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2009年12月25日 (金)

「日本海軍 400時間の証言」~戸高一成氏の話

NHKラジオ深夜便で「インタビュー「海軍から、戦争を考える~旧日本海軍と私」呉市海事歴史科学館“大和ミュージアム”館長…戸高一成」(2009年12月8~9日放送)を聞いた。

前にNHKスペシャルで「日本海軍 400時間の証言」という番組があり(これ)、当blogでも取り上げた(ここ)。また先日、このことについて半藤一利氏らが語る「日米開戦を語る 海軍はなぜ過ったのか~400時間の証言より~」(2009年12月7日放送)も見た。
これらの元になった「海軍反省会」のテープを保管していたのが、この戸高一成氏とのこと。日本海軍について詳しい方だけに、迫力ある発言が耳に残った。少しメモしてみた・・・

・海軍反省会は、なぜ戦争が起きたのか、なぜ回避できなかったのかについて、現場の様子を伝えておかなければいけない、という認識の下、昭和55年から平成3年までに131回開かれた。
・終戦のとき、今まで戦争で負けたことが無かった日本軍は、歴史的な史料を全て焼いてしまった。米軍はそれを察知し、焼かれる事を免れた史料などを日本との戦争の研究のために米国に持ち去った。それが昭和30年代に日本に返却されて、戦争を語る貴重な史料となっている。
・戸高氏は多くの元海軍のお年寄りから話を聞く機会があったが、聞いた話が本になると、角が取れて本音が無くなる。よってナマに聞く話が本当の事実だと、気付いたという。
・海軍反省会の50回位までは(自分の上司だった)反省会の幹事の雑用係をしていたので、テープは全て自分で保管していた。この会は、生前は発表しないという前提で録音された。もし生前に発表されると、人から非難される可能性があり、そうすると本音が言えなくなるので・・。その後20年くらい経って、そろそろ発表しないとチャンスが無くなると考えた。後半の幹事をしていた人を探したら、90歳以上になっていたが健在で、残りのテープの保管も頼まれ、全部を管理することになった。
・反省会は、お互いの記憶の確認から始まり、特攻などについては、誰に責任があったのか、など厳しい指摘もあった。また反省会を通じて、自分たちは一生懸命やったのだという言い訳的なことも言っておきたい、という背景もあった。
・海軍は、天皇の参謀としての軍令部が、10人もいない体制の中で大枠の作戦命令を天皇の代理として出す。数人で、どの程度世界の情勢を把握して命令を出していたのかは疑問。当時の軍人に実践の経験者は皆無。日清・日露以来、日本は戦争らしい戦争は無かった。日露戦争の経験者は山本五十六ただ一人。だからずるずると開戦に至った。ドイツが勝つ前提で「バスに乗り遅れるな」と・・・。その時は既にドイツは衰退方向だったのに・・。
・色々な情報は軍令部に上がっていたが、人は上がってきた情報のうち、自分に都合が良い情報をピックアップする傾向があるが、軍令部もそれと同じだった。
・戦争回避を主張すると陸軍のテロに遭う危険性があるため、国の存在よりも個人の事情を優先した。
・体制的に責任の所在が不明確。軍令部は天皇の参謀として大枠の命令は出すが、現地での戦略は現場の連合艦隊が行う。よって失敗しても責任が不明確になる。軍令部は現場が悪いと思い、現場の連合艦隊は方針そのものが悪かったと思う。だから失敗を次の戦略に活かすことが出来なかった。
・真珠湾攻撃は、軍令部はダメと言ったが、連合艦隊がどうしてもやると言うので追認した。それがうまく行ったので実行部隊の発言力が強くなった。ミッドウェー海戦では、軍令部が反対したが、連合艦隊は「ダメだと言うなら山本長官が辞任する」とウソを言って意見を通した。そして次第に統制が取れなくなって行った。そしてミッドウェー海戦で空母4隻を失い、勝つ作戦は有り得なくなって講和するしかない状況になっても、もう一度やれば勝てるという夢にすがりついていた。これは日露戦争での日本海軍の完全勝利により、自分自身に無敵艦隊であると刷り込んでいたため、海軍には“負ける”という言葉が無かった。
・当時海軍は、海外に対する認識が一番高かった。それにも拘らず、海軍は開戦を決意した。この決意したこと自体が最大の失敗。失敗によって始まった戦争なので、勝ちようがなかった。
・軍は本来戦争をしないために存在する。抑止力として存在する。それなのに戦争を始めた。
・特攻作戦は、確かに志願した人もいたが、人に死ぬことを強要した悲惨な作戦。特攻の生き残りの人が言っていた。「行けと言われれば行く覚悟は出来た。しかし、ずっと待機しているのが一番つらかった。いつ行くのか分からずに毎日を過ごすのがつらかった。行くとき、命令されて直ぐに行く方がよっぽど気持ちが良かった。特攻の待機だけは耐え難い」・・
・特攻に行った人を英雄と持ち上げるのは、これを命令した人たちの責任を回避するもの。それが特攻の影の部分。
・軍は国防の組織。国防とは国民を守るための組織。それを特攻という国民を殺す作戦を立て、本末を失った。
・本当は、日本は戦争能力を失った時点で戦争を止める方向に向うべきだが、誰もそれを言えなかった。誰も負けたと言い出せなかった。
・戦争も考え方によっては国の「戦争事業」。事業が失敗したときには止めなければいけない。それを言うには勇気がいる。その勇気を誰も持っていなかった。それを誰が言ったかというと、天皇。
・特攻のとき、命令した上司は「後から俺も行く」と言って送り出した。命をかけてした約束を、終戦だからと言ってケロッと忘れて良いものか・・・
・これらの資料を公開して、海軍の関係からは感謝された。海軍の人は皆立派な人。それなのに開戦せざるを得なかった。この失敗の経験を事実は事実として認め、次の世代に活かす目的でこの反省会は開かれ、公開された。

この戸高氏の発言には、色々と異論もあると思われる。しかし、この話を聞いた自分は、何となく納得できた。戦後生まれの氏が、海軍について学生時代から仕事としてずっと研究してこられたことから、立場的に海軍に同情的かと思ったら、意外やクール・・・。間違いははっきりと間違いだと言う。半藤氏と同じく、自分の長い取材活動から導き出された言葉なので、それなりに重い。

でもひとつ思うのは、歴史は全ての事実が終わった後、それらを俯瞰しながら、棚の上に乗って色々と批評はできる。しかし、全てが現在進行形の時点で、また国民的熱狂の中で、もし自分が当事者だったら、後世から正しいと評価される行動が取れたかというと疑問だ。多くの国民と同じく“非国民”と言われるのが怖くて、付和雷同するような気がする。

先の事業仕分けで、「(仕分け人は)歴史の法廷に立つ覚悟があるのか」と指摘した人が居られたが(ここ)、これら色々な戦争の話を聞くたびに、そんな覚悟を持って行動された戦争指導者が本当に居たのか、疑問を持つ。
しかしこれら海軍の人たちは、黙っていればそれで済む話をあえてこのような形で後世に残した。それはそれで勇気ある行動なのだろう。
ともあれ、先のテレビ番組もそうだが、これらの話は自分の戦争についての良い勉強になった。

(関連記事)
NHKスペ「日本海軍 400時間の証言 第1回 開戦 海軍あって国家なし」を見て

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