中島健蔵の「読書の孤独」~高校の時の教科書より
高校の時の教科書の内容を、還暦を過ぎてもなお思い出すのは、珍しい事だろうと思う。実は、自分は唯一高校のときの国語の教科書を切り抜いて、取ってあったものがある。しかしその切抜きがどこにあるか分からなかったが、さっき、たまたま探しものをしていてそれを発見した。懐かしい文章である。曰く・・・(写真はクリックで拡大)
「読書の孤独
中島健蔵
「読み捨てる」ということばがある。本を読むには読むが、読んでしまえばそれまで、という読み方である。これは読み方というよりは、本の質にもよるだろう。しかし、読み捨てるわけにいかない本もある。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をわたしがはじめて読んだのは、中学の四年生の時だったと思う。病気になって寝ている時、頼んで買って来てもらった。たいした病気でもなかったとみえて、一気に読み上げてしまった。すっかり夢中になって、わくわくしながら、あの大きなものを読みつづけ、さて読み終わって、窓の外をながめると、世界が変わってしまったような気持になった。草木の色や空の青さまでが、今までとは違う意味を持ちだしたかのように、新鮮に見えたのであった。
それよりも前に、わたしは国木田独歩に驚かされていた。・・・・
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・・・自分自身の成長を知るためにも、読書ノートはよいものである。人間は案外、若い時の自分と縁が切れてしまうものである。しかし、ノートが残っていると、自分の成長の首尾一貫性を、ある程度まで保つことができる。人間は変わるものである。しかし、変り方にもいろいろある。変わるためには、それまでの自分を知っている必要がある。そのために、読書ノートは大いに役に立つ。初めは、いくらかてらいぎみなノートができるかもしれない。あとで読み返してみて、われながらいやだなと感じることによって進歩する。気がつかずにいると、いつまでもそのいやさから足を洗うことができない。あわてずに急ぐことである。時の流れは速い。あわててむやみに本を買い込んで、読みきれずに投げ捨ててしまうのはつまらない。どんなに無理をしても読み捨てることさえできないような、むちゃな本の選び方は、まったくのむだである。
食卓で、物を食べながら本を読むのは、きわめて悪い癖である。・・・・
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ところが、あいにく、本に夢中になっているときの人間は、家族も何も忘れてしまうほど孤独なのである。おしゃべりをしながら本など読めるものではない。何を聞かれても、せいぜい生返事をするぐらいのところで、しつこくじゃまをされれば、読んでいるほうでおこりだすであろう。・・・・・本が読みたい時には、どんなに親しい相手でもじゃまになる。・・・・
夕方、家へ帰って来て、ろくに話もしないでいきなり本を読み出す夫に対しては、新妻などは泣きたくなるであろう。読みふける人間は孤独である。そして、そのような孤独は、親しい相手までも孤独にする。幸いに相手も読書の癖を持っていたら、話は簡単である。同じへやの中で、まるでけんかでもしたかのように、夫婦も子どもも別々に本を読んでいる。こういう時には、案外、平和は破れないのである。・・・・」(「現代教養全集」第14巻(筑摩書房)より~昭和40年、高校の国語の教科書より)
これは昭和40年頃、高校2年か3年の時の現代国語の教科書にあった文章である。(スキャンしたオリジナルのPDFを(ここ)に置く)
当時、この文章はなぜか印象に残り、そのページだけ破いて取っておいたのだ。どこが印象に残ったかというと、それは2箇所ある。
「あとで読み返してみて、われながらいやだなと感じることによって進歩する。」
そして「同じへやの中で、まるでけんかでもしたかのように、夫婦も子どもも別々に本を読んでいる。こういう時には、案外、平和は破れないのである。」
時間が経って、前の自分がイヤになることは良くある。つまり自分の取った行動が、後になってイヤになることは良くある。その時、よくこの文章が自分の頭をよぎり、「これも自分が成長した証かも・・」ナンテ思ったことは一度や二度ではない。
それに家庭において、皆が黙っていても平和なことは重要だ。いちいち相手の様子を気にかけなければ平和が保たれない状態などは悲しい・・・。よって家族の皆が、それぞれに読書や他の事に夢中になってそれぞれの世界に浸っていても、皆がそれぞれの相手の立場を尊重している限り、その姿もまた良いものではないか・・・?
ふと現実に戻る。実際の我が家は・・??
まあ毎日、食後のカミさんの「解散!」という掛け声で、自分は2階の自室で自分の世界に・・・。これは大変に幸せなことである。(そのワリに我が家はぺチャぺチャが多いが・・・)
今年も、先の高校の教科書を思い出すが如く、このblogを通して自分の人生を振り返ることにしよう。
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