“生きざま”の凝縮が“死にざま”に・・・?
NHKラジオ深夜便「こころの時代」で、「旅立つ人、看取る人 淀川キリスト教病院 名誉ホスピス長 柏木哲夫」(2010/1/10・18放送)を聞いた。なかなか奥の深い話で、ドキッとしながら聞いた。
<「旅立つ人、看取る人」淀川キリスト教病院 名誉ホスピス長 柏木哲夫(1)>
<「旅立つ人、看取る人」淀川キリスト教病院 名誉ホスピス長 柏木哲夫(2)>
「今は、2人に1人がガンに罹り、3人に1人がガンで死ぬ時代。
ホスピスは100%がガンの末期患者。患者には4つの痛みがある。「体の痛み」、不安や死への恐怖などの「心の痛み」、オーナー会社の社長は自分の会社がどうなるのか、などの「社会的な痛み」、スピリチュアルな、今までの人生は一体何だろう、とか、死んだらどうなる、などの「魂の痛み」。ホスピスはこのような全人的な痛みに対処する。
印象に残った「最期の言葉」の紹介。
1)72歳の肺ガン末期の主婦。診察に行くと「どうも明日か明後日のような気がする。私、先に行っていますから先生も来て下さいね」と言う。ドキッとする言葉だが、次に日に、付いている娘さんに小さい声だがはっきりと「行ってくるね」と言い、娘さんが「行ってらっしゃい」と言って亡くなった。これは二人が死んでも生きる永遠の命を信じていること、そして再会出来る確信が二人にはあった、という事だろう。
2)40歳の卵巣ガンの奥さん。ご主人は42歳、男の子が2人。ご主人は寡黙で悲しみを表に出されない方。でも仲の良さそうな夫婦。亡くなって「ご臨終です」と言ったら、うなずかれて、しばらく奥さんの顔を見ていて、突然大きな声で「バカヤロー」と言って、窓際に行ってこぶしで目をぬぐっていた。
3)最期の家族との和解は、非常に重要なテーマ。魂の痛みの例。52歳のエリートサラリーマン。上場企業の営業部長。19歳と17歳の2人の娘さんがいるが、見舞いに来ない。会社人間だった自分は娘さんとこんなに溝がある。こんな状態で娘が見舞いに来ないとは、自分は大変な人生の誤算をしていたぞ、と思い出した。仕事に価値観を持って生きて来たが、娘が見舞いに来ないという親子関係を築いてしまった。本当に申し訳ない・・と。それで、何とか謝ってから死にたいと・・・。
それで娘さんに「(自分は主治医だが)主治医に免じて見舞いに来てくれ」と手紙を書いた。幸いにも娘さんが来てくれて、父親が床に頭を擦り付けて「お父さんを許して欲しい」と・・。その真摯な謝りに娘さんが「お父さん、分かった。もういい」と言った。それから2回ほど近くのホテルのレストランで一緒に食事をしたとか・・・。1ヶ月後に亡くなった。
4)72歳の男性。最後の望みは、息子に謝らせてから死にたい。息子が20歳の頃、勘当してそれ以来会っていない。奥さんとは連絡を取っていたので、奥さんが息子さんに連絡を取ったが、息子さんは会いたく無い、と断った。
死に際して、家族との和解は大きなテーマ。人は生きてきたように死ぬ。その人の生きて来た“生き様”の凝縮が“死に様”に反映される。しっかりと生きて来た人は、しっかりと死んでいく。周りに感謝しながら生きて来た人は、感謝しながら亡くなっていく。周囲に不平を言いながら生きて来た人は、不平を言いながら死んでいく。
死を意識した時に、衣が剥げ落ちる。むき出しになった魂に平安があるのかどうか・・・
最後の言葉は、奥さんからご主人には「ご苦労さま」が多い。逆にご主人から奥さんへは「ありがとう」が多い。・・・・・」
人間の死亡率は100%。誰もいつか死ぬ。その瞬間の死に様は・・・。なかなかドキッとする話だった。でもこの話にも異論があるかも・・・。人間、100人居れば100通りの生き方があるように100通りの死に方もある・・。それは良いも悪いも無い。それに、赤裸々な死に方について、他人がとやかく言うべきことではない・・・という考えもある。
ホスピスはキリスト教系の病院が主だが、もしこれを仏教系の病院(もしあれば)が扱ったら、ケアはどうなるのだろう・・・。どんな死に方でも良いよ、と言うかも知れない。
何れ来るその時・・・。自分はその時どうなるか・・・。これは理屈の話ではないので、この話はここまで。
先日NHKで「二本の木」というドキュメンタリーを見た。これは「妻のがん発病から書き残した日記や膨大な写真、ビデオをもとに、夫もがんと闘いながらそのお互いの存在を確かめ合った夫婦の命と愛の記録を綴る静かなドキュメンタリー。」(2010/1/9放送 ここ)
この番組の中で、奥さんが死に際し、苦しみから逃れるため、24時間睡眠を願うが、“主治医が許さない”という場面があった。そうしてようやく主治医が許した時、「誰かと会ってから始めますか?直ぐに始めますか?」と聞くと「直ぐに」と奥さんが答えて、睡眠薬の注入が始まった・・・・。
このことから、自分の死に際し、幾ら苦しくて自ら睡眠薬を頼んでも、“医師が許可しない”という現実を知った。番組の病院は聖路加国際病院であったが、どこも同じ?
この現実はショック・・・。皆が“ぽっくり寺”もうでをするのも頷ける・・・。
ふと、ぽっくり寺を検索してみると当地にもぽっくりさんがあった(ここ)。今度、お参りに行こうかな・・。まだ早い??
いずれにしても生き様・死に様は人生観、死生観、そして哲学の領域。何とも言葉無く、“うなって”聞いた番組ではあった。
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