島田祐巳著「葬式は、要らない」を読んで
今、ベストセラーの2位だという島田祐巳著「葬式は、要らない」を読んだ。その題から、興 味はあったが、「こんなハウツーものなど読めるか・・・」とバカにしていた。でも本屋で手にとって、ツイ読む気になって、買ってしまった。もちろんあっという間に読んでしまったが、「なるほど、さすがに売れているだけのことはある・・・」が感想か?
気になった個所を書き抜いてみると・・・
「葬式は贅沢である」→「最終的に“葬式無用論”に行き着くはずだ」(p15)
「日本の葬儀の平均費用は231万円。葬儀社等へ142万3千円、飲食接待費40万1千円、お寺などへ54万9千円。地域で最低の四国は149万5千円なのに、高い東北は282万5千円。米国44万4千円、英国12万3千円、独19万8千円、韓国37万3千円」(p18より)
「墓埋法で決まっているのは、1)死後24時間経たなければ火葬は行ってはならない。2)火葬は火葬場以外ではダメ。3)埋葬は墓地以外ではダメ。だけ」(p20)
「仏教式の葬式が開拓されたのは、道元が開いた、鎌倉新仏教の曹洞宗においてである」(p65)
「1103年に中国の宋で編集された『禅苑清規』という書物に禅宗の葬式の方法が記されており、『尊宿葬儀法』はすでに悟りを開いた僧侶のための方法、『亡僧葬儀法』は修行の途中で亡くなった僧侶のためのもの。修行の途中にあるということは、完全な僧侶であるとは言えず、その立場は在家に近い。そこで、亡僧葬儀法を在家の信者にも適用した。これによって、亡くなった在家の信者をいったん出家したことにし、出家者の証である戒名を授けるという葬式の方法が確立される。」(p66)
「死者は、生の世界から死の世界へと移るものの出家したわけではない。俗人は、俗人のまま亡くなったはずである。にもかかわらず俗の生活を捨てたかのように戒名を授かる。本来、出家という行為と密接不可分な関係にあるはずの戒名が、それと遊離してしまったのである。・・・しかも、日本では、出家であるはずの僧侶が妻帯し、普通に家庭をもっている。それは破戒ではないのか。・・」(p96)
「檀家という贅沢 檀家の布施がなければ、本来、寺は成り立たない。・・・多くの寺院は檀家の葬式の際の布施や戒名料から維持費を捻出している。ほかに収入源がなければ、葬式に頼るしかない。」(p133)
「檀家になるということは、自分の家の死者を弔ってもらう檀那寺を持つということである。寺の住職は、毎日の勤めをし、本尊の前で読経などを行う。その際には、寺の檀家になっている故人たちの冥福を祈る。檀家にはそうしてもらっているという意識や自覚はほとんどないが、檀家になることで、私たちは祖先の供養を委託しているのである。・・・その点で、檀那寺を持ち、供養を委託できるということは特権的なことである。・・・その特権を護るためには、それ相応の負担をしなければならない。それは当たり前の話である。・・」(p136)
「墓参りの習慣は日本以外の東アジアでも共通することで、中国や台湾、韓国でも熱心に墓参りをする。・・・ところが、これがヨーロッパになると、墓参りの習慣はほとんどない。墓をもうけるものの、それは故人を葬る空間にすぎず、残された家族が命日などにその墓に参ることはない。そもそも個人墓が主流で、日本のような家の墓はない。墓参りをしないため遺族も墓の場所を忘れてしまう。・・・場合によっては、遺体を火葬場に持ち込んだ後、遺族が火葬の終了を待たずに帰ってしまうこともある。遺骨は火葬場で処理され、遺族がそれを持ち帰って墓を作ったりしないのである。」(p148)
「・・・核家族化や高齢化ということが、従来の形式の葬式を意味のないものにし、新しい形式の、より合理的なものを求める傾向を生んでいる。こうした方向での変化は押しとどめることのできないもので、これからはよりいっそうその傾向が強まっていくことになるだろう。高齢者には、家族葬、さらには直葬が基本的なスタイルになり、多くの参列者を集めるような葬式は少なくなっていくに違いない。」(p151)
「簡単に変化していかない部分があるとすれば、それは墓だろう。・・・家を代々継承させていくことは相当に難しくなっている。・・・その変化の全体をながめたとき、方向ははっきりしている。葬式は明らかに簡略化に向かっている。それは、葬式を必要としない方向への変化だとも言える。今や現実が葬式無用論に近づいているのだ。」(p153)
この本は、本の帯で謳っているような、単なる“葬式無用論”ではない。著者が言っていることに、突飛なことはひとつも無い。しかし論じている一つひとつに、ツイ“その通り”と頷いてしまう・・・。
ブッダが死後のことを語らず、本来の仏教も死後のことは語らなかった。しかし日本では鎌倉仏教から浄土信仰が始まり・・・・、と歴史的背景から論じ、日本の葬式仏教が出来あがった経緯を、日本人の文化を背景に論じる。
本の「葬式は、要らない」という刺激的な題とは裏腹に、一般のハウツー本とは一線を画した、極めて真面目な内容だと思う。なるほど・・・・
前にも何度か書いているが、自分の葬式感もだいぶ変わってきている。10年以上前に親父が亡くなったときは、この本でも指摘している「世間体」「見栄と名誉」「死後の勲章」ということを背景に、“贅沢さ”を追ったものだ。
それは“お互い様”だった・・・。でも果たして、葬式に来てくれた人が、本当に悲しんで、または悼んで来てくれたかというと、自分が他の葬式に参列したと同じように、それは遺族である同僚に対する“付き合いから”だった。それは多分に迷惑なことだったろう。でもそれはお互い様だった。香典は葬式への支援金。回りまわって、自分たちが出す葬式も、たくさんの支援金をもらって・・・。
でもこれからは違う。現役をリタイアした人には“付き合い”の関係も少なく、何よりも今は個人社会になっている。従来の“付き合いで参列”という習慣も急速に失速するような気がする。
お寺さんも、この本が指摘しているように、“葬式で食っている”という現状を何とか打破し、別のあり方、別のお寺の存在意義を探して行くことになるような気がする。
少なくても、我が家では直葬=家族葬で充分。本当に本人を知っていて、悲しんでくれる人だけが集う、本来の姿が望ましいと思う。
どの家も何れ来るであろう葬式・・・。それについて考えるチャンスくれた良い本だと思った。
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