中村元の「般若心経」(4/7)
中村元先生の「般若心経の講義」を、7回に分けて聴いてみる。
この連続記事は、1985年4月から9月まで、NHKラジオ第二放送で行われた全26回の連続講義「こころをよむ/仏典」 (CDはこれ)の「第12回 空の思想-般若心経・金剛般若経」の部分を、『中村先生の声』と『読み下し文』、そして『中村先生の説明』を、この放送を活字化した、前田専学先生監修の「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」(これ)を元に味わっていく。
むーむーみょーやくむーむーみょうじん
無無明亦無無明尽
ない しー むーろー しーやく むー ろー しー じん
乃至無老死亦無老死尽
むーくーしゅーめつどー
無苦集滅道
むーちーやく むーとく いー むーしょーとっこー
無智亦無得以無所得故
<こころをよむ/仏典「般若心経」~その3>
無明(むみょう)もなく、また、無明の尽くることもなし。乃至、老も死もなく、また、老と死の尽くることもなし。苦(く)も集(しゅう)も滅(めつ)も道(どう)もなく、智もなく、また、得もなし。得る所なきを以ての故に。
さらに、我々の存在を振り返ってみますと、縁起説というもので説明されることがある。とくに十二の項目を立てますので、それを十二縁起と申しますが、その根本には無明(むみょう)、すなわち迷いがある。明らかならず、迷っている。そして、迷いにもとづいて我々は生存し、そして、老い、ついに死ぬわけであります。けれども、高い立場から見ると、それは一つの局面についてあるだけのことであって、全体としては無明ということもなく、また、無明が尽きてさとりを開くということもない。老い、死ぬということもないし、また老いや死がなくなることもない。
さらに、苦・集・滅・道もないという。仏教では「四諦(したい)」(四つの真理)といって、苦・集・滅・道を説きます。我々は今苦しんでいる、これが「苦」ですね。その苦しみの奥には苦しみのもとがある。これを「集」といいます。けれども、その苦しみをなくした境地がある。それが「滅」である。そこに行くための道があり、それが「道」であるという。この「四諦」を説くのですが、高い立場から見れば、何も分けて説く必要はない。さとる智慧というものもなければ、何かを得るということもないのだというのです。何も得るところがない。」(前田専学監修「仏典をよむ3 大乗の教え(上)」より)
十二縁起については、昔書いた(ここ)。「無明」から「老死」まで12ある。もう一度挙げてみると・・・
「無明(むみょう)=根元的無知」「行(ぎょう)=潜在的形成力」「識(しき)=認識作用」「名色(みょうしき)=名称と形態」「六入(ろくにゅう)=六つの領域」「触(そく)=接触」「受(じゅ)=感受」「渇愛(かつあい)=妄執」「取(しゅ)=執着」「有(う)=生存」「生(しょう)=生まれること」「老死(ろうし)=老い死ぬこと」
これについては論じない。つまりあれから3年になるが相変わらず分からない・・・
「四諦(したい)」についても昔書いた(ここ)。
「苦諦(くたい=苦という真理)」「集諦(じったい=苦の原因という真理)」「滅諦(めったい=苦の消滅という真理)」「道諦(どうたい=苦の消滅の道という真理)」
前に書いたものを今再読すると、良く書いてある。でも相変わらず自分は分かっていない・・。このあたりの概念が理解できないと、到底般若心経の真髄に触れることが出来ない。
心経は大般若経600巻の凝縮、というだけあって、その凝縮された世界はあまりに難解。
うーん。分かるまで何回でもチャレンジするしかないな・・・
でも「無明」という概念だけは少し分かってきた?「無知」・・・。
“心経では、「十二縁起」も「四諦」も、何もかも無いと言っているのだから、そんなこと論じなくても同じだ。だって無いんだから・・・”。こんな短絡的な発想を「無明」と言うのかもね・・・
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コメント
「空」
ですね。
投稿: ごくちゃん | 2010年1月26日 (火) 08:24
片割れ様へ またメールします。
般若心経で思い出しましたが、以前「般若心経・観音経・観音信仰について」を購入、般若心経を勉強しようとしましたが、暑中のけだるい僧侶たちの読経のさまや外から聞こえるみんみん蝉の声の録音がすばらしく、かつ大西良慶の素敵な講和で、ギャーテイギャーテイボジソワカ で終わっちゃいました。
投稿: wolfy | 2010年1月26日 (火) 20:53