 悲劇の戦線』の構成に示唆を与えた「厚い本(700余頁)」が出て来ました。
『ビルマ戦線 : 歩兵第五十八連隊の回想 歩五八会 五八会 1964』です。本書の中に東京帝國大学出身者を探してみたく思います。竹山道雄さんの著作に示唆を与えたであろう人を探してみたく思います。
残念ながら「大法輪」2010年3月号」を図書館で借りることは出来ませんでした。従いまして、本頁をお気に入りに入れて、読み返しています。
管理者様は善い情報を提供して下さいました。有難う御座います。
投稿: 今井 龍弥 イマイ タツヤ | 2017年8月13日 (日) 12:00
鶏に使用が禁止されているゴキブリなどの殺虫剤ヒプロニルがヨーロッパで検出され、韓国産の鶏卵からも検出され回収して廃棄処分されるそうです。この農薬鶏卵事件で何十万個に喃々とする鶏卵が廃棄されます。我国では加工食品に僅かな異物が含まれていると莫大な量の食品が廃棄されます。どのようなものが含まれていても食べ続けなければ先ず実質的健康被害は出ません。そこで廃棄せず、注意書きを付与し、飢餓で死に瀕している人々に供給することを度々会社、各方面に提案して来ました。 回答は異口同音に、「人権侵害」でした。死に瀕した人にとっては異物の含まれる食品でも一日は寿命が延びるのです。
飢餓で死に瀕した人に何もせず冷ややかに傍観しているのと、異物が含まれている廃棄食品を提供するのとどちらが人権侵害でしょうか。こんなことを武者和尚と話し合ってみたく思うこと頻りです。
何十年も昔、ニューギニアであったかインパールであったか或はガダルカナルであったか二人の下級兵士が肩を支えあって集結点に向けジャングルを歩いていました。 踏み分け道に電柱ほどの太さの倒木があり、死臭が漂っていました。一人がその倒木をまたぐことが出来ず、戦友に「少し休んで後から行くから、先に行ってくれ」と言って座り込んでしまいました。
そのまま先に行けば戦友の死は必定、然し自分にも戦友が倒木を越えるのを助けるだけの体力が在りません。そこで命の次ぎに大切にして来た食塩をほんの一摘み、倒木の向こう側に座り込んでいる戦友に泣く泣く舐めさせました。今生の別れと思ったら、なんと瀕死の戦友が立ち上がり倒木を乗り越え、肩を支え合いながら味方の居る場所に辿り着き、生還したと言う戦記を読み、大変感動をしたことを今でも思い出します。
カロリーの全くない食塩で力が出るというのは驚きでした。廃棄処分する韓国の卵一個でも、間に合えば餓死する人が1日は生き延びられます。死は不可逆的反応ですから仮令人権無視でも何とか成らないかと思うこと頻りです。
【エムズの片割れより】
まったく同感です。
コンビニ弁当も同じですね。消費期限が来て廃棄する位なら、黙ってホームレスの人に食べて貰う方が理にかなっていると思います。
さっき、NHKスペシャルでインパール作戦を見ました。日本軍の無謀さ・・・
それを見た後に、この話を聞くと、実感が湧きます。
投稿: 今井 龍弥 イマイ タツヤ | 2017年8月15日 (火) 20:34
食品の回収、廃棄のテレビ報道毎にメーカーに飢餓国に送ることを長年提案していましたが異口同音に 「人権侵害」 の答えが返ってきますので諦めてしまっていました。
大手新聞社の記者に話しても、飢餓の経験の無いに戦後生まれの記者は全く無関心でした。名古屋の朝日新聞社では警備会社の若い受付の職員に追い払われてしまう始末でした。
この提案をしている頃、武者和尚は御存命であったはずですから、その頃に武者和尚の存在を知っていたら青春18切符でお寺を訪ねてお願いしていたと思います。2年前神田の古書店で友だち文庫の「ビルマの竪琴」を見付け、その後武者和尚の存在を知りました。
フィリッピン戦線での飢餓で多くの部下、戦友を亡くされ、食料確保のため上官から味方を攻撃することを命じられた 『赤松海軍予備学生日記』 の著者 赤松信乗和尚の存在は以前から知っていたのですから、遷化される前に連絡を取り、仏教界から慈悲の心で廃棄処分する食品を飢餓国へ届けることを提案して頂くよう御願いすべきでした。莫迦の後智慧です。
私は空襲で家を焼かれ自分自身空腹で苦しみ、終戦の歳、昨日まで生きていた餓死者を目撃しました。私が提案の電話をした人は誰一人飢餓を経験したことも無く、又餓死者を目撃したことの無い人ばかりです。そのような人にとっては「人権尊重」が餓死にも優る大切なことなのでしょう乎。悲しいことです。
巨大スーパーの入り口でユニセフが飢餓の国の子供たちへの食糧援助を呼び掛けています。私は一回も寄付したことは在りません。
船医をしていて西アフリカの港へ入港したときです。港に巨大な段ボウルの山がありました。本船が積み込んでよその港へ運ぶ荷物だそうでした。甲板長でしたか航海士でしたか忘れてしまいましたが、「あの荷物は私の乗っていた前の船で運んできた援助物資です。今度、転売のために本船に積み込んで居るのです」と説明して下さいました。転売できるような物を援助するのは愚かなことです。廃棄処分する食料品に「廃棄物」と明記すれば転売されること在りません。「日本では販売できない商品です。異物が入っていたら吐き出してください」と明記して、説明し、納得のできる人に食べたり飲んだりして貰い、命を繋いで貰えば良いと思います。
巨大スーパーの入り口のユニセフの篤志者に何時もこのように説明し、篤志者の善意に感謝はしますが募金はしていません。
NHKの「731部隊の真実」の再放映を視ながらこの文を打記しています。
【エムズの片割れより】
NHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」は自分も見ました。
ロシアから発掘された、ナマの証言が怖ろしかった・・・
人間には魔物が住んでいますね。
投稿: 今井 龍弥 イマイ タツヤ | 2017年8月17日 (木) 01:27
NHKが13日夜に放送した旧日本軍「731部隊」に関するドキュメンタリー番組に対して相互網に「捏造」と言う書き込みが沢山あります。私が開いた中には文責、打記、投稿者の所属、学歴、実名が載せられた記事は皆無でした。
落ち零れ、簿記と十露盤で卒業し、瓦斯の検診員になり、事務職が嫌で4年で会社を辞めて、大学に6年居たら医師になっていました。そこで徹底的に理系教育を受けましたので、意見を開陳するときは所属と氏名を明記することは当然と思っていました。
「731部隊に関与した医師・医学関係者」を
小俣和一郎様 は実名で投稿されています。その中の参考書、『15年戦争と日本の医学医療研究会会誌』 を相互網で引き出して読みますと、色々な研究成果が実名で投稿されています。御参考になさって下さい。
投稿: 今井 龍弥 イマイ タツヤ | 2017年8月18日 (金) 13:51