日本画家・平山郁夫氏の追悼番組
日本画家の平山郁夫氏が12月2日に亡くなって、テレビでも追悼番組が放送されている。 先日放送された「追悼 日本画家 平山郁夫さん 新日曜美術館アンコール 情熱と美のシルクロード」(これ)を見た。(2009年12月6日NHKで放送)この番組は、2年前の2007年9月30日に初回放送された番組で、檀ふみさんが鎌倉の平山郁夫さんのアトリエを訪ねる。
番組は、ハイビジョンならではの素晴らしい画質で平山さんの作品を見つめる。
はっきり言って、自分は日本画など門外漢。でもなぜか平山郁夫という名前だけは知っている。きっかけはやはり「シルクロード」。シルクロードのきっかけは?・・そうNHK特集「シルクロード」の喜多郎の音楽。
古い思い出話になるが、1980年(昭和55年)に放送されたNHK特集「シルクロード」で初めて聞いた喜多郎の音楽に魅せられ、それがきっかけで大陸横断のシルクロードが身近になった。そしてシルクロードを描く平山さんの存在を知ったわけ。
先日森繁久彌さんが亡くなったが、今度もまた“巨星墜つ”である。 番組では、広島原爆の被災者であったこと。そして広島にはどうしても行けなかった心の内。そして被爆から34年後にやっと広島を訪ね、広島から帰るや、直ぐに書き上げたのが「広島生変図」(1979)だったとか。その
絵は、不動明王が見つめる真っ赤な深い悲しみの絵・・・。その姿が強烈で、自分の目に焼きついてしまった・・・。(写真はクリックで拡大=不動明王の部分写真は原画の右上部分の拡大)
そんな平山さんも、学生の頃、自分の絵の道に自信を失い、文学部にでも移ろうかと受験勉強をしたことがあるという。そこでアドバイスをしてくれたのが、新しく来られた美術の先生。「思いつめないでリラックスして勉強したら・・・」と言われ、それが転機となって作風が自由になり、出世作「仏教伝来」につながったとか。その時のことが、先日の朝日新聞の「天声人語」にも載っていた。曰く・・・
「戦後すぐ、意気揚々と東京美術学校(現東京芸大)に入学した150人に、校長は訓示を垂れた。「諸君らのうち宝石はたった一粒です。その一粒を見つけるために君らを集めた。他は石にすぎません」。亡くなった平山郁夫さんの回想である。自分は「石」だと思っていたそうだ。3年生のとき、ついに見切りをつける。だが新任の先生に「君の絵はこれ以上、下手にならない。おおらかにやりなさい」と言われ、続けることにした。
この一言がなかったら、膨大な画業の一切を、私たちは目にできなかったかもしれない。大河を思わせる画業の原点には、広島での被爆があった。だが15歳で見た地獄は、画家の筆を凍りつかせもした。描きたいのは「平和」だったが、原爆の絵は心の傷口を広げるのが怖くて描けない。悩み抜いてたどり着いたのが仏教だった。「怒りではなく『平和への祈り』こそが私のテーマだとやっと気づいた」と、のちに語っている。以来、出世作の「仏教伝来」からシルクロードをめぐる作品まで、その活躍に詳しい説明はいるまい。・・・」(2009年12月4日付、朝日新聞「天声人語」より)
番組では、大きなキャンバスに薄い色の絵の具を何十回も塗る平山さんの姿を写し、平山さんの画風の奥行きを伝えていた。そんな大画伯の平山さんにも、自分の道を諦めようとした時期があったとは・・・。
人生を変えるきっかけは一言の言葉・・・。人生で誰かの言葉に励まされて立ち直ったという話は良く聞く。(関連記事はここ) 日ごろ何気なく話している言葉は、時として良くも悪くも大きな力を生む。
番組で見る平山さんは、まさに悟りきったような穏やかな表情・・。そして、その静かな内側のエネルギーが、シルエットのボヤッとした輪郭の画面から吹き出る。ブッダが悟りを開いた瞬間を描く「建立金剛心図」などはその好例。
この番組は、来週12月13日(日)AM9時からの「日曜美術館」で再放送されるという。保存用DVDレコーダに改めて録画して、大切に残しておこうと思った。
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コメント
平山郁夫画伯は、私も若い頃から大好きな画家です。幻想的でいて落ち着く絵、氏の人間性にも惹かれます。
興味を持って私も番組を見ました。
後半で、ここに載っている原爆の絵「広島生変図」が出てきました。心惹かれる素晴らしい絵です。凄い迫力です。
そこでの氏のコメントで、たとえ原爆の絵でも「美しくなければいけない」と言われた言葉に少し耳を疑った。
「美しくなければ絵(美術・芸術)ではない」という信念・論理のもとに描いているため、原爆を題材としたこの絵では地上はほとんど描かれていない。当時、目に焼きついて決して離れることのなかった紅蓮の炎、一面の炎の中の不動明王、下のほうに焼き尽くされる広島の街が少し描かれている。
現実に広島で原爆を体験し、地獄を見た平山郁夫氏だからこそ、重すぎて原爆の絵を描くことを長く拒んでいたのであろう。
氏が被爆し、その後三十数年遠ざかっていた広島を再び訪れた後、初めて描いた原爆の絵。後にも先にも一枚だけの原爆の絵。
私ごとき者が言ってはおこがましいが、この絵に関して言えば、原爆に触れずにきたそれまでの氏の心そのままであろう。あの言葉を聞いて絵を見ると、現実に見た地上の地獄から逃れている。逃れたがっているようにさえ見える。
絵は素晴らしい。しかし、「たとえ原爆の絵でも美しくなければいけない」という画家・大画伯としての心情は、当事者にとっては正にその通りなのであろうが、凡人の私には今ひとつ釈然としないものが残ってしまった。
司会者も、その点ちょっと懸念したように言ったのだが、私もその言葉だけ聞けば、①原爆を美化してしまっているようにとられはしないだろうか。②丸木位里さんはじめ原爆の絵を描いてきた多くのもの、また、ピカソの「ゲルニカ」などはどうなるのであろう。そんな思いが、番組を見ながら脳裏を駆け巡ってしまった。
私は、この「広島生変図」はまだ見ていません。一度実物を見たいと思います。
大好きな平山郁夫画伯にはもっともっと絵を描いて欲しかったです。
ご冥福を祈ります。
(長くなってすみません。)
投稿: ジャン | 2009年12月 8日 (火) 02:00
ジャンさん
確かに「美しくなければ・・」と言っていましたね。でも、そのために「広島生変図」で地上を描かなかった、とは捉えませんでした。
ともあれ、その道の第一人者が段々と去っていき、残念ですね。
投稿: エムズの片割れ | 2009年12月 8日 (火) 22:03
エムズの片割れ様
おはようございます シルクロード いいですね ローラン トルファン あの辺り行ってみたいです 平山郁夫さんは昔 成増に住んでいてその頃芸大の助教授をされていました 廉さんという息子さんがいらして僕のクラスメートでした 中学の頃です 彼も絵が上手でしたが考古学のほうが好きなようでした 当時FMはジェットストリームが人気でした 大阪万博のころですね 懐かしいです
浦和のマン
【エムズの片割れより】
しかし平山さんの逝去は早過ぎた・・。でも79歳では仕方がないか・・・
息子さんは、カメの研究で早大の教授とか・・。芸術家ではなかったんですね。
投稿: 浦和のマン | 2011年10月11日 (火) 09:34
エムズの片割れ様
ええ でもかなり個性的で絵も上手でした カメのまえは 恐竜だったと思います 平山郁夫さんの あのラクダの絵 はじめて見たのは 僕が中学1年の時でした 平山先生が日本画をはじめた動機は その線の美しさだったそうです
浦和のマン
投稿: 浦和のマン | 2011年10月14日 (金) 20:51