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2010年1月22日 (金)

「パパラギ~はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」

今月の日経新聞「私の履歴書」は細川護熙氏。先日のこの欄の一文が気になった。曰く・・・

「・・・第三次行革審でまず最初に議論になったのは、そもそも豊かさとは何かということだったが、ちょうどそのころに読んだ「パパラギ」という本にあった話が面白かった。20世紀の初め、ヨーロッパに招待されたサモアのある大酋長が島に帰って「ヨーロッパ文明とは何であったか」を島民に報告する。
酋長の考えでは物には二つあって、ヨーロッパ人の言う物とは自動車やテレビなど人間が作った物だが、もう一つ神が作りたもうた物というのがあって、それは美しい星空やきれいな砂浜、おいしい魚などだ。そういう物は我々の方がはるかに豊かで、自分たちの文明が物に関して貧しい文明だとは思っていない、と。・・・・」(
2010/1/14日経新聞「私の履歴書」より)

100122papalagi これは面白い・・・と、Netでみたら「パパラギ~はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」これ)という本が今でも出ている。それでつい買ってしまって、今読んでいる。(amazonに注文すると、630円でも送料無料なので実に便利・・)
その中の「パパラギ(←白人のこと)にはひまがない」という節が面白い。曰く・・・・

パパラギにはひまがない
・・・・・
・・・彼は一日を切り刻む。切り刻まれた部分には、名前がついている。秒、分、時。秒は分よりも短く、分は時より短い。すべてが集まって時間になる。・・・・このことはとてもこんがらかっていて、私にはまったくわけがわからなかった。
・・・・・
この機械は、時間のひと区切りが回ってくると、外側の小さな指がそれを示す。同時に、大きな声で叫びだす。
・・・・・
時間のこの叫びが響きわたると、パパラギは嘆く。「ああ、何ということだ。もう1時間が過ぎてしまった」。そしてたいてい、大きな悩みでもあるかのように悲しそうな顔をする。ちょうどそのとき、また新しい1時間がはじまっているというのに。
・・・・・
これはある種の病気かもしれぬ、と私は言う。なぜかというとこうなのだ。かりに白人が、何かやりたいという欲望を持つとする。そのほうに心が動くだろう。たとえば、日光の中へ出て行くとか、川でカヌーに乗るとか、娘を愛するとか。しかしそのとき彼は、「いや、楽しんでなどいられない。おれにはひまがないのだ」という考えにとり憑かれる。だからたいてい欲望はしぼんでしまう。時間はそこにある。あってもまったく見ようとはしない。彼は自分の時間をうばう無数のものの名まえをあげ、楽しみも喜びも持てない仕事の前へ、ぶつくさ不平を言いながらしゃがんでしまう。だが、その仕事を強いたのは、ほかのだれでもない、彼自身なのである。
・・・・・
どのパパラギも、時間の恐怖にとり憑かれているので、男だけでなく女や子どもまで、自分がはじめて大いなる光を目にして以来今までに、幾たび日の出、月の出が流れ去ったかを、きわめて正確に知っている。そう、このことはとても大切な意味を持っており、決まった時間が流れるたびに花を飾り、盛大にごちそうをそろえてお祝いする。私はよく、何歳かとたずねられた。そのたびに私は笑って、知りません、と答えた。そんな私を、彼らは恥ずべきものだと考える。「自分の年ぐらいは知っていなくちゃいけない」と彼らはよく言った。私は黙り。そして考えた――知らないほうがずっといい。
何歳かということは、つまり、幾たび月を見たかということである。だが、この計算と穿さくにはたいへんな害がある。なぜなら、たいていの人間の一生に、幾たび月の数が数えられるかはわかっている。だからそうなると、だれでもきちんと計算を合わせてみて、もしもうたくさんの月が終わっていると、その人は言う。「じゃあ、私も間もなく死ぬに違いない」するともうどんな喜びも消え、彼は間もなく本当に死んでしまう。
・・・・・
時間というのは、ぬれた手の中の蛇のようなものだと思う。しっかりつかもうとすればするほど、すべり出てしまう。自分で、かえって遠ざけてしまう。・・・・パパラギは時間がどういうものかを知らず、理解もしていない。それゆえ彼らの野蛮な風習によって、時間を虐待している。
・・・・・
私たちの中に、時間がないというものがいたら、前にでるがよい。私たちはだれもが、たくさんの時間を持っている。だれも時間に不満はない。私たちは今持っている、今じゅうぶんに時間を持っている。これ以上に必要とはしていない。私たちは知っている。私たちの一生の終わりのときが来るまでには、まだまだじゅうぶんの時間があることを。そしてそのとき、たとえ私たちが月の出た数を知らなくても、大いなる心はその意思のまま、私たちを呼び寄せてくださることを。・・・・」
(「パパラギ」p74~82より)

この本は、外部に本として出版されることを予想して書かれてはいない。まえがきにこうある。「ツイアビは、現地語のまま眠っていたこの話を、ヨーロッパで発表したり、ましてや本にするつもりなどはまったくなかった。彼はただ、ポリネシアの自分の国の人びとのためにだけ、この話を考えた。私は彼の了承なしに、さらにはその意思にさからって、これをヨーロッパの読者に紹介したのである。・・・」とのこと。
それだけに、何のてらいもないこれらの指摘は、いわゆる“文明人”の我々の心に深く突き刺さる・・・。思いも寄らぬ視点から書かれたこれらの指摘。それはまさに「我々の文明こそが唯一正しいものだ」という我々の思い上がりを打ち砕く。
そう、今生きている“この世界が全て”ではないのだ・・・。当blogに何度か書いているブータンの人々の価値観。それと同じものがここにある。汚されていない素朴な人間の「しあわせ」がここにある・・・。

時間に追われることが当たり前の“現役”サラリーマン。Time is Money・・・。そしてそれから解き放たれたとき、逆に時間の扱い方が分からなくなって当惑し、たたずむ還暦過ぎの“リタイア”サラリーマン・・・。(←これ、自分の将来の姿・・?)
おっと、でも考えようによっては、我々は既にサモアの人々の世界に浸る資格があるのかも・・・。
でもその時、自分が果たして“大いなるもの”に身を任せ、時間を忘れ、「そのとき、たとえ私たちが月の出た数を知らなくても、大いなる心はその意思のまま、私たちを呼び寄せてくださることを」知ることができるだろうか・・・。
何ともこの本は、読む人によって、様ざまな感想を沸かせてくれる本ではある。

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コメント

私も、時間から自由になりたい。

投稿: ごくちゃん | 2010年1月23日 (土) 07:01

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