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2009年11月15日 (日)

「生かされているいのち」

前の記事(これ)に引き続き、「大法輪(2009年12号これ)」で気になった記事。

「釈尊の「覚り」
  真宗大谷派教学研究所長・大谷大学前学長 小川一乗
・・ところで、釈尊の「覚り」とは、生まれ死ぬ「いのち」への目覚めです。私たちは、「いのち」を私のものであると、「私のいのち」として、それを私物化して生きています。しかし、釈尊は、「私のいのち」ではなく、さまざまな因縁によって「生かされているいのち」であることを明らかにされました。それが「覚り」を支えている「いのち」への目覚めです。「生かされているいのち」であるから「縁起するいのち」であり、因縁が尽きれば残存する「いのち」はありえないから、「無我なるいのち」であり、そのような「いのち」は本来的には「空(ゼロ)なるいのち」なのです。
私たちは「いのち」を私物化して、自分の思い通りに生きようとします。しかし、思い通りに生きられず、苦悩が絶えません。「生かされているいのち」を生きていることへの目覚めがないからです。釈尊の「覚り」に同感したとき、「私のいのち」という自我(エゴ)の思いによって作り出されている苦悩から開放されて生きる者となれます。そのような仏に成りたい、と願わずにはおれません。
そういう私たちのために、大乗の菩薩たちは、「すべての人びとが仏に成らなければ、私も仏に成らない」という、菩薩行を展開したのです。」(「大法輪」2009/12号p57より)

まさに我々は、自分の命は自分のものと思っている。だから例えば病を宣告されたとき、「何でオレだけが・・」と思う。何かによって「生かされている」なんて、とても思えないので・・・。でもそれが本道だという。それが目指す道(覚り)だという・・・。
そして「因縁が尽きれば、空なるいのち」だという。言葉では「そうだろうな」と分かっても、心では分かっていない。なぜか?「空」が分かっていないから・・・
だから自分には「覚り」なんて程遠い世界・・・。

でもこの文章は、般若心経を解説しているようにも聞こえる・・。ふと柳澤桂子さんの「生きて死ぬ智慧」の全文朗読を思い出して聴いてしまった。(これ ←聞いた事がない方はぜひ一度ここをたたいてみて下さい。=Windows Media Player)

肩を怒らせないで生きる事の難しさ・・。でも自分も還暦を過ぎて、だいぶん肩から力が抜けてきたとは思うのだが・・・・。

<付録>
「木魚」はなぜ魚に関係するのか?
昔、中国人が魚をじっくりと観察し、魚が四六時中、目を閉じないことに気付いたという。そのことから、古くから中国では魚は夜も昼も眠らない勤勉な生き物であると考えられたのだ。・・・読経中や座禅中、あるいは師匠の話を聞いているときに、つい居眠りをして大目玉を食らった僧侶も少なくなかっただろう。そこで、怠惰や居眠りを戒めるために、勤勉な魚の形をした鳴り物を考案したのである。・・・(「大法輪」2009/12号p184より)

(関連記事)
「般若心経」と「穏やかな心」

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