「暮らしの中の仏教語―その本当の意味」
雑誌「大法輪」の今月号(10月号)は「暮らしの中の仏教語―その本当の意味」特集で、なかなか面白い(これ)。まだ「意味が変わってしまった仏教語」しか読んでいないが、「ヘエー・・」が多い。下記に少し紹介・・・(以下「大法輪」2009年10月号p62~75より)
<本来の意味と逆の使い方がされている例>
「道楽」~本来の仏教語では仏道の修行によって得た法悦の境地をいい、「法華経」「薬草喩品」に「道を以って楽を受け」とあるように、仏教修行のよき果報を意味した。しかし今日一般的には、本来のなすべきこと以外の道にふけり楽しむことに転じて用いられる。道楽者や道楽息子というと、まわりの者に迷惑をかける困った存在であり、本来の意味とは正反対である。
「無学」~仏教語としては煩悩を絶ち尽くし、もはや学ぶべきもののない境地をいう。・・・しかしこの語は一般的には、学問・知識がないことを意味する。
「唯我独尊」~釈尊の誕生伝説の一つで、生れ落ちたとき。七歩歩いて右手で天を左手で地を指し、この言葉をとなえたという。本来の意味は、この世界に生まれてきたいのちの、かけがえのない尊さを示したもので、宗教的に大切な意味が込められていた。しかし通俗的には、自分だけが偉いとうぬぼれるさまとして用いられ、悪い意味に変化している。
<音写語で、字そのものに意味が無い例>
「断末魔」~人が死ぬ時に感じる苦痛のことを「断末魔」と言います。「末魔」とは、そこを絶たれたら死に至るとされる、人体の中の急所を意味する「マルマン」というインド語の音を写した仏教語。「末魔」が音写語だと知らない人は、この語が持つ語感に、「世界の終“末”に現れる、恐ろしい究極の悪“魔”」みたいな、スゴいものをイメージしていたかもしれませんね。でも、漢字自体には何の意味もないのです。・・・・
そのほか「自業自得」「示談」「退屈」「他力本願」「般若」などなど、本来の意味と実際に使われている例とが異なっている例などが、たくさん紹介されている。
でも、次の「安心」を読んだら、“安心”した・・・。
「安心」~・・・仏教用語では「あんじん」と濁って読むことが多く、本来は、信仰や実践によって定まった心、何事にも動揺しない心、安らかな境地をいいます。それは面倒なことが無くなったという一時的なものではなく、さまざまな出来事の中でも揺らぐことのない本当の安らぎの境地なのです。
自分とて、還暦を過ぎてはいるものの「安心(あんじん)」の境地には程遠い・・・。
しかしこの特集で、いつも何気なく使っている言葉にはそれぞれに永い歴史があり、仏教に根ざしているものがいかに多いかを改めて認識させられた。一つの言葉を取り上げても、そのルーツを辿ると論文のひとつや二つは書けるかも・・・
話は変わるが、先日、高校の後輩から、昔高校の担任だった先生が退職後に書いた回想録の「生きた証」という(自費出版の)本の書を借りて読んだ。これについては別に書こうと思うが、自分が生きてきた道を、キチッと活字に出来ることがまず素晴らしい、と思った。
文字でも、建物でも、人生でも、芸術作品でも、そして目の前にあるあらゆる物など、世界のあらゆる事柄には、それぞれに「経歴・歴史」がある。“毎日が日曜日”になったとき、何か一つでも取り上げてその「経歴」調べにのめり込むのも面白いかな・・・と思った。
例えばこの特集の“言葉の世界”でいうと、英語のようなアルファベットの言葉は、歴史はあるのだろうが“ナマってこうなった・・”が多いような気がする。それに対して日本語は、表意文字の漢字を使っているだけに奥が深いと思うのだが・・・・
ともあれ「般若心経」ではないが、「空(くう)」の世界観からいうと、物質は全てバラバラに分解して無くなって行く。それに対して、言葉や文化など、目に見えないものは永遠の命があるようにも思う。
人の数だけある様々な人生・・・。お骨になったら誰からも忘れられる・・、というのも寂しい? それともさっぱりして良い?
何か「言葉の由来」の本を読んでいて、ふと自分の人生を考えてしまった。自分は、先の横田先生の回想録「生きた証」のようなものが書けるほどの人生だったか・・?、と考えるとドキッとした。もう間に合わないけど・・・
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